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17 そして紺碧の空のもとから始まった

 机に突っ伏したアルマは、小鳥のさえずりに促されパチリと瞼を持ち上げた。


 ────え、今……何時?


 怖々と壁掛け時計に視線を向けると、午前六時をとっくに過ぎており、長い針はⅥを示そうとしている。


 朝の礼拝は終わり、既に修道女達の礼拝が始まった頃合いだ。まさにそれを知らせるように、二度目の礼拝を告げる鐘の音が響き渡り、アルマはがっくりと肩を落とした。


 もはや寝坊も良いところ。

 焦って向かったとしても大迷惑だ。諦めたと言わんばかりにアルマは寝癖だらけのこういろの髪を解かし、二つに結って三つ編みにする。そうして身支度全て整えた後、静かに部屋を出た。


 ──昨晩アルマはテオファネスを連れ出して外に出た。


 修道院を抜け出して湖畔に向かい、二人で星空を眺めて呆然と時間を過ごした。

 当たり前だが、規則正しい修道院生活を送っているので、夜の湖畔なんて来た事も無い。

 満天は鏡のような湖面に反射し、星が水面に揺れる様は幻想的としか形容出来ない。アルマは感嘆して、その美しい光景に息を飲んだ。


「凄い。湖に宇宙を閉じ込めたみたいだ」


 テオファネスはそんな事を言っただろう。

 あまりに感動したのか、いつになく彼はじようぜつだった。


 故郷スピラスでは星々は神話と深い繋がりがあると彼は語った。

 星は神々や死者の化身。彼らはいつだって空から見守っているとテオファネスは言う。


 そんな話から、彼は続けて故郷の話をしてくれた。

 まさに内陸国のベルシュタインとは正反対。彼の生まれ育った場所は四方八方青々とした海に囲われた島だったらしい。


 スピラスの領土は幾つもの小さな島と大陸のほんの一部。比較的小さな国だったらしい。


 家は島の中でも一際小高い場所にあったそうで、そこで彼はスピラスがアルギュロスに侵略される十三歳まで両親と二人の妹と暮らしていたと言う。


 眼下に望む町並みは青い屋根に白の壁のたった二色。

 民家の壁に這うブーゲンビリアという蔓性植物が赤紫の花を咲かせる快晴の夏は空の色と海の色、街の景色が混ざり合って、とても美しかったと彼は語る。


 アルマは間近に山を臨むこの地から出た事も無い。海なんて見た事も無いので、想像しただけで興味が引かれた。

 しかし、彼の母国は滅びたのだ。二度とその景色見る事ができないと想像も容易く、当たり障りの無いように……海の話をもっと聞きたいと言えば、テオファネスは嬉しそうに答えてくれた。


 そうして会話をする事、幾何か。

 そろそろ修道院に帰ろうとした時──彼が途端に聞き慣れぬ単語を発したので、アルマは不思議に思って彼を見た。極稀にラジオで耳にする、アルギュロス語ではない。


「母国語?」


 そうくと彼は頷き、更に言葉を紡いだ。それは何とも言えぬ語感だった。自分たちが使うシュタール語に比べて濁りは少なく妙に心地良い。


 しかし、今の言葉の中に自分の名が含まれていた事が分かり、不思議に思ってアルマは眉を寄せた。


「今、私の名前を含んでた気がするけど……何って言ったの?」

「〝アルマありがとう〟って言っただけ」


 いや、それにしては長かった気がするが……。

 何だか彼が照れ臭そうに笑むので、それ以上聞かぬ事にしたが、それでも少し気になった。


「そういえば、テオって何カ国語くらい話せるの……?」


 帰路の最中そんな質問を投げかけると「アルギュロス、シュタール、スピラスの三つ」と彼は答えた。


 アルギュロス語においては、スピラスでも浸透しつつあったので、幼少期に家庭教師から習ったらしい。

 しかしシュタール語は、ここ数年で覚えたとの事。もはや環境が変わるうちに嫌でも覚えたそう。


 この話から、彼は本来はなかなかに立派な家庭に育ったのだと想像できた。


 何せ家庭教師だ。

 つまり人を雇っている事になる。そちらの国の教育事情など知らないが、ベルシュタインでは家庭教師を付けて勉学が励めるなど庶民階級の家庭ならばありえない。


 せいぜい町の小さな学校に三、四年程度通わせる程度。女児においては貴族階級者以外学校に行かせる事もほぼ無いので、文字の読み書きと簡単な計算しかできない。勿論アルマもこれに該当する。


 礼の一つ、立ち方、カトラリーの使い方。テオファネスは、所作にどことなく品があるとは普段過ごす中で思っていた。

 現在、機甲マキナとはいえ、本来はそれなりの身分に違わない。


 しかし、辛い立場だ。踏み込んでけたものではない。


「テオの国の言葉って綺麗だね。ねぇ、気が向いたら今度教えてよ?」


 そんな風に言うと、テオファネスは嬉しそうに頷いてくれた。


 そうして修道院に戻り、アルマは彼を部屋まで送り届けた。

「部屋の場所は分かる」「静かに歩けるし、一人で戻れるから大丈夫だ」と彼は言ったが、やはり万が一にも誰かに鉢合わせた時を恐れて、アルマは彼を部屋まで送り届けた。


 そうして、宿舎に戻った時には午前三時を越えていた。

 朝の礼拝まで二時間と少し……。ベッドに入ってしまえば、間違いなく寝過ごすと思い、起きている事を決め込んだが如何いかんせん眠気には勝てなかった。


 そして、現在に至る訳だが……。 

 ────どうして寝るのよ。私の馬鹿。


 心の中で独りごちるが、それでも未だ眠い。直ぐに欠伸が漏れ出てしまい、アルマは手を口に当てつつ、礼拝堂に続く蔓薔薇のアーチを歩んでいく。


 もうそこにはエーデルヴァイスの乙女の姿どころか、修道女の姿も見当たらない。とりあえず、院長に謝罪に行くのは修道女の礼拝が終わってからだ。礼拝堂に辿り着いたアルマは、外壁にも寄りかかって礼拝の終わりを待った。


 それから幾何か。修道女達の礼拝が終わり、ぞろぞろと黒衣に身を包んだ女達が扉から出てくる。人がはけたのを見計らってアルマは院長室へ向かった。


 きっと長ったらしい説教をされる……と、身構えていたものの、意外にも院長はあっさりした。

「反省をするのであれば、明日から行動に移す事」

「罰はもう自分で考えなさい」

との事で……。


 しばらくは、空き時間に礼拝堂周辺の草取りをすると言った所、院長は承諾し、それにて説教は終了した。


 しかし大寝坊で通常の生活時間より三十分以上の差がある。もうそろそろ今週の当番が、子供たちを朝の礼拝に連れて行く頃合いだ。


 つまり、テオファネスの食事時間である。アルマは急ぎ、孤児院に向かって駈け出すと、丁度子供達を引率したイリーネとユリアに出くわした。


 案の定すれ違いに寝坊の事を早速弄られたが、こっちは大急ぎだ。返事もそこそこに去って行くと「寝ぼすけ女」なんてゲラゲラ笑う子供の声が聞こえてくる。

 間違いなく、あの問題児レオンかロルフのどちらかに違いない。後で時間があればこってり絞っておくべきだろう。

 そんな事を考えつつ、アルマは急ぎ孤児院内に入っていった。 


 自分も食事をとっていない。もういっそ一緒に食べてしまった方が片付けも楽だろう。食堂で二人分の食事を用意してトレーに乗せると、アルマは急ぎ階段の上り彼の部屋に辿り着く。


「テオ、起きてる? 開けて」


 今日に限っては両手が塞がっているので、ドアノブも捻れない。

 しかし、なかなかに出てこない。そうして今一度彼を呼んで間もなく──ようやく足音がしてドアが開いた。 


 間違いなく寝ていただろう。テオファネスのおもてはどこか眠たげで、つり上がった瞳は半分程しか開いていない。寧ろ不眠症を患っているくらいなので、起こしてしまった事が少しばかり申し訳なく思えてしまう。


 ──それにしても患者衣が開け過ぎているので、如何いかんせん目のやり場に困った。


 左肩からデコルテにやや広がる金属質な侵食部位と皮膚の境は意外にも自然。しかし、それ以上に胸板の厚さや腹の筋肉がくっきりと割れている様に自然と目がいってしまった。

 ……どこからどうみても自分とは違う。線が細くとも無骨な男性の身体をしている。


 首からじゃらじゃらと提げた兵士の証──認識票。やはり、これが彼が動く時に鳴る音の正体だ。

 その証拠と言わんばかりに、彼が身じろぎすれば軽やかな金属音が鳴る。


 ……合計八枚。

 アルマが認識票の枚数を数え終えた頃、彼はようやく寝ぼけから覚めたのか、慌てて開けた患者衣の衿を合わせた。


「お……おはよアルマ。今日は食事量多いね……持つよ」


 そう言うなりテオファネスはアルマの手からトレーを取って、中に入るように促した。


「一つは私の分。寝坊しちゃったの。悪いけど一緒に食事にしても良い?」


 そうくとテオファネスは照れ臭そうに一人分のスペースを空けてソファに座した。


「構わないよ。だけど、寝坊って昨日俺を連れ出したからだろ」

「……そうに違いないけど。そこは私の自己責任。自分がそうしたいって思っただけだから気に負う必要は無いよ」


 きっぱりと言うが、彼は少し複雑な顔を浮かべていた。


「冷める前に食べよう?」


 そう促して、アルマが食前の祈りを捧げると隣でテオファネスも腕を組んだ。

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