──六月二十五日、曇り。
日記を綴り始めて、一週間が経過しようとしている。我ながらに本当によく続けられていると思う。彼の調子は好調だ。どう見たって健常者。あれ以降、全く影は見えなくなった。このまま穏やかに良くなれば良いと思う。
それでも環境に慣れ始めた所為か、寝付きが少しずつ悪くなって来た様子が
けれど、常用して慣れが生じたら困るので、こちらは様子見で。明日は、空き時間にレメディー作り。それに丁度カモマイルの花の季節だ。今のうちに、薬草園で刈り取りをしてドライハーブを作ろうと思う。それと、東方の医学書に書かれていた神経を落ち着かせる為に……。
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そこまで書いて、アルマはペンを置き、
そうして、声にもならぬ唸りを上げるとアルマは机の上に突っ伏せた。
──日中の空き時間、孤児院にある図書室に篭もって不眠症を調べていた所、東方医学では〝人のぬくもりが神経の昂ぶりを抑える事が出来ると言われている〟との一文を見た。
傷の処置などを〝手当て〟と言うが、まさに手を添える事によって、心の苦痛の緩和が出来るとの事。良い例が、抱きしめる事だ。
確かに
とは言っても、二十歳の男に「抱きしめなさい」と身体を差し出す訳にはいかない。流石にそれは、はしたない。なので、本に書かれた手段……マッサージを行う事にした。
掌や足の裏に頭など……人間には経穴と呼ばれるくぼみが沢山ある。そこを刺激すると、血流が改善され心身の安らぎに繋がるという。花のレメディーに比べれば微塵も胡散臭くない。だからこそ、アルマは直ぐにこれに食いついた。
しかし……半身金属に侵されたあの身体だ。果たして受け入れると思ったが、彼は存外あっさりと快諾してくれた。
両手で包み込んだ手は骨張っておりとてつもなく無骨。
流石は戦の最前線に立っていただけあって、骨張った掌の感触も幾分か硬い。初対面で手を握られたが、より逞しさが分かった。
そうして、彼の右手を両手で包み込んで摩り始めて間もなく──妙にテオファネスの手が熱くなった。
気持ち良いのだろうか……。
そう思って彼の顔を見れば、湯気でも上りそうな程に真っ赤になっており、その様を見てこちらまで恥ずかしくなってしまったのである。
「思ったより恥ずかしい。妹はいたけど……女の子に触られるの慣れてないんだ。変に意識すべきじゃないの分かってるけど、照れ臭いというか……」
なんかごめん。と、腕を引っ込められて中断する羽目になったのだ。そんな言葉を言われたら、こちらだって妙に意識してしまって、それどころではなくなってしまった。
そうして、少しばかり気まずい雰囲気のまま雑談したが、彼は一向に眠る気配も無かった。挙げ句の果てには「多分、そのうち自然に眠くなるから戻って」とまで気遣われて、アルマは宿舎に戻り今に至る。
────まったく。照れられると、こっちまで恥ずかしくなるじゃない。だけど、女の子に慣れていないって……あの人、私の想像とは随分かけ離れているかも。
女性に慣れていれば紅潮などしないだろう。それに、あの身体になった経緯を本人の口からざっくりと聞いたが、アルギュロスに母国を滅ぼされてから。詳しい年月は知らぬが、詮ずるところ
あの身体になり、戦場に駆り出されて……よくよく考えれば、女性関係など皆無に等しい事も頷ける。それを踏まえて考えると、カサンドラの言った〝女子に慣れていない〟という言葉は紛れもない事実だろうと思えた。
アルマは大きなため息をつき、のろのろとした所作で顔を上げた。壁掛け時計に目を向ければ、既に消灯間際だった。
────さて。いい加減に寝よう。
書きかけの日記帳を閉じて、電気を消して直ぐ、アルマはベッドの中へ潜り込んだ。
しかし、瞼を伏せて幾らか経過しても一向に眠気はやってこない。先程の彼の顔とおどおどとした話し口調が頭にチラついてしまうからだ。
「あぁ、もう!」
上掛けを蹴飛ばし、薄く瞼を持ち上げる。
真っ暗な天井をぼんやりと見つめてアルマは一つ一つテオファネスとのやりとりを
……他が対峙出来そうに無いから
そこに信頼関係などあるのかとふと思う。だが、金属に侵された身体を気にしている割に、彼は提案に従い手を差し出してくれた。
嫌ならば断る筈。だが彼は手を差し出された。
たったこれだけだが、僅かな信頼関係は結ばれているように思うが、途端にヒリヒリとした強い罪悪感が襲い来たのである。
あの時吐いてしまった「人でなし」だ。
それが痛い程に胸の奥を焼き尽くす。
幾らか時間が経過してから謝ろうとは思っていた。
勿論、いくらでも謝る機会はあったが、
それに、自分が提示した『この部屋から出ぬように。私以外との関わりは無いように』との約束だ。これにおいても、本当にそれで良いのかと思えてしまった。
事実あの見てくれなので、子供たちを怯えさせてしまうだろうと心配した。別に彼は危険でない。
むしろ、本来は気遣いがよくできて臆病なのだ。
それは、この一週間程でよく分かった。
この制限や自分の発言こそ、彼を人としてみなしていないような気がしてしまう。これでは彼の処分を下したお偉い軍人と変わらぬようで……。
────私、いい加減に謝るべきだ。あの人、本当はとても傷付いているかもしれない。
温厚な対応に安心している自分が馬鹿みたいだと思った。
この処遇をどう思っているのか気になった。アルマは身体を起こし、布団をくしゃりと握りしめた。
明日
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孤児院の夜は修道女が当番制で二人滞在している。
時にエーデルヴァイスも滞在する事もあるが、エーデルヴァイスは朝の礼拝が早い事から、殆どは修道女任せだった。
孤児院は夜十時に消灯だ。部屋を出た時に詳しい時刻など見ていなかったが、恐らく十一時過ぎ。既に子供達も修道女も寝静まったに違わない。
…………絶対に見つからぬように。
明かりも持たずに孤児院裏手まで来たアルマは、静かに裏戸を開き、音を立てぬように扉を閉める。裏戸は食堂のキッチンと繋がっている。
そこから上階へ向かう階段まではやや距離があるが、寝室は二階なので恐らく気付かれる事も無く辿り着けるだろうと思った。
静かに歩を進めて階段を上り最上階へ。物音を立てぬ為、
暗闇の中、小さな菫色の光の玉が空中で揺れていた。
……夜半になると、孤児院三階部分は人の霊魂が浮かび漂う。
「早く寝ろ」「三階に踏み入るな」との意を込めて、子供達に使う脅し文句としてこれは修道院内で昔から浸透しているらしい。
しかし、これは嘘と言い切れない。
ここは元療養棟──事実、ここで亡くなった人もいるのだから。死を待つ苦しみに心が壊れてしまった人だっていたそうだ。
しかし所詮は、ただの子供だましの脅し文句。そんなもの、ハッタリだと思い込んでいたが、まさか本当に……。
アルマは顔を青くして一歩退くと同時だった。
チャリ……と金属質な音が響いた直後、光は目の前まで迫り来た。
あまりに驚嘆して悲鳴が漏れ出そうになるが、その途端、きつく口を塞がれアルマは大きく目を
「……ま、間に合った。大声を出したら絶対まずいだろって思って。どうしたんだ? こんな遅くに」
焦った様子の掠れた声はテオファネスのもの。間近に映る菫色の光。それが、彼の瞳と分かり、心底安堵してアルマは脱力してしまう。
「え、ちょっと。アルマ大丈夫か?」
困惑した彼に肩を支えられた。アルマがおどおど頷くと、彼は安堵したようで深い息をつく。
「……いつもね、寝たのを確認して部屋を出るから知らなかったけど、テオの左目って暗闇で光るのね。遠目で霊魂と勘違いしたの」
その答えに、彼はぱちくりと目をしばたたく。
「どういう事?」
「大した事無いの、よくある怪談よ」
噂が噂で良かった。心底安堵しつつ彼を見上げると、テオファネスはアルマを覗き込んで不思議そうに小首を
「……ちゃんと寝ていて欲しいけど、まだ起きてたなら都合が良かった。どうしてもテオに謝りたい事と
そう言うなり、彼はアルマの身体からパッと手を離し、気まずそうに頷いた。