説教、否。強引な依頼と説得をさせられたアルマは、孤児院のある建屋に向かっていた。
──ザフィーア修道院は礼拝堂を中心に、南はかつての療養所・現在孤児院。北には修道女やエーデルヴァイスの宿舎がある。庭もありなかなか広い。
それでも初夏の朝は爽やかだ。新緑のマロニエの木から溢れる朝日は温かく心地が良い。
それに、孤児院の建屋までの移動の景観は良いので、アルマは少しだけ表情を緩めた。
……目の前には青緑の広大な湖。礼拝堂の背後には雄大に佇む霊峰ザルツ・ザフィーア。地元民の愛する景色が贅沢にも見える。
見慣れた当たり前の景色だが、愛すべき景観だ。
中でも、訪れた外国人はこの景色に心から感動するそうで、戦前は多くの多くの画家や詩人がこの地に足を運び、作品を創っていたらしい。
そんな、景色のひとつ。この修道院の歴史は古く、五世紀以上も昔からこの地にあったらしい。
それでも一般的な修道院とは違い完全な男子禁制ではない。
日曜は一般開放されており、近隣の住人が礼拝堂を訪れ祈りを捧げに来る。もはやここは、ヴィーゼンの象徴的な場所で誰しもの心の拠り所に違いなかった。
羊飼いの娘として生まれた自分が、まさかここに入るだなんて思いもしなかった。
馴染みのある場所に違いないが、天使になると思いもしなかった。それもエーデルヴァイスの赦しの力を発現させるだなんて。
霊峰で花と化した天使はなぜに自分が選んだのか……。
幾度も考えてしまうが、やはりそんな事は分からない。立ち止まったアルマは静かにそびえる霊峰を見つめ、深く吐息をついた後、孤児院の中に入っていった。
……孤児として迎え入れられた彼の名は、テオファネス・メルクーリというらしい。
齢は二十歳。アルギュロスから輸入され、現在はシュタールの所有物。既に廃棄という扱いとなっている。
製造コード的に最初期の
戦場での体験が心的外傷になり、ストレス障害の疑い。それ故に重度の不眠に悩まされている他、稀に過呼吸を起こす事があるそうだ。
ハーブティー・ハーブチンキ他、花のレメディーで自然治癒を検討。と……院長から渡されたカルテさながらの情報に目を通しつつ。アルマは数冊の本を入れた鞄を提げて孤児院に向かい歩み始めた。
何やら、子供たちが起床する前に、誰も踏み入れない最上階の部屋に隔離を済ませたらしい。
いくら人と変わらず危険が無いと言え、
子供たちに混乱や恐怖を与えかねないので、この処遇となったようだ。また、他のエーデルヴァイスには彼の事は夕方の礼拝時にきちんと話すとのメモ書きもされている。
────本当に大丈夫なのかな。
様々な不安はため息にしかならない。
幸いにも今は朝食の時間帯。エーデルヴァイスもここで孤児達と一緒に食事を取っている。
談話室の方から子供達のはしゃぐ声に混じって、カトリナたちかしましい三人娘の笑い声が聞こえてきた。
いつもなら朝食の時間。ほんのり香るスープやこんがり焼けたパンの匂いに、自然とお腹が空いてくる。
────さっさと話を済ませて、私も朝ご飯にしよう。
アルマは空腹を訴える腹を摩りつつ、一段飛ばしで階段を上っていった。
そうして、最上階の三階へ。確か院長の話では一番奥の東側の部屋と言っていた。
三階層は孤児院になってからは使われていない。今では基本的に物置だ。辿り着けば、既に埃臭いので本当にこんな場所に隔離するのかと、危うく思えてしまう。
部屋の中は掃除してあるのだろうか……。
そんな疑問を抱きつつ、アルマは所定の部屋を
「あ、今朝の……」
彼はアルマを見下ろして、どこか気恥ずかしそうに唇をモゴモゴと動かした。もう既に、同伴者の女性軍人は帰ったのだろうか。そこに姿は見当たらない。
「テオファネスさんですよね? 私がこれから貴方を見て行く事になります。火曜のエーデルヴァイス、アルマと申します」
できる限りの丁寧な言葉でアルマは毅然とした態度で挨拶する。
だが、彼の奥に見える室内を
掃除がきちんと行き届いており、室内が綺麗だったからだ。
内装は違えど、自分達の宿舎で備え付けられているものと同じ、簡素な楢の木のベッドとテーブルが設置されており、ふかふかとした二人掛けのソファまで添え付けられている。
否、宿舎より広いので、開放感さえある。
壁紙も貼り替えたのだろうか。優しいクリーム色の壁紙はどう見たって真新しかった。
……思えばひと月以上前に、院長が職人と思しき男を二人連れて三階に行った事があった。つまり、その時から用意でも済ませていたのだろう。
その時といえば「使わぬ調度品を回収して貰う」などと院長は言っていたが、本当に上手い事騙されたとアルマは眉を寄せる。
「あの、えっと……」
しまった。部屋に見入って放置してしまった。
アルマは慌ててテオファネスを見上げると、案の定、彼は戸惑った表情を浮かべていた。
「すみません私、三階の部屋入った事が無いので、ちょっと気にボーッと見てしまい……。少しお話したいので、部屋の中に入っても良いですか?」
とりあえず今後の事や現在の病状を
そうして、ソファに掛けるが彼は立ったままだった。気を遣われているのか緊張しているのかは定かで無いがやりにくい。アルマは彼を見上げて隣に掛けるように促した。
……人間的。院長からそう聞いたが、本当にその通りだと思った。きっと、恐れる程でない事は確かだろう。逆に怯えたら、失礼かもしれない。
アルマは平常心を意識してテオファネスに向き合った。
「その、ここでの過ごし方の話をですね。私も先程院長に〝頼みます〟って言われて、貴方を任されたので。とりあえずテオファネスさんと改めて顔合わせとでもいうのか」
こんな事例はない。しかも、兵器を孤児として……。
緊張が悟られぬよう、アルマはなるべく朗らかに話を進める。
「それでも一応テオファネスさんの事は、院長から少し聞きましたので……話したくない事もあるかもしれないですが、少しずつ話して頂けると助かります」
軽く笑みつつ言えば、彼はそっとアルマの髪に手を伸ばした。
いきなり何か……。驚いて身を竦めると彼は目を丸く開き詫びを入れる。
「俺、見た目が怖いだろうけど、あまり怯えないで欲しいな。何も危害は加えないよ。確かに
三つ編み? アルマがきょとんとすれば、彼は唇の端を綻ばせた。
「すごく、ぼさぼさだから直したくなる……」
そういえば、礼拝に間に合った? なんて
……そうだ。結局髪を直さずに来てしまったのだ。
しかし、まさかそこを指摘されるとは思うまい。アルマは双方のおさげを両手で隠して彼から顔を
「ご、ごめんなさい……後で直すので、そこは気になさらず!」
「いや、こっちこそ変な指摘して悪かった」
悪かったという割に彼は何だか嬉しそうだった。
それも穏やかな視線を向けられるので、妙に気恥ずかしい。いくら片方の強膜が真っ黒だろうが、やはり顔が整いすぎていると思った。
「いいえ、忘れてたので私も……」
アルマは真っ赤になりつつも、咳払いをして仕切り直す。
鞄から取り出したのは薬草辞典だ。それをテーブルの上に開き、アルマは淡々と不眠と自然療法の話を始めた。