悲しみは深かったが、とりあえず騒動は終わった。
張天師は、傷付いた身体を起こし、事態の収束に努める。そのうちに応究も目を覚まし、事情を聞いて父の手伝いに加わった。
鋼先の遺体は丁寧に運ばれ、棺に納められて安置された。その後、天界の立場をどう整理するか、という話し合いが始められた。
西王母と六合慧女は、元は魂魄を同じくするとは言え、存在を確立してからかなりの歳月を経ていた。なので、どちらも消滅することはなく、健在であった。
この度の事件で動揺してはいたが、九天がいなくなったことで西王母は己を取り戻した。そして英貞童女、六合慧女、托塔天王と相談し、今後の指針を決める。
「本日のこと、私どもは、非常に多くの反省点を見つけました。人界の上にいるからと、不死であるからと、尊大に構え過ぎていたように思います。賀鋼先が言った、私達が創りものであるという事実、真摯に受け止めていきたいと思います」
そう言って、素直に詫びを入れた。
張天師はそれを受け入れ、結局、創造(または想像)された天界のこと、神を殺す方法の二点については、天界にも人界にも記録に残さず、今後も伝えないことを約束した。また、天界の区域となった伏魔殿も、すぐに返却されることが決まる。
「では、書きかけですが、これを」
西王母は、一冊の書を張天師に渡す。
「九天の命令で、執筆していた戦術書です。
『続陰符経九地九天書』、略して天書と言います。三巻目までは、術や陣についての書で、天界に保管されています。しかし、この四巻目は、神を殺す法を記す予定でした」
それを聞いた張天師は、不可解な顔をした。
「妙ですな。自分が殺される危険性を恐れていた九天玄女が、なぜその記録を残そうとしたのでしょうか。文書に残せば天機星が知ってしまうことにもなるというのに」
西王母は、遠い未来を見るような瞳で答える。
「はい、九天が恐れていたことは、更に深いものでした。もしもいつか人界の中で、『人界に来ても神は不死』という説が起きて信じられたとしたら、それが真実になってしまい、天界の神たちは九天に反乱を起こすでしょう。九天は、自分も死なない代わりに、支配者の地位を失ってしまう。そうなっては困るから、「神を殺す術がある」という事実をきちんと残す必要があったのです。天機星がそれを知っても、彼を含めて百八星を封印しているから安心、という筋書きでした」
張天師が苦笑した。
「臆病だからこそ、知恵が回る。賀鋼先の言った通りでしたな」
そして、直ちにその書を焼き捨てる。
これで、天界との新しい盟約は完了した。
一方、ようやく揃った百八星は、極めて困惑していた。
「どのみち天界は退屈なままだし、かといって人界には戦乱を招いた負い目がある。いったい、どこに我々の身を落ちつけたらよかろう?」
首魁の天魁星は、兄弟たちの意見をまとめてそう言った。
「そこまで言うのなら、わしに一つ提案がある」
張天師はそう答えると、天魁星と共に西王母の前に行き、拝礼する。
「王母様、このようにしては頂けますまいか。――竜虎山が経済難であるのは、変わらぬことであります。前の約束に従って報酬を頂ければ、百八星はこの上清宮に預かります」
「預かる、とは?」
王母と天魁星が同時に訊く。
「百八星は、天界にも人界にも疲れた様子。ひとまず、あの伏魔殿に入って、じっくり眠ればよろしいかと。また再び、彼らの力が必要な時代が来るかも知れませぬ」
天魁星が、強く頷く。
「確かに。我々は疲れた。そしていろいろ、忘れたいのだ。人界は楽しいところだが、人間たちに悪用されたのは心の傷となっている。今度目覚める時は、人として生まれることにしたい」
天魁星の目は、新しい希望に輝いていた。
西王母はそれを見て頷き、告げる。
「張天師どの、それでよろしいのなら、こちらも構いません。
――今回わかった神の死は、もう噂として流布されていますから、しばらく天界は、それを受け容れられないものが騒いで雑然とするでしょう。百八星が、わざわざそんなときに天界に戻っても益はありません。ですから、天界の公としては、『百八星は魔心が改まるまで謹慎』ということにして、こちらに留まってもらいましょうか」
「おお、なるほど。貧道も、それがよろしいと思います」
張天師をはじめ、全員が納得したので、百八星は、伏魔殿で眠りに就くことになった。
◇
伏魔殿の中に、深い穴が掘られている。
百八星は、殿の中で整列し、点呼を受けた。このとき、萍鶴が作った名簿が提出され、使用された。
張天師が見守る中、応究がそれを読み上げる。
魔星の名前と、主な出身が記されていた。
百八星のうち、天罡星の三十六員は
天魁星 賀鋼先、追魔剣
天罡星 唐流嶬(鉄車輪総輪)
天機星 朔望鏡
天間星 松紋古定剣(高力士の剣)
天勇星 李光弼(唐将軍)
天雄星 郭子儀(唐将軍)
天猛星 僕固麗華(僕固鉄勒部族首長の娘)
天威星 哥舒翰(唐将軍)
天英星 仇凱(白輪頭)
天貴星 李隆基(唐皇帝)
天富星 荘北森(黄輪頭)
天満星 呉文榮
天孤星 少林寺の大木人
天傷星 李白(詩人)
天立星 南宮車(鉄車輪副総)
天捷星 梅叡(会稽剣士)
天暗星 閻謬(黒輪頭)
天祐星 陳玄礼(唐将軍)
天空星 呉文榮
天速星 呉文榮
天異星 祝月下(青輪頭)
天殺星 安禄山(唐節度使、燕皇帝)
天微星 フォルトゥナ
天客星 秦典枢(八公軍)
天退星 呉文榮
天寿星 荀洋雲(江賊)
天衰星 楊貴妃(唐皇帝妃)
天平星 霍三郎(生薬屋)
天罪星 武恵妃(唐皇帝妃)
天損星 張巡(真源県令)
天敗星 江采蘋(梅妃)(唐皇帝妃)
天牢星 顔杲卿(常山太守)
天慧星 顔真卿(平原太守)
天暴星 両頭の大蛇(遁甲の森)
天哭星 双尾の大蝎(遁甲の森)
天巧星 厳荘(燕中書侍郎)
続いて地煞星の七十二座は
地魁星 金還(囚人)
地煞星 時育(白輪次頭)
地勇星 在野(遁甲の森)
地傑星 丁子稔(八公軍)
地雄星 盧恩(八公軍)
地威星 高仙芝(唐将軍)
地英星 封常清(唐将軍)
地奇星 韋橋(山賊志願者)
地猛星 解山開(山賊志願者)
地文星 輝影(王萍鶴の筆)
地正星 呉文榮
地闊星 呉文榮
地闘星 呉文榮
地強星 崔乾祐(燕将軍)
地暗星 在野
地軸星 甘豊武(八公軍)
地会星 高尚(燕中書侍郎)
地佐星 黄鈴布(楊貴妃侍女)
地祐星 黄鈴貴(楊貴妃侍女)
地霊星 徐米芳(医師)
地獣星 翔騅(馬)(青輪次頭)
地微星 高熱の嬰児
地急星 胡湖
地暴星 史思明(燕将軍)
地然星 台風(芒碭山)
地好星 韓国夫人(楊貴妃一族)
地狂星 虢国夫人(楊貴妃一族)
地飛星 台風(芒碭山)
地走星 台風(芒碭山)
地巧星 朧瞭(顔真卿の筆)
地明星 柴光(八公軍)
地進星 荀洋雲の手下
地退星 荀洋雲の手下
地満星 在野(徐州)
地遂星 通臂猿
地周星 易角(囚人)
地隠星 向景(囚人)
地異星 阿史那承慶(燕将軍)
地理星 亀(長江)
地俊星 在野(魯乗により捕捉)
地楽星 子供(遁甲の森)
地捷星 山礼汎(赤輪頭)
地速星 孔緒(赤輪次頭)
地鎮星 李亨(唐皇太子)
地稽星 李豬児(安禄山付き宦官)
地魔星 在野(竜虎山)
地妖星 在野(竜虎山)
地幽星 蔡鉄越夫妻の棺
地伏星 杜甫(詩人)
地僻星 楊玄珪(楊貴妃一族)
地空星 楊錡(楊貴妃一族)
地孤星 独孤雨水
地全星 牛維(黄輪次頭)
地顎星 ギラファノコギリクワガタ(遁甲の森)
地角星 コーカサスオオカブト(遁甲の森)
地囚星 縻剛(月光楼楼主)
地蔵星 劉烈誉(縻剛の秘書)
地平星 呉文榮
地損星 呉文榮
地奴星 安慶緒(燕皇太子)
地察星 呉文榮
地悪星 史朝義(史思明の子)
地醜星 張通儒(燕中書令)
地数星 小川(遁甲の森)
地陰星 行商人の婦人(遁甲の森)
地刑星 居酒屋主人(長安城内)
地壮星 居酒屋女将(長安城内)
地劣星 陸萌亞(徐米芳の助手)
地健星 孫孝哲(燕将軍)
地耗星 呉文榮
地賊星 楊国忠(唐宰相)
地狗星 金毛犬
以上百八星、唐の天宝十四載二月より至徳二年三月、竜虎山天師張暠の命により、上清宮伏魔殿に集められるなり。
かくして百八星は魂魄と化し、伏魔殿の下奥深くに封じられて、平穏な眠りに就いた。
彼らの眠る穴を塞ぐ鎮めとして、台座が亀の形をした石碑を置いたが、それに刻む文字のことで、張天師は悩む。
「表の面には、彼らがどうして封じられたのか、その概要を記そうと思う。天界、さらに王朝のことにも触れる内容になるので、あまり読める者のいない、特別な文字を用いる」
すると応究は、苦々しい顔をして言った。
「是非記録しましょう。本当に、ひどい事件でした。
――九天様は、いや、九天玄女は、百八星を放って唐に大乱を招きました。しかもそれは、自分をすべての世界から崇めさせるための手段だったとは。思い出すと、体が寒くなります」
応究は、怒りと怖れに震えている。張天師が、なだめるように手で制した。
「もう心配するな。天界は反省している。決定的な弱点を知ってしまったからな。それよりも、石碑のことだ。表の方は良いとして……」
「裏をどうしようかと、お悩みなのですか」
応究が察すると、張天師は頷く。
「封印などというものは、いつか解かれるためにあるものだ。いつかこの石碑も取り去られ、再び百八星が世に出るであろう。それは、時代が必要とすることで、止められるものではない。だから、それを示唆する文字を刻みたい」
「お分かりになるのですか、その時期が」
すると張天師は首を振る。
「予言や占いなど、所詮は後からこじつけるためのものだ。九天玄女も、結局は自分で収星の行程を誘導し、賀雷先をその手で害したように、ハッタリとして利用した。だから、あまり明確には示唆したくない」
「では?」
「……そうだな。縁のある者が来たら、気付けば良いのではないかな。賀鋼先の名に、通じる名を持つ者が」
「では、賀の文字を?」
「……いや、彼の本名は賀港。だから港がいい。しかし、彼は己を賭して収星を成し遂げた。己の字を取ろう」
「つまり?」
「『港』の下部の『己』を取る。『洪』になるな」
「なるほど。では遇洪而開、つまり『洪に遇って而して開く』の四文字ですね」
張天師は、殿の外から差す陽を見ながら頷く。
後に張天師は唐王朝から、百八星を封じ、難民を保護した功績を讃えられて、「洞玄国師」という称号を贈られた。
◇
数日後。
竜虎山で休んでいた収星陣は、それぞれの進む道を決め、旅支度をしていた。
フォルトゥナは、英貞童女が東ローマまで送り届けてくれることになった。
「都の、コンスタンティノープルという街にいます。……遠いので、もうお会いできることはないかもしれません。いえ、でも、いつかまた会いましょう。きっと会える、そんな気がします」
李秀が笑って、
「会えるよ。……あたしたち、天界に大きい貸しを作ったんだよ。英貞さんを呼びつけて、いつでも会わせてもらおうよ。ね!」
「そういう李秀は、どこへ行くんだ? 李焼さんたちも来たし、しばらくいればいいじゃないか」
雷先が不思議そうに訊ねる。李秀は、目を閉じて首を振った。
「こんな戦乱だもの。前線で戦っている郭子儀師父を、少しでも手伝いたいの。ひょっとしたら、女将軍として有名になるかもしれないわよ」
そう言って、親指をぐっと立てる。
百威は、既に去った。魯乗がいないこと、収星が終わったことで、彼が残る理由は無い。この日の朝、百威は皆をゆっくり見てから、一声鳴いて飛び去っていた。あるいは、彼だけは、いつでも会いに来るかもしれない。皆はそう思った。
呉文榮は意外にも、去らずに竜虎山にいた。ずっと考え、ようやく自分の道を決めた。
「賀鋼先は、平和だから剣をやめたと言ったそうだな。拙者は今、逆の状態だ。この戦乱は、いつ終わるか分からぬ。拙者は、身を守るための武術を、こんなときだからこそ、伝えていく必要がある。そう考えた」
「どこかで弟子を取るのか」
雷先が訊ねると、呉文榮は頷いた。
「梁山の鉄車輪。唐流嶬は既に亡いが、残党がまだ燻っている。奴らをちょっと懲らしめて、目を覚まさせようと思う」
がんばれよ、と皆は励まし、呉文榮は少し照れる。
「私は」
萍鶴が、定まらない目で言う。
「私は、まだ、決められないの。……記憶は、戻っているけど、会稽には帰らない。それしか決めていない」
「いいじゃないか、ここにいれば」
雷先が、軽く彼女の肩を叩く。
「張天師様が、収星の記録を残したいと言っている。萍鶴はずっと旅の記録を付けていてくれたし、ちょうどいい。俺もここを離れるから、誰か一人くらいは残って欲しいと思っていたよ」
「えっ」
皆が、一斉に雷先を見る。
「雷先、あなたもどこかに行くの?」
萍鶴が訊いた。雷先は頷いて言う。
「この旅で、俺は鋼先に頼りきりだった。最後になって、それがようやく分かった。だから、俺もここを出て行こうと思う。この混迷した世の中で、自分を鍛え直したいんだ」
李秀も訊いた。
「でも雷先、六合さんが好きなんでしょ。彼女は知ってるの?」
雷先は、寂しく頷く。
「ちゃんと話し合ったよ。俺たちは二人とも、幼いままだった。だから互いにそこを通り越して、大人にならないと、ってな」
皆は、顔を見合わせて、ほほ笑んだ。呉文榮も、珍しく優しい笑顔になる。
「成長したな、賀雷先。よかったら弟子にしてやるぞ」
「いや、それは遠慮しとく」
皆は、大きな声で笑った。
そして、張天師と応究に見送られて、収星陣は竜虎山を出発する。フォルトゥナは英貞が来る日まで、萍鶴と残留する。
ひとりひとり山門を出、最後に李秀が出るとき、萍鶴をじっと見た。
「元気でね。いろいろ大変だったけど、あんたといられて楽しかった。――鋼先のことは、残念だったね。あたし、ずっと忘れないよ、みんなのこと」
「李秀、」萍鶴は、目に涙をためていた。「あなたも、元気でね。あなたの武芸は立派だけど、危ないことはしないでほしいわ」
萍鶴は、戦線に出るという李秀を心配する。
「大丈夫、師父が無茶は許さないと思う。それに、父さんたちがいるから、またここへ来るよ」
「ええ」
「それから、あたし思うんだけど」
李秀は不意に、空を見た。
「ひょっとしたら、生き返れるんじゃないかな、って。だから、待っててあげて」
「誰のこと?」
李秀の妙な言い回しに、萍鶴は困惑する。李秀は笑った。
「なんか、そんな気がして。ちゃっかりしてるからさ、鋼先は!」
萍鶴は、まさか、と言って、ほほ笑んだ。
李秀も、後ろで聞いていたフォルトゥナも笑う。
三月の風が、少し暖かく、どこからか桃花の香りを運んで来た。
◇
「なぜすぐに行かぬ。皆悲しんでおったぞ。勿体をつけおって」
「様子を見たかったんだよ。功労者の俺が死んだら、天界側がどう出るか。でも、西王母のおばさんも素直になったようだし、一安心だ。ついでに、俺がいなくなって兄貴もしっかりしてくれた」
二つの魂魄が、上清宮の上空で会話していた。鋼先と魯乗である。
魯乗は、高力士に斬られたときに魂魄が散った。しかし、その後に現れた天間星が集めて保護したのである。それでもかなり希薄化していたので、消えたことにして力を蓄えていた。
鋼先は、九天が放った呪符で天魁星を出され、その瞬間に魂魄が身体を離れてしまった。魯乗はそれを素速く救出し、散るのを防いだのである。
「しかし鋼先、わしはこう思う。九天玄女は、本当は人間たちを羨んでいた。限りある命だからこそ、怖れることに立ち向かえる。焼き尽くすような情熱がある。そんな強さは、不死たる神には持てやせぬ」
「かもしれないな。だが、あいつは謙虚にはならず、神の力に溺れた。同情する気はないぜ」
鋼先は辛辣に答えた。魯乗は笑う。
「そうじゃな。もともとわしが人界に来たのも、それが理由だったんじゃ。不死で安穏なんぞ、ぬるくてやってられん」
鋼先も笑った。
「じゃあ、あんたは相当楽しく生きたよな。二回も死んでるし」
「かっかっか、お主も同じじゃろうが。だが、お主の肉体には、腐らぬように呪符を貼った。いつでも戻れるんじゃぞ。健気な娘が待っておるではないか」
「ああ、萍鶴だろ。分かってる、彼女を一人にはしないさ。……でも、蘇るにしても、反魂丹なんて無いんだろう?」
「百威のとき、魂魄を戻すのに成功しておる。なんとかなるわい」
魯乗は、自信有りげに応える。鋼先は、しっかり礼をした。
「ありがとう、よろしく頼む。――それよりあんたこそ、なぜ出て行かない? 俺たちはずいぶん落ち込んだんだぜ」
鋼先は、魯乗が消えたときの悲しみを思い出して食いついた。魯乗はまた笑う。
「勝手を言って悪いが、もう喧騒には飽き飽きじゃよ。四雷天罡の術は一応の完成はしたが、術者の力を消耗しすぎる。もう一段階、質を良くして『五雷』としたいが、今しばらくは、風に浮かんで暮らそうかの。まだまだ力も戻らぬし」
鋼先は、それを聞いて言う。
「だったら、俺も少しそうしよう。ほら、いい風が来た。ちょっと南向きかな」
そんな言い合いをしながら、二つの魂魄は、花香る風に乗って流れて行く。
◇
数日して、西王母が英貞と六合を伴って現れた。約束通り、フォルトゥナは故郷に送って行かれる。
六合は、雷先が去ったと聞き、最初はやはり涙を流した。やがて事実を受け入れ、ある決意をする。
九天玄女が突如いなくなったことで、西王母の補佐が大変になった。九天の名でしか動かせない仕事も多くあり、支障が出ている。六合は、自分からこう願い出た。
「私が、九天玄女を襲名します。どうかお聞き届けください」
西王母は驚いたが、実際こうする以外になかった。その代わり、空位になった「六合慧女」の、戸籍を抹消した。
英貞童女は女神としての研修を終わりとし、托塔天王の下に帰って行った。その後は、特に西王母と関わることはなかった。
そして、唐の国に巻き起こった戦乱は、安慶緒から史思明、さらに史朝義と指導者を替えながら、九年に亘り国土を蹂躙した。結局、唐は莫大な報酬を払ってウイグル族から兵力を借り、郭子儀、顔真卿、張巡らの奮闘によって燕を撃退するに到った。しかし、長い戦乱による被害は甚大で、唐はそのまま勢力を弱め、ついに過去の栄華を取り戻すことはなかった。この戦乱は、安禄山と史思明の姓を取って「安史の乱」と呼ばれることになる。
◇
百八星は、昏々と眠っていた。
唐の世も終わり、今は宋。あれから三百年の月日が流れていた。
伏魔殿には、厳重な封印がなされ、何人も訪れていない。
嘉祐三年(一〇五八)の今日、洪信という男が、興味本位で入って来るまでは――
(伏魔伝 完)