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第七十回 遇洪而開




 悲しみは深かったが、とりあえず騒動そうどうは終わった。




 張天師ちょうてんしは、傷付いた身体を起こし、たいしゅうそくつとめる。そのうちにおうきゅうも目を覚まし、事情を聞いて父の手伝いに加わった。


 こうせんの遺体は丁寧に運ばれ、棺に納められて安置された。その後、天界の立場をどう整理するか、という話し合いが始められた。


 西せいおう六合慧女りくごうけいじょは、元はこんぱくを同じくするとは言え、存在を確立してからかなりの歳月をていた。なので、どちらも消滅することはなく、健在であった。




 このたびの事件で動揺どうようしてはいたが、きゅうてんがいなくなったことで西王母はおのれを取り戻した。そして英貞童女えいていどうじょ、六合慧女、たくとうてんおうと相談し、今後の指針ししんを決める。


「本日のこと、私どもは、非常に多くの反省点はんせいてんを見つけました。人界じんかいの上にいるからと、不死ふしであるからと、尊大そんだいに構え過ぎていたように思います。賀鋼先が言った、私達が創りものであるという事実、しんに受け止めていきたいと思います」


 そう言って、なおびを入れた。


 張天師はそれを受け入れ、結局、創造(または想像)された天界のこと、神を殺す方法の二点については、天界にも人界にも記録に残さず、今後も伝えないことを約束した。また、天界のいきとなったふく殿でんも、すぐにへんきゃくされることが決まる。




「では、書きかけですが、これを」


 西王母は、一冊のしょを張天師に渡す。


「九天の命令で、執筆しっぴつしていた戦術書せんじゅつしょです。


続陰符経九地九天書ぞくいんぷきょうきゅうちきゅうてんしょ』、りゃくして天書てんしょと言います。三巻目までは、じゅつじんについての書で、天界に保管されています。しかし、この四巻目は、神を殺す法をしるす予定でした」


 それを聞いた張天師は、不可解な顔をした。


「妙ですな。自分が殺される危険性を恐れていたきゅうてんげんじょが、なぜその記録を残そうとしたのでしょうか。文書に残せばてんせいが知ってしまうことにもなるというのに」


 西王母は、遠い未来を見るような瞳で答える。


「はい、九天が恐れていたことは、更に深いものでした。もしもいつか人界の中で、『人界に来ても神は不死』という説が起きて信じられたとしたら、それが真実になってしまい、天界の神たちは九天に反乱を起こすでしょう。九天は、自分も死なない代わりに、支配者の地位を失ってしまう。そうなっては困るから、「神を殺す術がある」という事実をきちんと残す必要があったのです。天機星がそれを知っても、彼を含めて百八星を封印しているから安心、という筋書きでした」


 張天師が苦笑した。


おくびょうだからこそ、知恵が回る。こうせんの言った通りでしたな」


 そして、ただちにその書を焼き捨てる。


 これで、天界との新しい盟約めいやくは完了した。




 一方、ようやく揃った百八星は、きわめて困惑こんわくしていた。


「どのみち天界は退屈なままだし、かといって人界には戦乱せんらんまねいたがある。いったい、どこに我々の身を落ちつけたらよかろう?」


 首魁しゅかいてんかいせいは、兄弟たちの意見をまとめてそう言った。


「そこまで言うのなら、わしに一つ提案がある」


 張天師はそう答えると、天魁星と共に西王母の前に行き、拝礼はいれいする。


「王母様、このようにしては頂けますまいか。――竜虎山りゅうこざん経済難けいざいなんであるのは、変わらぬことであります。前の約束にしたがってほうしゅうを頂ければ、百八星はこの上清宮じょうせいぐうに預かります」


「預かる、とは?」


 おうと天魁星が同時に訊く。


「百八星は、天界にも人界にも疲れた様子。ひとまず、あの伏魔殿に入って、じっくり眠ればよろしいかと。また再び、彼らの力が必要な時代が来るかも知れませぬ」


 天魁星が、強く頷く。


「確かに。我々は疲れた。そしていろいろ、忘れたいのだ。人界は楽しいところだが、人間たちに悪用されたのは心の傷となっている。今度目覚める時は、人として生まれることにしたい」


 天魁星の目は、新しい希望に輝いていた。


 西王母はそれを見て頷き、告げる。


「張天師どの、それでよろしいのなら、こちらも構いません。


――今回わかった神の死は、もう噂として流布されていますから、しばらく天界は、それを受け容れられないものが騒いで雑然とするでしょう。百八星が、わざわざそんなときに天界に戻っても益はありません。ですから、天界のおおやけとしては、『百八星は魔心があらたまるまで謹慎きんしん』ということにして、こちらに留まってもらいましょうか」


「おお、なるほど。貧道ひんどうも、それがよろしいと思います」


 張天師をはじめ、全員が納得したので、百八星は、伏魔殿で眠りにくことになった。




 ◇




 伏魔殿の中に、深い穴が掘られている。


 百八星は、殿でんの中で整列し、てんを受けた。このとき、へいかくが作っためい簿が提出され、使用された。


 張天師が見守る中、応究がそれを読み上げる。


 魔星の名前と、主なしゅっしんが記されていた。




 百八星のうち、てんこうせいの三十六いん




 天魁星てんかいせい 賀鋼先、ついけん


 天罡星てんこうせい 唐流嶬とうりゅうぎ鉄車輪総輪てつしゃりんそうりん


 天機星てんきせい 朔望鏡さくぼうきょう


 天間星てんかんせい 松紋古定剣しょうもんこていけんこうりきの剣)


 天勇星てんゆうせい こうひつ唐将軍とうしょうぐん


 天雄星てんゆうせい かく(唐将軍)


 天猛星てんもうせい ぼくれい僕固鉄勒部族首長ぼくこてつろくぶぞくしゆちようの娘)


 天威星てんいせい じょかん(唐将軍)


 天英星てんえいせい 仇凱きゅうがい白輪頭はくりんとう


 天貴星てんきせい 李隆基りりゅうき唐皇帝とうこうてい


 天富星てんぷせい 荘北森そうほくしん黄輪頭こうりんとう


 天満星てんまんせい ぶんえい


 天孤星てんこせい 少林寺しょうりんじ大木人だいもくじん


 天傷星てんしょうせい はく(詩人)


 天立星てんりつせい 南宮車なんぐうしゃ鉄車輪副総てつしゃりんふくそう


 天捷星てんしょうせい 梅叡ばいえいかいけいけん


 天暗星てんあんせい 閻謬えんびゅう黒輪頭こくりんとう


 天祐星てんゆうせい 陳玄礼ちんげんれい(唐将軍)


 天空星てんくうせい 呉文榮


 天速星てんそくせい 呉文榮


 天異星てんいせい 祝月下しゅくげっか青輪頭せいりんとう


 天殺星てんさつせい あんろくざん(唐せつ使燕皇帝えんこうてい


 天微星てんびせい フォルトゥナ


 天客星てんかくせい しんてんすう八公軍はっこうぐん


 天退星てんたいせい 呉文榮


 天寿星てんじゅせい 荀洋雲じゅんよううん江賊こうぞく


 天衰星てんすいせい ようとうこうてい


 天平星てんぺいせい 霍三郎かくさんろう生薬屋きぐすりや


 天罪星てんざいせい けい(唐皇帝妃)


 天損星てんそんせい ちょうじゅん真源県令しんげんけんれい


 天敗星てんぱいせい 江采蘋こうさいひんばい)(唐皇帝妃)


 天牢星てんろうせい 顔杲卿がんこうけい常山太守じょうざんたいしゅ


 天慧星てんけいせい 顔真卿がんしんけい平原太守へいげんたいしゅ


 天暴星てんぼうせい 両頭りょうとう大蛇だいじゃ遁甲とんこうの森)


 天哭星てんこくせい そう大蝎おおさそり(遁甲の森)


 天巧星てんこうせい 厳荘げんそう燕中書侍郎えんちゅうしょじろう




 続いてさつせいの七十二




 かいせい 金還きんかん囚人しゅうじん


 さつせい いく白輪次頭はくりんじとう


 ゆうせい ざい(遁甲の森)


 けつせい ていねん(八公軍)


 ゆうせい おん(八公軍)


 せい こうせん(唐将軍)


 えいせい 封常清ほうじょうせい(唐将軍)


 せい 韋橋いきょう山賊志願者さんぞくしがんしゃ


 もうせい 解山開かいさんかい(山賊志願者)


 ぶんせい えい王萍鶴おうへいかくの筆)


 せいせい 呉文榮


 かつせい 呉文榮


 とうせい 呉文榮


 地強星ちきょうせい 崔乾祐さいけんゆう燕将軍えんしょうぐん


 あんせい 在野


 じくせい かんほう(八公軍)


 かいせい 高尚こうしょう(燕中書侍郎)


 せい こうれいようじょ


 ゆうせい こうれい(楊貴妃侍女)


 れいせい 徐米芳じょべいほう(医師)


 地獣星ちじゅうせい しようすい(馬)(青輪次頭せいりんじとう


 せい 高熱こうねつえい


 地急星ちきゅうせい 


 ぼうせい めい(燕将軍)


 ぜんせい 台風(芒碭山ぼうとうざん


 こうせい かんこくじん(楊貴妃一族)


 地狂星ちきょうせい かくこくじん(楊貴妃一族)


 せい 台風(芒碭山)


 そうせい 台風(芒碭山)


 こうせい 朧瞭ろうりょう(顔真卿の筆)


 めいせい 柴光さいこう(八公軍)


 しんせい 荀洋雲のした


 退たいせい 荀洋雲の手下


 まんせい 在野(徐州じょしゅう


 すいせい つうえん


 地周星ちしゅうせい 易角えきかく(囚人)


 いんせい 向景こうけい(囚人)


 せい しょうけい(燕将軍)


 せい 亀(長江ちょうこう


 地俊星ちしゅんせい 在野(魯乗ろじょうにより捕捉ほそく


 がくせい 子供(遁甲の森)


 地捷星ちしょうせい 山礼汎さんれいはん赤輪頭せきりんとう


 そくせい 孔緒こうしょ赤輪次頭せきりんじとう


 ちんせい こう唐皇太子とうこうたいし


 けいせい ちょ(安禄山付き宦官かんがん


 せい 在野(竜虎山)


 ようせい 在野(竜虎山)


 ゆうせい さいてつえつさいひつぎ


 ふくせい (詩人)


 へきせい ようげんけい(楊貴妃一族)


 くうせい よう(楊貴妃一族)


 せい どくすい


 ぜんせい 牛維ぎゅうい黄輪次頭こうりんじとう


 がくせい ギラファノコギリクワガタ(遁甲の森)


 かくせい コーカサスオオカブト(遁甲の森)


 地囚星ちしゅうせい ごう月光楼楼主げっこうろうろうしゅ


 ぞうせい りゅうれつ(縻剛の秘書)


 へいせい 呉文榮


 そんせい 呉文榮


 せい 安慶緒あんけいしょえんこうたい


 さつせい 呉文榮


 あくせい ちょう(史思明の子)


 地醜星ちしゅうせい ちょうつうじゅ燕中書令えんちゅうしょれい


 すうせい 小川(遁甲の森)


 いんせい 行商人ぎょうしょうにんの婦人(遁甲の森)


 けいせい ざかしゅじん長安城内ちょうあんじょうない


 そうせい ざか女将おかみ(長安城内)


 れつせい りくほう(徐米芳の助手)


 けんせい 孫孝哲そんこうてつ(燕将軍)


 もうせい 呉文榮


 ぞくせい 楊国忠ようこくちゅう唐宰相とうさいしょう


 せい 金毛犬きんもうけん




 以上百八星、唐のてんぽう十四さい二月よりとく二年三月、竜虎山天師ちょうこうめいにより、上清宮伏魔殿に集められるなり。




 かくして百八星は魂魄と化し、伏魔殿の下奥深したおくふかくに封じられて、平穏へいおんな眠りに就いた。


 彼らの眠る穴をふさしずめとして、だいが亀の形をしたせきを置いたが、それにきざむ文字のことで、張天師は悩む。


「表の面には、彼らがどうして封じられたのか、その概要がいようを記そうと思う。天界、さらにおうちょうのことにもれる内容になるので、あまり読める者のいない、特別な文字を用いる」


 すると応究は、苦々しい顔をして言った。


「是非記録しましょう。本当に、ひどい事件でした。


――九天様は、いや、九天玄女は、百八星を放って唐に大乱を招きました。しかもそれは、自分をすべての世界からあがめさせるための手段だったとは。思い出すと、体が寒くなります」


 応究は、怒りと怖れに震えている。張天師が、なだめるように手で制した。


「もう心配するな。天界は反省している。決定的な弱点を知ってしまったからな。それよりも、石碑のことだ。表の方は良いとして……」


「裏をどうしようかと、お悩みなのですか」


 応究がさっすると、張天師は頷く。


「封印などというものは、いつかかれるためにあるものだ。いつかこの石碑も取り去られ、再び百八星が世に出るであろう。それは、時代が必要とすることで、められるものではない。だから、それを示唆しさする文字を刻みたい」


「お分かりになるのですか、その時期が」


 すると張天師は首を振る。


げんや占いなど、所詮しょせんは後からこじつけるためのものだ。九天玄女も、結局は自分でしゅうせいの行程を誘導し、らいせんをその手でがいしたように、ハッタリとして利用した。だから、あまり明確には示唆したくない」


「では?」


「……そうだな。ゆかりのある者が来たら、気付けば良いのではないかな。賀鋼先の名に、通じる名を持つ者が」


「では、の文字を?」


「……いや、彼の本名はこう。だからこうがいい。しかし、彼はおのれして収星をげた。の字を取ろう」


「つまり?」


「『港』の下部の『己』を取る。『こう』になるな」


「なるほど。ではぐうこうかい、つまり『こうってしてひらく』の四文字ですね」


 張天師は、殿の外から差すを見ながら頷く。




 のちに張天師は唐王朝とうおうちょうから、百八星を封じ、難民を保護した功績こうせきたたえられて、「どうげんこく」というしょうごうおくられた。




 ◇




 数日後。


 竜虎山で休んでいた収星陣しゅうせいじんは、それぞれの進む道を決め、旅支度たびじたくをしていた。


 フォルトゥナは、英貞童女が東ローマまで送り届けてくれることになった。


みやこの、コンスタンティノープルという街にいます。……遠いので、もうお会いできることはないかもしれません。いえ、でも、いつかまた会いましょう。きっと会える、そんな気がします」


 李秀りしゅうが笑って、


「会えるよ。……あたしたち、天界に大きい貸しを作ったんだよ。英貞さんを呼びつけて、いつでも会わせてもらおうよ。ね!」


「そういう李秀は、どこへ行くんだ? 李焼りしょうさんたちも来たし、しばらくいればいいじゃないか」


 らいせんが不思議そうに訊ねる。李秀は、目を閉じて首を振った。


「こんな戦乱だもの。前線で戦っているかくを、少しでも手伝いたいの。ひょっとしたら、女将軍じょしょうぐんとして有名になるかもしれないわよ」


 そう言って、親指をぐっと立てる。


 百威ひゃくいは、すでに去った。魯乗ろじょうがいないこと、収星が終わったことで、彼が残る理由は無い。この日の朝、百威は皆をゆっくり見てから、一声鳴いて飛び去っていた。あるいは、彼だけは、いつでも会いに来るかもしれない。皆はそう思った。


 呉文榮は意外にも、去らずに竜虎山にいた。ずっと考え、ようやく自分の道を決めた。


「賀鋼先は、平和だから剣をやめたと言ったそうだな。拙者せっしゃは今、逆の状態だ。この戦乱は、いつ終わるか分からぬ。拙者は、身を守るための武術を、こんなときだからこそ、伝えていく必要がある。そう考えた」


「どこかで弟子でしを取るのか」


 雷先が訊ねると、呉文榮は頷いた。


りょうざん鉄車輪てつしゃりん唐流嶬とうりゅうぎは既にいが、残党ざんとうがまだくすぶっている。奴らをちょっとらしめて、目を覚まさせようと思う」


 がんばれよ、と皆は励まし、呉文榮は少し照れる。


「私は」


 萍鶴が、定まらない目で言う。


「私は、まだ、決められないの。……記憶は、戻っているけど、会稽かいけいには帰らない。それしか決めていない」


「いいじゃないか、ここにいれば」


 雷先が、軽く彼女の肩を叩く。


「張天師様が、収星の記録を残したいと言っている。萍鶴はずっと旅の記録を付けていてくれたし、ちょうどいい。俺もここを離れるから、誰か一人くらいは残って欲しいと思っていたよ」


「えっ」


 皆が、一斉に雷先を見る。


「雷先、あなたもどこかに行くの?」


 萍鶴が訊いた。雷先は頷いて言う。


「この旅で、俺は鋼先に頼りきりだった。最後になって、それがようやく分かった。だから、俺もここを出て行こうと思う。この混迷こんめいした世の中で、自分を鍛え直したいんだ」


 李秀も訊いた。


「でも雷先、六合さんが好きなんでしょ。彼女は知ってるの?」


 雷先は、さびしく頷く。


「ちゃんと話し合ったよ。俺たちは二人とも、幼いままだった。だから互いにそこを通り越して、大人にならないと、ってな」


 皆は、顔を見合わせて、ほほ笑んだ。呉文榮も、めずらしく優しい笑顔になる。


「成長したな、賀雷先。よかったら弟子にしてやるぞ」


「いや、それは遠慮えんりょしとく」


 皆は、大きな声で笑った。




 そして、張天師と応究に見送られて、収星陣は竜虎山を出発する。フォルトゥナは英貞が来る日まで、萍鶴とざんりゅうする。


 ひとりひとり山門さんもんを出、最後に李秀が出るとき、萍鶴をじっと見た。


「元気でね。いろいろ大変だったけど、あんたといられて楽しかった。――鋼先のことは、残念だったね。あたし、ずっと忘れないよ、みんなのこと」


「李秀、」萍鶴は、目に涙をためていた。「あなたも、元気でね。あなたの武芸は立派だけど、危ないことはしないでほしいわ」


 萍鶴は、戦線せんせんに出るという李秀を心配する。


「大丈夫、師父しふが無茶は許さないと思う。それに、父さんたちがいるから、またここへ来るよ」


「ええ」


「それから、あたし思うんだけど」


 李秀は不意ふいに、空を見た。


「ひょっとしたら、生き返れるんじゃないかな、って。だから、待っててあげて」


「誰のこと?」


 李秀のみょうな言い回しに、萍鶴は困惑する。李秀は笑った。


「なんか、そんな気がして。ちゃっかりしてるからさ、鋼先は!」


 萍鶴は、まさか、と言って、ほほ笑んだ。


 李秀も、後ろで聞いていたフォルトゥナも笑う。


 三月の風が、少し暖かく、どこからかとうの香りを運んで来た。




 ◇




「なぜすぐに行かぬ。皆悲みなかなしんでおったぞ。勿体もったいをつけおって」


「様子を見たかったんだよ。功労者の俺が死んだら、天界側がどう出るか。でも、西王母のおばさんも素直になったようだし、一安心だ。ついでに、俺がいなくなって兄貴もしっかりしてくれた」


 二つの魂魄が、上清宮の上空で会話していた。鋼先と魯乗である。


 魯乗は、高力士に斬られたときに魂魄が散った。しかし、その後に現れたてんかんせいが集めて保護したのである。それでもかなり希薄化きはくかしていたので、消えたことにして力をたくわえていた。


 鋼先は、九天が放ったじゅで天魁星を出され、その瞬間に魂魄が身体を離れてしまった。魯乗はそれをばやく救出し、散るのを防いだのである。


「しかし鋼先、わしはこう思う。九天玄女は、本当は人間たちをうらやんでいた。限りある命だからこそ、怖れることに立ち向かえる。焼き尽くすような情熱がある。そんな強さは、不死たる神には持てやせぬ」


「かもしれないな。だが、あいつは謙虚けんきょにはならず、神の力におぼれた。同情する気はないぜ」


 鋼先は辛辣しんらつに答えた。魯乗は笑う。


「そうじゃな。もともとわしが人界に来たのも、それが理由だったんじゃ。不死で安穏あんのんなんぞ、ぬるくてやってられん」


 鋼先も笑った。


「じゃあ、あんたは相当楽しく生きたよな。二回も死んでるし」


「かっかっか、お主も同じじゃろうが。だが、お主の肉体には、腐らぬように呪符をった。いつでも戻れるんじゃぞ。けなむすめが待っておるではないか」


「ああ、萍鶴だろ。分かってる、彼女を一人にはしないさ。……でも、よみがえるにしても、反魂丹なんて無いんだろう?」


「百威のとき、魂魄を戻すのに成功しておる。なんとかなるわい」


 魯乗は、自信有りげに応える。鋼先は、しっかり礼をした。


「ありがとう、よろしく頼む。――それよりあんたこそ、なぜ出て行かない? 俺たちはずいぶん落ち込んだんだぜ」


 鋼先は、魯乗が消えたときの悲しみを思い出して食いついた。魯乗はまた笑う。


「勝手を言って悪いが、もう喧騒けんそうにはきじゃよ。らいてんこうの術は一応の完成はしたが、術者の力を消耗しすぎる。もう一段階、質を良くして『五雷』としたいが、今しばらくは、風に浮かんで暮らそうかの。まだまだ力も戻らぬし」


 鋼先は、それを聞いて言う。


「だったら、俺も少しそうしよう。ほら、いい風が来た。ちょっと南向きかな」


 そんな言い合いをしながら、二つの魂魄は、花香る風に乗って流れて行く。




 ◇




 数日して、西王母が英貞と六合をともなって現れた。約束通り、フォルトゥナは故郷に送って行かれる。


 六合は、雷先が去ったと聞き、最初はやはり涙を流した。やがて事実を受け入れ、ある決意をする。


 九天玄女が突如とつじょいなくなったことで、西王母の補佐ほさが大変になった。九天の名でしか動かせない仕事も多くあり、支障ししょうが出ている。六合は、自分からこう願い出た。


「私が、九天玄女をしゅうめいします。どうかお聞き届けください」


 西王母は驚いたが、実際こうする以外になかった。その代わり、空位になった「六合慧女」の、戸籍を抹消した。




 英貞童女は女神としてのけんしゅうを終わりとし、托塔天王の下に帰って行った。その後は、特に西王母と関わることはなかった。




 そして、とうの国に巻き起こった戦乱は、安慶緒あんけいしょからめい、さらに史朝義しちょうぎどうしゃえながら、九年にわたり国土をじゅうりんした。結局、唐は莫大ばくだいな報酬を払ってウイグル族から兵力を借り、かく顔真卿がんしんけいちょうじゅんらの奮闘ふんとうによってえん撃退げきたいするにいたった。しかし、長い戦乱による被害は甚大じんだいで、唐はそのまま勢力を弱め、ついに過去のえいを取り戻すことはなかった。この戦乱は、あんろくざんと史思明の姓を取って「あんらん」と呼ばれることになる。




 ◇




 百八星は、昏々と眠っていた。


 唐の世も終わり、今はそう。あれから三百年の月日が流れていた。


 伏魔殿には、厳重な封印がなされ、何人なんぴとも訪れていない。


 ゆう三年(一〇五八)の今日、洪信こうしんという男が、興味本位きょうみほんいで入って来るまでは――





(伏魔伝 完)

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