目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報

第五部 再希編     第六十四回 長江を東へ



 戦乱せんらんをくぐり抜けながら、馬車は一路竜虎山いちろりゅうこざんを目指した。


 ちょうあんからなんして長江沿岸ちょうこうえんがんにたどり着いた後は、流れに沿って東へと進む。どうていに着いた頃には、とくねん(七五七)の二月になっていた。


 皆の怪我けがはあまり良くならなかったが、ある日、宿で回復の訓練をしていたへいかくが、ついに筆を持てるようになった。


 持てるようにはなったが、振ることができない。そこで、腕の痛みをこらえて、萍鶴が言った。


「フォルトゥナ、来て。私の手を取って、筆を振って」


「だめですよ、無理をしては」


 そう言いながらも、フォルトゥナは言うとおりにする。


「墨を、私のうえに飛ばして。遠慮えんりょしなくていいわ」


「は、はい」


 フォルトゥナは、ぐいと腕を振り上げる。萍鶴はつうに顔をゆがめたが、墨はきれいに真上に飛んだ。


 落ちる墨を、萍鶴は自分の頬で受ける。「」の文字が現れ、彼女の手足のれが急速に引いた。


「……うまく行ったわ。ありがとう、フォルトゥナ。これでみんなも大丈夫よ」


 萍鶴は、鋼先たちにもぼくを打った。百威ひゃくいの羽も、飛墨で形を戻す。皆は少し気分も良くなってきて、良く食べて良く眠った。


 そんな日が数日続くと、ようやく皆、健全けんぜんな身体に戻った。久しぶりに元気になった彼らを見て、フォルトゥナが思わず涙を流す。


 鋼先が、身体を曲げ伸ばしながら笑った。


「ようやく本調子ほんちょうしが戻った。李焼りしょうさんに報告しとこう」


 鋼先は李秀りしゅうを連れて李焼の部屋に行き、挨拶あいさつした。


 二人の顔色を見た李焼が、回復を喜ぶ。


「全員が一度に元気になるとは、素晴らしいな。そうだ、かいいわいをしよう」


 李焼はそう言って、宿の者に頼んで宴会の準備をする。鋼先は喜んで皆に知らせた。


 これまでにんともども遠慮えんりょしていたので、ずいぶんとにぎやかな宴会になった。美食と美酒が夜遅くまで続き、収星陣しゅうせいじん李家りけの者も大いに楽しんでいる。


 フォルトゥナが、少し飲み過ぎたので、庭へ出てかぜに当たっていた。百威がやってきて、そばのこずえに留まる。フォルトゥナははっとした。


「……魯乗ろじょうさんがいなくなって、あなたはつらいでしょうね。ねえ、あなたはまだ一緒に行くの? いっそ皆と別れて、自然に戻った方が良いのではないかしら」


 百威は、ただ彼女を見ている。そのとき、鋼先が来た。


「百威と因縁があった地然星たちは、まだ封印が済んだわけじゃない。百威は、結果がきちんと出るのを見届けようとしているんだろう。百威だけじゃなく俺たちも、百八星全てが封印されるまで、終わりだとは思っていない。そういうことだ」


 鋼先がそう言うと、百威も短くキッと鳴く。


 フォルトゥナは、酔いも覚めてうなずいた。




 ◇




 楽しかった一夜が明け、皆はまた出発の準備にかかる。


 李秀は母のところに行き、先ほど決まったことをげた。


「じゃあ、鋼先さんたちは、今日でお別れなの?」


 しんぎんの問いに、李秀は頷く。


「うん。みんな元気になったから、船で竜虎山へ急ぐそうよ。馬車のみんなも船に乗せたいけど、この戦乱で、大きな船は便びんがいっぱいなんだって。でもあたしは、道案内みちあんないのために馬車に残るわ」


 すると沈銀は、むすめの目を見て、優しくほほ笑む。


「そう。でも、本当にそれでいいの?」


「あ、あたし……」


 それ以上言えずうつむいた李秀を、沈銀はそっと抱きしめた。


「危ないことはさせたくないけど、あなたはこの旅で、ずいぶん成長したようね。だから、行きなさい。鋼先さんをたすけてあげたいんでしょう」


「ありがとう、母さん」


 頷く李秀の頬が、涙でれた。




 翌朝、一行いっこうは近くのふなに行き、六人乗りの船を借りる。こうが長いので船頭は自分たちでやることになった。


 手続きが済んだとき、おうきゅうが言う。


「私はもう少し李焼さんに付いて、道案内をする。竜虎山が近くなったら急いで駆けつけよう」


「分かった。みんなも気を付けて。じゃあ竜虎山で会おう」


 鋼先たちは船に乗り込み、応究や李焼に手を振った。


 船は五人と一羽を乗せ、颯爽さっそうと走る。


 夕暮れになり、多少寒かったが、宿を取れそうな街はまだ見えない。鋼先は、あおけになって空を見上げた。船をいでいたらいせんが笑う。


「竜虎山を出発した日を、思い出すな。あの時もこんな船だった」


 すると、鋼先も笑う。


「あれからもう二年か。残る魔星もあと二つだが、なかなか現れてくれないもんだな」


 鋼先を見て、李秀がやや小さい声で訊いた。


「応究さんとしばらく一緒だったけど、結局何も聞き出せなかったね」


 鋼先がころんだまま頷く。


「ああ。後ろに残してきたことは、多少心配ではある。だが、何かするにしても、俺たちにではないだろう。助けてくれたときの様子もしんだった」


「……飛墨で、聞き出せば良かったかしら」


 萍鶴がぽつりと言った。しかし鋼先は首を振る。


「そうしてもらおうと思ったことはある。だが、応究さんなら飛墨に耐えるかもしれない。それだと後が険悪けんあくになる。軽率けいそつにはできない」


 重々しくなった空気の中で、フォルトゥナが静かに言った。


「あの、私の占いでは、『無事に終わる』って出ましたよ。だから、元気出して下さい。ほら、お魚釣れました」


 そう言って彼女が釣り竿を上げると、大きな魚が船におどり上がった。そして勢いよく跳ね、寝ている鋼先のふところすべり込む。


「うわっ、入って来るな! おい、取ってくれ!」


 鋼先があわてて飛び起き、足をもつれさせて川に落ちる。皆は笑って助け上げた。




 ◇




 どうていはん


 ぶんえいは、大きなかにを十匹ほど捕り、岸辺で釜戸を掘って焼いていた。


 焼き上がった蟹のこうをこじ開け、熱い味噌をすする。コクのある香りが口中に広がった。甲羅の裏をめ尽くすと、はさみと足の殻を噛み砕いて肉を食う。


 大雑把に食べ終わると、次の蟹をこじ開けた。空腹だったので止まらずに食べる。そうやって八匹までを平らげたあと、冷めてきた残りを再び火にかけて熱する。その間に口当くちあたりのいい酒をごくごくと飲み、大きく息をついた。


「おいおっさん、誰にことわって蟹を捕った?」


「代金をもらおうか。がね全部出しな!」


 不意ふいに声をかけられたので振り向くと、見知らぬ男が二人、にらみつけている。


「断る必要などあるか。ここは貴様の湖か?」


 呉文榮が、つまらなそうに言い返す。


「ごちゃごちゃ言わずに金を出せ。ぶった斬るぞ」


 二人は、腰に差していた野太刀のだちを見せた。


「なんだ、ただのぎか」


 呉文榮は、焼いた蟹の甲羅を両手に取り、投げつけた。蟹は二人の顔面に当たり、熱い味噌が飛び散る。


「ぐあっ! あ、熱ッ! あっつ!」


「てっ、てめえ! やるってのか!」


 したたかに火傷を負わされた二人が、怒って野太刀を抜く。


「よしなよ」


 突然、二人の後ろに現れた人物が、彼らの腕を押さえてギリギリとしぼり上げる。二人は悲鳴を上げた。さらに身体が浮くほどめられ、そのまま気を失った。二人はドサリと地面に転がる。


怪我けがはないかい、呉文榮。危ないところだったね」


 呉文榮は、しかし鬱陶うっとうしそうに答える。


あいわらずおんせがましいな、どうふく。こんな連中などぞうもないわ」


 そう言って、呉文榮は倒れた二人を、首を振った。


「魔星はいない。一月ほど前にさつせいを見つけたほかは、出会わないな。さすがに数が減ったか」


 童子服は、口元くちもとを押さえて笑っている。


「何がおかしい」


「いや、別に。君が魔星を吸収していないってことは、あれから強くなっていないんだね。残念だなあと思ってね。もう少しで僕に勝てたかもしれないのに」


 呉文榮はカチンと来てにらみつける。


拙者せっしゃは、日々の鍛錬たんれんおこたってはおらん。魔星の力を加えずとも、腕は上がっている」


「へえ。少林寺しょうりんじ木人もくじんにも勝てなかったのにねえ」


 童子服は、舐め回すような目を向けた。呉文榮は、驚きと共にいきどおる。


「なぜ貴様がそんな事を知っている!」


 呉文榮はばや間合まあいを詰め、黒熊體こくゆうたいを打ち込んだ。


 しかし、童子服はいっ退いてするりとかわす。そしてぞうに手を伸ばした。


「ぬうっ」


 呉文榮の腹部に、匕首あいくちが刺さっている。焼けるような痛みが走った。童子服は、うっすらと笑いながら匕首をさらに突き込む。


「ぐううっ!」


 呉文榮は腹を押さえた。しかし、ものすごい勢いで血が溢れ出る。よろけたところを捕まえ、童子服は続けて背を刺す。


 さらに出血する呉文榮の身体に、童子服はじゅる。地察星が抜け出て来た。童子服が別の呪符を貼り付けると、地察星は矢のように撃ち出され、竜虎山の方角へ飛んで行く。


 呉文榮は、倒れて目を閉じた。童子服は生あくびをしながら言う。


「思った以上にじっちょくだったね、ご苦労さん。君に竜虎山に来られちゃ困るんだ」

この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?