翌朝。
「そうだ。
鋼先は、
彼女が
鋼先は
「よし、萍鶴が治ればみんな助かる。頼むぞ鋼先!」
「ああ」
鋼先は鋭く筆を振ったが、その直前に、光が消えた。
「えっ」
三人が、同時に驚いた。ただ水のはねる音がして、萍鶴の顔は墨で真っ黒。
たまたま通りかかった
「何をしている! 鋼先、八つ当たりみたいな真似をするな!」
「いや応究さん、誤解なんだ」
鋼先は、飛墨の失敗も相まって、とても面倒くさげに応究を見た。応究は顔を紅潮させ、鋼先につかみかかる。
「待ってくれ応究さん、痛い」
「弟も怪我をしています。応究さん、落ち着いて」
雷先もなだめようと近づくが、振り払われて倒れる。李秀と萍鶴は声も出ない。結局、
鋼先から事情を聞いた応究は、平身低頭して
「すまなかった。乱暴までして、自分が情けない。いっそのこと首を
鋼先は、苦笑して許した。
「いや、分かってくれたらいい。――しかし残念だ。筆が光ったときは、行けると思ったんだが。恐らく、
聞いていた雷先も頷く。
「結局、天魁星でも
「そうだな。俺たちは、若さと気力で回復するしかないってこった」
鋼先がまた苦笑する。
動けない萍鶴がたまらず泣き出し、その涙の筋だけ墨が流された。
余りにも
応究はしゅんとしたまま礼をして、そそくさと馬車を離れた。
◇
そのまま応究は、一人で買い出しに出かけた。
帰りに
「すみません、お茶をください」
しかし、店には誰もいない。
応究は仕方なく
「火をそのままにして店を
応究がいぶかっていると、一人の男が倒れるようにして店内に入って来た。
「な、
言い回しは
「そのうちに店主が戻るだろう。放ってもおけない」
男がさらに欲するので、追加で包子を出す。しかし、さらに人が入って来た。
「おお、こんなところに居酒屋が」
「一休みしますか」
「店主、何か食い物と、酒を頼む」
役人らしい三人連れが入って来て、注文をして来た。応究は引っ込みがつかなくなって、とりあえず包子と酒を用意する。
「出しますが……ちょっと聞いてください、私は別に店主では」
応究が説明しようとしたとき、もう彼らは食べ始めていた。そして、役人の一人が包子を指してしかめ面をする。
「何だか食った事のない肉だな。毛が混じってるし、これ人の
「えっ」
応究が驚くと、別の役人が椅子から転げて倒れた。
「この酒も変だ。
「えっ」
そして、その役人たちも、目を回して倒れてしまった。
応究は青くなってうろたえる。すると、
「
最初に来た男が叫び、応究をにらみつけた。
「あ、いや、私は」
応究は
「危ない!」
応究は
「我が名は
剣が応究を
「『
「死せよ!」
杜甫の剣が鋭く突き込まれたので、応究は反射で躱しつつ、顔に
「く、くくく……!」
杜甫は、蹴られた顔を
「つ、
「な、何をなさるのか?」
応究が訊くと、杜甫は、血を流しながら笑った。
「
「なに?」
杜甫の
「山賊め、覚悟せよ!」
杜甫の剣が、縦横に斬りつけられた。応究はなんとか躱すものの、わずかに遅れが出始め、髪や服が傷を受ける。
「うう、本当に強くなっている。このままではまずい」
驚いた応究は、剣をかいくぐり、
杜甫は、大きく吹っ飛んで倒れた。
が、すぐに起き上がると、またも剣を突き込む。とうとう、応究は見切れなくなってきた。杜甫の
「ぐああっ!」
「これは
杜甫の剣が、応究の首筋に迫った。
「刎って、おい……」
応究は咄嗟に手をかざす。しかし、銀色の薄い
痛みは、一瞬。
応究の首が、胴体を離れて飛んだ。驚いたままの目が開いている。
杜甫は飛んだ首を冷ややかに
「貴殿こそ、饅頭の
しかしそのとき、杜甫の頭でゴチンと音がして、
杜甫を打った
「
「だめだわ、くっつかない。急がないと
焦っている
「落ち着いて姉さん。そのままじゃ付くはずないわ」
「そうか、接着剤!」
「
六合はため息をついた。
九天は懐に手を入れると、小さな瓶を取り出す。そして応究の切り口にぶちまけた。
しかしそれでも、
「これ、もう直んないかも!」
「あっ、前後をよく見て。後ろ前になってる」
指摘を受けて、九天は首を反転させて付け直す。
ようやく、応究の首と胴は合わさり、手足がビクンと動いた。
「う、ううん」
目を覚ました応究は、二人がいるのに驚き、とりあえず、事の経緯を説明した。
「この人に、魔星がいるのですね?」
「はい。とても
九天が店から縄を持ってきて、杜甫を木に縛る。
そのとき、
「何かあったのですか。あら、張応究どの! そ、その血は?」
「血? おお、何だこれは! 少し気を失ってしまったもので、憶えていないのですが」
すると英貞は頷き、杜甫の胸元に
英貞はそれを手で制し、言った。
「私たちも、先程この店に来たのです。店主の夫婦に魔星が
そして
そのとき、杜甫が目を覚ました。
「こ、
杜甫は、きらびやかな衣装の女神たちと、
「おお、ならば我は、
ああ、思えば、
そう言って、杜甫ははらはらと涙を流す。応究が、感心して言った。
「この
それを見ていた九天が、立っていた地刑星に近付いて話をした。すると地刑星は店内に走り、茶碗を持ってきて九天に手渡す。九天は、杜甫にほほ笑んで言った。
「杜甫どの、目が覚めましたか。そう、あなたは今、確かに、天上の国にいます。しかし、まだあなたの寿命は尽きていません。ちょっと聞きたいことがありましたの」
そして、応究を指さして、
「あれがなぜか、天上に来てしまったので、あなたに確認してもらうために、来ていただいたのです。――あなたが倒した山賊は、あの男で相違ありませんね?」
応究は、慌てて手を振って
「いや、だから俺は最初から、」
と言ったところで、九天がにこやかに脇腹を殴って声を封じる。
杜甫は、しっかりと頷いて、
「相違ございませぬ。
と、
九天が、杜甫に笑いかけて言った。
「わかりました。では、これからあの男を、地獄へ送ります。間違いを防げて助かりました、ありがとうございます。あなたはもうお帰りになってよろしいですから、これをお飲みなさい。すぐに
そして杜甫の縄を
「こ、これは?」
驚いた応究に、九天は片目をつぶって言う。
「あの店にあった眠り薬です。これで、夢を見たと思ってくれるでしょう。――ごめんなさい、あなたを急に、変な芝居に乗せてしまって。この杜甫どのは、多少過剰な演出をした方が、うまく納得してもらえそうだと思ったのです」
「いや、地獄へ送るとか、ぞっとしましたよ。実際やれてしまう立場の方がおっしゃるんですから……」
応究は、迷惑そうな顔で九天を見た。九天は、慌てて礼をして詫びる。応究は押しとどめて、
「あ、いえ、杜甫どのを導くためですから、気にしていませんよ」
「本当に、すみません。思わず殴ってしまいましたし」
言われて、応究は脇腹を手でさする。
「そうですね、まだ痛いです」
「姉さんは、本当は素手で熊とか殺せるんだから、気をつけてよね」
六合が横やりを入れると、九天が赤くなって止めた。
「余計なこといわないで!」
姉妹のかけあいを見て、応究は笑う。ややあって、思い出して言った。
「そういえば、私もさっき、夢を見ていました。私の首が取れてしまい、それを誰かが後ろ前にくっつけるんです。ひどいですよね」
その言葉に、九天はびくっと跳ねる。
「え、ええ。よかったですね、夢で! ね、六合」
「本当、よかった。いろんな意味で……」
九六姉妹は、引きつった笑顔になった。応究は意味が分からず、首を捻った。
その後応究は、女神たちを
ところが、馬車の準備をしている人数を見て、英貞童女が顔を曇らせる。
「応究どの、これは困ります。私たちが顔を出しにくいではありませんか」
「だったら
しかし英貞は、そういう問題ではないと首を振る。
「あなた方を、
「ですが、あれは
「では、私と
応究が提案したが、英貞は首を振る。
「そうなると、長い道中、残りの方たちを守ることができないでしょう。それに、百八星もまだ全部集まっていないのですから、やはり旅を続けてもらうしかありません」
結局、英貞が聞き入れないので、長い距離を馬車で行くしかなくなってしまった。
「
六合は、雷先を
「いや、大したことありませんよ。ほら、全然動けます」
無理して腕を上下させ、やっぱり痛がる雷先に、六合は謝った。
「ごめんなさいね。薬水がもう無くて、大事なときに傷を治してあげられないの」
「いえ、収星はほとんど終わったし、ゆっくり治す時間はあります。そうだ、お茶を
「あ、それなら私が」
二人は手を触れたり離したりしながら、互いに赤くなりつつ、笑いあった。
「あの二人、そろそろ互いの気持ちを打ち明ける時期かな。野暮は止そう。俺もまだ、突っ込み入れられるほど動けないしな」
そう独りごちて、その場を離れた。
別の男女の声がするので、鋼先はひょいと炊事場をのぞいた。いたのは、応究と九天玄女だった。
「大丈夫ですか? あばらが折れたりしてないかしら」
九天に脇腹をさすられて、応究は照れ笑いしている。
「な、なんともないですよ、恐れ多いです。それにしても、九天様の判断はお見事でした。あの杜甫どのを、すっかり安心させて。私も、人の上に立つ身として、学ばせていただきます」
「ま、まあ、恥ずかしいですわ……!」
二人のやりとりを見て、鋼先は驚きながらも笑った。
「おっと。こっちはこっちで、捨て置けないな。応究さんはさしずめ、行動力のある女性に惚れるといったところかな。
……いてて、寄り道ばかりしてられない。みんなの怪我を、早くなんとかしてもらわなきゃ」
そのまま鋼先は
「馬嵬での戦いで、俺を含めて全員が大きな怪我をした。萍鶴がもっともひどくて、手も足も動かせないから、飛墨で治療することも叶わない。お願いだ、何か薬をもらいたい」
しかし、英貞は申し訳なさそうに、薬水が切れていることを
鋼先は、無言で肩を落とす。女神はただ
「そう言えば、
ふと気付いて英貞が聞くと、鋼先は、
「魯乗は、いや、
「どういう意味ですか、それは。ねえ、賀鋼先?」
英貞が、驚いて目を見開いた。
鋼先は、己の痛みに耐えながら、一部始終を説明する。
英貞は無言で聞き、終始うなずいていた。
◇
さて、以前に鋼先が
「みんなが怪我をしてるから、竜虎山まで一緒に行くんだと。確かに、彼女が世話してくれるのは助かる。そういうわけで、この件は後回しでお願いしたい」
その後、
英貞が、
「もう少しですね。うまく
とため息をつく。鋼先は、ふと思い出して言った。
「昨日、天魁星を訊ねてきた男がいた。立派な身なりの、
と、その時の様子を語った。英貞は頷き、
「ならば、その者は竜虎山にいるのでしょうね。私たちが確かめておきます。では、向こうでお会いしましょう」
そう言って、九六姉妹を連れて去って行った。
◇
ようやく準備が整い、
怪我人を
応究は、安全にたどり着けるよう、宿を取るたびに土地の人から話を聞いた。そうするうちに、
――
そして、
一方で、
しかし、
燕帝国は、地盤が固まらないうちに、早くも腐敗を始めていたのである。
(第四部 完)