鋼先たちは、燕兵を振り切って厩舎に行き、馬車を奪って乗り込んだ。鋼先が御者となり、街道を通って西へ進む。
「追っ手は来ないな。これで少しは落ち着ける」
後ろを見て、鋼先は速度を緩めた。収星陣も座席で安堵の息をつく。魯乗が言った。
「危ないところじゃった。すまんな、幻術が衰えて」
雷先が言う。
「びっくりしたぞ。これから先も、ああなのか?」
「おそらくな。安禄山との戦いで、かなりの力を失った。……これからが大変だというのに、口惜しいわい」
「長安へ行くのですか?」
フォルトゥナが心配そうに訊ねる。鋼先が答えた。
「ああ。すでに潼関が落ちて、燕軍が直行している。楊宰相が燕に捕まったりしたら、収星が面倒になるからな」
そこで李秀が、苦しげな声で言う。
「宮廷の魔星は、宰相だけじゃないよ。だから鋼先、急いで」
皆は黙って、李秀を見た。鋼先は苦笑して、馬に鞭を当てる。
「そうだろうと思ってたぜ。残りの魔星は約二十、それが長安に集中していると見ていいな。じゃあ李秀、ここまで送って来た礼に、長安で一杯奢れよ!」
◇
数日旅を続けて、収星陣は長安に入った。燕軍も来ているが、まだ数が少ないので、街の襲撃などには至っていない。
「宮廷に行こう。宰相はそこにいるわ」
そう言って李秀が御者を替わり、長安城内を走る。しかし、皇居に近付いたところで急に裏の路地へ馬車を止める。
「……やっぱり、寄って行こうかな」
つぶやく李秀に、雷先が訊く。
「どこだ、ここは」
李秀が馬車を降り、ちょっと大きい屋敷の門を開けて答えた。
「あたしの実家よ」
李秀はすっと門に入る。すぐに、嬉しそうに笑う男の声が聞こえ、そして李秀と共に門に現れた。
「ようこそ、皆様。あなたがたが、竜虎山の! いやいや、娘がお世話になっております。私は李焼、この娘の父親でございます。今は引退しましたが、朝廷で御史台に勤務しておりました」
そう言って、にっこりと笑った。隣にいる婦人が言う。
「李秀の母で、沈銀と申します。皆様お疲れでしょうから、どうぞゆっくりしていってください」
沈銀は使用人たちを呼び、宴会の用意をさせた。とりあえず酒が出され、飲んでいる間にどんどん料理が運ばれて来る。長旅で疲れていた鋼先たちは、久しぶりに心身を休めることが出来た。
「こんな時勢じゃ、開いてる飲み屋も少ないからね。うちでもいいでしょ?」
李秀が笑う。鋼先も笑って頷いたが、魯乗だけは何か言いたげな様子で李秀を見ている。李秀もそれに気付き、視線で「後で話す」と伝えた。
夜になり、収星陣は部屋を借りて休む。
中庭に呼び出された魯乗は、声をひそめて李秀に訊いた。
「わしの思い違いか? てっきり、お主の親は」
そこで李秀は手を突き付けて制する。
「ううん、予想の通りよ。あの両親は、あたしを育ててくれた養父母なの。でも、あたしは自分の出生を知らないことになってる。だから、ここに寄ろうか迷ったのよ」
魯乗は頷く。
「そうじゃったのか。……しかしそれなら、お主が知っておるのは何故じゃ?」
すると李秀は、ぐっと目を閉じて答えた。
「知りたくもなかったのに、本人が伝えに来たのよ」
◇
その頃鋼先は、李秀の両親に呼ばれて客間にいた。
「俺に話って?」
鋼先が訊くと、両親はいきなり礼をする。
「娘を無事にお守り頂いて、感謝の言葉もありません。旅をするだけでも大変ですのに、こんな戦乱まで起きてしまうとは」
そう言う李焼に、鋼先は礼をして答えた。
「いや、助けてもらってるのはこちらの方だ。しかし、今の李秀には何か悲壮な決意を感じる。気のせいだろうか?」
それを聞いて、李焼は深く頷く。
「おそらく娘は、これから命を賭けるでしょう。私たちは、一緒に暮らして長い。あの娘の考えていることは、よく分かります」
「……やっぱり、訳ありか」
鋼先が言う。今度は、沈銀が説明した。
「実は李秀は、私たちの子供ではありません。幼い頃に両親と引き離され、殺されるところだったのを、主人がこっそり引き取って来たのです」
「本当かい」
驚く鋼先に、沈銀は続ける。
「あの娘は、現皇帝の直孫に当たるのです。しかし、ある事情から、それが表向きにできなくなり、あの娘は産まれていないことにされました」
つらそうな声の彼女を止め、李焼が引き継いだ。
「殺害を命ぜられた男が私の友人でして、困って相談に来たのです。それで密かに引き取りました。私も末端ですが宗室(血縁の遠い皇族)なので、捜査も緩かったのです」
「捜査?」
「その友人を含め、あの娘の出生を知っている者は、皆消されました。それほど忌まわしい存在です」
鋼先は頷いた。
「そうだったのか。前からある程度は、想像がついていたよ。李秀が自分から言い出すまでは、訊かないことにしていた」
すると夫婦はまた礼をする。
「ご配慮に感謝します。私たちも、表向きは何も知らず、本当の親子として暮らしていました。あの娘も、家内の親戚の郭子儀将軍に武芸を教わったりと、元気過ぎますが優しい子で、一昨年まではごく普通に生活していました。……しかし、誰かがあの娘に事実を教えたらしく、急に塞ぎ込むようになったのです」
「特に自分からは何も言わなかったのか」
「ええ。ですが急に太史監に勤めたい、などと言い出しまして。あまりにも真剣に言うので、私の縁故を頼りに、男装までして入りました。その結果、何かを感じたらしく、竜虎山へ旅立ったのですが」
「そうだったのか」
鋼先は腕組みして少し考え、そして言った。
「じゃあこちらも話そう。李秀と、そして俺たちが何を追っているかを」
◇
翌日、六月十二日。
李焼の屋敷を出て、収星陣は宮廷へ向かった。
行きながら、雷先が李秀に問う。
「太史監へ報告とかはしないのか?」
すると李秀は首を振る。
「あたしが太史監に入ったときには、百八星の件は気にするなと、すでに宰相府から手を回されていたのよ。それで怪しいと思って、一人でこっそり調べたの。だから、このまま宰相府を叩きに行っちゃおう」
そして、収星陣は唐兵の服を着て、伝令の振りをして宰相府へ向かう。門番に呼び止められたが、「潼関からの使いだ」と言うと、すぐに通された。
宰相府の中では、人々がばたばたと走り回っている。皆怯えた表情で、これからどうなるのか訊き合っていた。
突然、婦人の叫び声が上がる。
「宰相はどこ! 哥舒翰は、もう賊を退けたのでしょうね? 戦勝報告はまだなの?」
ぎらぎらに着飾った、化粧の濃い女性だった。鋼先がこっそり魯乗に訊く。
「なんだい、あのおばさんは」
「楊貴妃の従姉、韓国夫人。贅沢三昧で国費を食い潰した外戚じゃよ」
その韓国夫人が、鋼先に目を向けて言った。
「お前、伝令かね。戦況をおっしゃい、早く!」
鋼先はさっと礼をして、
「はい。哥舒翰将軍は敗北し、潼関は落とされました。近日中には燕兵が長安に大挙する見通しです。……宰相は、どこにおわしますか」
しかし、韓国夫人はそれに答えず、両手で頭を抱えて絶叫した。
「そんな! 潼関が落ちたらお終いじゃないの! に、逃げるわよ。こんなところにいたら殺される!」
叫びを聞いて、彼女付きの女官たちもうろたえ出す。さらに彼女の妹もやって来て、同じように騒ぎ出した。
鋼先が舌打ちをする。
「騒ぐだけで何もしねえな。切羽詰まれば宰相を捜すかと思ったのに」
「まったくね。魔星の力を、贅沢することにしか使ってなかったみたい」
そう言って李秀が朔月鏡を見せた。韓国夫人を始め、騒ぎで集まってきた外戚たちに、魔星の名前が重なって映っている。鋼先が大きく頷いた。
「よし。混乱ついでだ、片っ端から収星しよう。もう変装もいらねえ」
そう言って兵服を脱ぎ、追魔剣を抜く。雷先たちも兵服を捨て、めいめい武器を手にした。フォルトゥナは李秀から朔月鏡を受け取り、収星の係となる。
「嫌よ! 私はまだ、買うのを楽しみにしているものがたくさんあるんだから! 私は貴族なのよ! 皇族よ! 誰よりも、守られなくてはならないのに! 世の中おかしいわよおおおお!」
韓国夫人の妹、虢国夫人が、全く状況を受け入れられず、長い長い金切り声を上げている。それを聞いた雷先が、顔をしかめて言った。
「とてつもなく鬱陶しいな。こうなりゃ、全員ぶちのめしてやるか」
「兄貴、相手は高貴な方々だ。『各位もれなく打擲してさしあげましょう』と言おう」
鋼先がそう笑って飛び出し、韓国夫人に追魔剣を刺した。夫人は気絶し、地好星が抜け出る。
「ああ、あ。こ、こうでいいですか?」
フォルトゥナが、あわてて鏡で吸い込んだ。それに続くように、雷先たちも暴れ出した。棒が、双戟が、百威が、念力で飛ぶ仏像が、狂騒する貴族たちを打ち据える。気絶する彼らに、萍鶴が飛墨を放った。魔星が次々に抜け出て来るのを、フォルトゥナが忙しく収星して回る。しかし、そのせいで女官や宦官たちがさらに怯え、宰相府は大混乱になった。
鋼先はその時、一瞬だけ顔を出して去る男を見た。「今の人、鏡に地賊星と!」とフォルトゥナが告げたので追いかけると、部屋に逃げ込む。鋼先が追うと、男は腰に下げた鉄剣を抜いた。
「ふふ、とうとう来たな。お前が賀鋼先か。よく鉄車輪の手から逃れたものだ」
「あんたが楊国忠だな。お陰でえらい目に遭った。訊きたいことは山ほど有るが、まずは収星だ」
鋼先は剣撃を繰り出した。いつも通り、雑で鈍重な剣捌き。しかし、男はぎりぎりで受け止める。ならばと、鋼先は酔剣の技で側面に回り込む。死角を狙ったつもりだがそれも当たらず、逆に斬撃が来る。体重の乗らない太刀筋だが、鋼先には受けられるぎりぎりだった。
鋼先は唸る。
「驚いた。こいつ、俺と互角の弱さだ。珍しい」
すると、男は嘲笑う。
「腕が互角なら、あとは駆け引きの勝負。さあ賀鋼先、位人臣を極めた男の狡猾さに勝てるかな?」
「自分で言うな。……だったら」
鋼先は酔剣をやめて、真っ向から剣を打ち付ける。鍔で受け止められたが、そのまま力で圧した。
「駆け引きをしないのが、駆け引きだ」
そう言って大きく踏み込み、さらに力を込める。激しい金属音が響き、鉄剣が折れた。
「しまった!」
「食らえっ」
鋼先は下から切り上げるように追魔剣を振る。剣は相手の脇腹に食い込み、光が起きた。
「ぬううう!」
叫びと共に倒れ、地賊星が出て来た。鋼先はふうと息をついて膝をつく。しかし、地賊星は首を振っていた。
「天魁星の兄貴、見事でした。ですが、駆け引きは貴方の負けです」
「なんだって?」
鋼先が訊くと、地賊星は倒れている男を指さす。
「この男は楊国忠ではありません、身代わりの部下です。本人は昨日のうちにこの男に私を移し、逃げています」
鋼先は、追魔剣を投げ捨てて苦笑した。
「ほんとうに狡猾だな。まあ、それだけ奴らも焦ってるってことか」