馬を駆り、収星陣は潼関へ急ぐ。夜を日に次いで北から西へ回り込み、六月の五日には潼関の西端に至った。鋼先は近くに道観を見つけたので、顔を出してみる。
挨拶を受けた道士が、恭しく礼をした。
「張応究様から伺っております。お入りください」
長距離の移動を終え、収星陣は通された部屋に倒れ込んだ。少し休んでから皆で茶を飲んでいると、道長がやって来て言った。
「張応究どのが来られて、あなた方の通行を援けるようにと。この道観は特別に通牒が発行されていますので、行き来は簡単です」
鋼先は礼をした。
「それは助かる。明日、潼関に行って唐の軍に紛れたいんだ」
「お任せください」
「ところで、応究さんは?」
雷先が訊ねると、道長はため息をつき、
「戦況が緊迫していることを知り、長安城内の道観へ、避難を勧告しに行かれました。あちらの道士たちが戦禍に巻き込まれないように、と」
「そうか。あっちで会えるといいが」
鋼先が案ずると、皆も頷く。その日は早く夕食にしてもらい、翌日に備えて充分に休んだ。
翌朝、収星陣は道長に連れられて馬車に乗り、潼関の西側に来た。関門の向こう側は百里(約五○キロ)に渡って隘路が続き、馬車もすれ違えない道幅。攻める燕軍には不利な地形であった。
道長が用意してくれた唐軍の兵服を着込み、鋼先たちは兵舎に紛れ込む。
兵士たちは演習場に集まり、命令を聞いていた。
「燕の賊どもに怯えるのは終わりだ。我が軍はすでに関を開き、敵と遭遇している。お前たちも準備を整えろ!」
兵士たちは弱々しい返事をすると、のそのそと解散していく。士気がまるで上がっていないのは、誰が見ても明らかだった。
フォルトゥナが、命令していた男を見て言う。
「あれは、副将の火抜帰仁ですね」
「どうするの、鋼先」
李秀が心配そうに訊く。鋼先は頷き、歩き出した。
「時間が無い。哥舒翰将軍に直談判するしかねえな」
鋼先たちは、司令室で哥舒翰に面会した。
「私が哥舒翰だ。病身ゆえ、大勢の前で話す体力が無く、号令は副将に任せている。――郭子儀のところから来たそうだな?」
鋼先は、郭子儀が書いてくれた紹介状を見せる。哥舒翰は目を通し、頷いた。
「あいつにも心配をかけたな。だから、戦うのは一度だけだ。特殊部隊を駆使して燕軍を追い散らし、また潼関を閉める。これなら朝廷への面目も立つし、安禄山にもひと泡吹かせられる」
哥舒翰は、鋭い眼光で言った。鋼先は無言で聞いている。
「君が来る前に、私も郭子儀の勝利を聞いた。安禄山は、信頼する史思明が敗走して、本気で范陽に帰ろうと思ったらしい。燕軍が浮き足立った今なら、攻めるに好機。明日、潼関の東の霊宝で対峙する」
哥舒翰はそう言い切って、茶をすすった。病身で痩せているが、呼吸は落ち着いている。ここまで言われては、鋼先も納得するしかない。
「ならば俺たちは、一段落するまであんたに付いていこう」
そう言って鋼先は、燕軍で諜報をしていたことを話したので、哥舒翰は喜んで承諾した。
六月八日、両軍は霊宝の西原で開戦した。
実は、鋼先たちが残った理由はもう一つあった。朔月鏡で映した結果、哥舒翰に天威星が憑いていたからである。しかし、大事な決戦前なのを憚り、収星は様子を見ることにした。
哥舒翰は総司令官として野営の床机に座り、副将の火抜帰仁がその言葉を伝える。鋼先たちは前線に出ず潼関の兵舎に入った。無理な移動と戦争による緊張が続いたので、さすがに疲労が溜まり、眠りに就く。唯一、百威だけが飛び立って戦いの様子を見ていた。
――勇壮に出陣した唐軍は、意外にも燕軍をどんどん駆逐していく。山へと逃げて行くのを追って、勢いよく攻め立てていた。
百威は、山頂へと飛んで両軍の動きを追う。しかし、そこで燕軍劣勢の理由に気付いた。
(あれは、計略か)
山頂に潜んでいた燕軍の伏兵が、大岩や丸太を大量に投下している。唐軍はそれをまともに食らい、多数の死傷者が出た。唐将は兵をまとめて、急ぎ撤退する。
(このまま乱れるとまずい。本陣はどうだ)
百威が司令部へ戻ると、哥舒翰が机を叩いて怒鳴っていた。
「怯むな。急いで『氈車』部隊を出せ。これで一気に巻き返す!」
全軍に、突撃の命令を出した。
地響きを立てて、奇妙な戦車の群れが押し進んで来る。通常の戦車に比べて、外観が異様であった。
猛獣が刺繍された錦をかぶせた車体には、多数の刃が取り付けられていた。戟手と弓手を乗せ、御者が馬を駆って突進する。この兵器ならば、兵士の質が低くとも相当な破壊力である。
哥舒翰が、震えて笑った。
「守りに徹する裏で備えていた、俺の切り札だ。来い、安禄山。貴様の巨体もろとも踏み潰してくれるわ!」
禍禍しい姿の新兵器は、燕兵たちを無残に蹴散らして進んだ。すれ違うだけで身体が細切れにされるその威力に、彼らは為す術もなく逃げ惑う。
哥舒翰は、そのまま燕軍を潼関外まで押し出せと命じた。
しかし、なかなか戦勝報告が来ない。しばらくして、火抜帰仁が息せき切って駆け込んで来た。
「戦況悪化、氈車の弱点を突かれました。もう使い物になりません」
「なに」
哥舒翰は首を傾げた。
「馬鹿を言うな。弱点などあるか」
信じようとしない哥舒翰に、火抜帰仁は訴えるように言う。
「あったのです。火! 火です!」
哥舒翰は、首を振る。
「車体の鉄刃は、火などに負けぬ」
「違います! 車体にかぶせた、錦繍です! あのでかい布地ですよ!」
「な、なんだとっ!」
ようやく合点がいった哥舒翰は、みるみるうちに青ざめた。火抜帰仁が、指示を仰ぐ。
それを見ていた百威は再び飛び、氈車部隊の最前線を見に飛んだ。
すべての氈車が、黒煙を吹いて燃えていた。燕軍は、火を用いた攻撃に転じたのだ。柴を積んだ荷車に火を点け、氈車へとぶつける。猛獣の錦はたちまち燃え上がり、兵士は氈車を捨て、そのまま逃亡してしまっていた。
(粘り強さが無い。結局は士気が無ければ役に立たなかったか。もうだめだな)
そう思った百威は、戦線を離れて魯乗たちの下へ飛んだ。
翌日になると、騒々しい叫びと共に、たくさんの人馬が潼関に押し寄せた。
鋼先たちは兵舎を出て関門に行く。唐の兵が、どんどん関内へと逃げ込んでいる。同時に、多くの燕兵も雪崩れ込んでいた。関門は燕兵に占拠され、閉じようと近付く唐兵が斬られている。
「やはり無理だったか」
鋼先が言う。やがて、帥旗を立てた部隊が関内に入るのが見えた。
鋼先たちが近付くと、護衛に守られた車椅子の哥舒翰がいた。真っ青な顔で、ため息をつく。
「私の見立てが甘かった。氈車は焼かれ、さんざんに討ち取られた。これ以上はないくらいの大敗北だ。おそらく間諜がいて、氈車の構造が漏らされたのだろう。火計での対応が周到すぎる」
鋼先たちは、掛ける言葉もないまま、哥舒翰とともに逃げる。やがて関西という駅に到着し、そこの駅亭で休むことになった。
哥舒翰を室内に運び、とりあえず彼を休ませる。一段落したとき、火抜帰仁が現れて言った。
「将軍、これからどうします。潼関は敵の手に落ち、長安の防壁は無くなりました。敵兵が長安に押し寄せます」
哥舒翰は、震える手で制する。
「今、敗残の兵を集めている。それを整え、長安に迫る敵を討つ。一兵でも多く。それしか都を守る術はない」
「長安を守っている近衛兵は?」
火抜帰仁の問いに、哥舒翰は首を振る。
「あれは、きらびやかな軍装を着ただけの、貴族の子弟たちだ。敵が侵入したと知れば、何もせずに逃げるだろう。だから我々が、ここで少しでも敵を減らすのだ」
「将軍、お言葉ですが、それで一体何が報われます。我々は今日、二十万の兵と潼関を失った。宰相は、必ず我々を処罰するでしょう。戦っても無意味です」
「何が言いたい、帰仁よ」
「燕に降伏しましょう。あなたは嫌でしょうが、もう方法がない」
しかし、哥舒翰はにらみつけて怒鳴る。
「戯けたことを言うな! 安禄山に降るくらいなら、私は自決する。早く兵をまとめ、敵を討つ支度をしろ!」
しかし、弱々しかった火抜帰仁の表情が変わった。目を怒らせ、舌打ちをする。
「なあ、いい加減、忠臣の振りはやめろよ。俺は犬死にしたくないんだ。あんたを連れて降伏すれば、安禄山は喜ぶだろう。自決なんかされちゃ困るな」
「帰仁、まさか、お前」
哥舒翰が、何かに気付いた。火抜帰仁が、おどけて笑う。
「今頃気付いたか。そう、氈車の情報を売ったのは俺さ。あんたが勝てなかった場合、鞍替えしやすいように手を打っていたんだ。
おい兵士ども、俺に付いて来い。この爺を差し出して、俺は燕で将になる。燕はもうすぐ長安を獲るんだ。唐なんか滅ぶぞ」
兵士たちが、ざわついて火抜帰仁を見ていた。鋼先は、魯乗にささやく。
「この内輪揉めはまずい。ここを出るぞ。魔星には構うな」
「分かった。幻術で闇を作る、その隙に出よう」
しかし、火抜帰仁が手を挙げると、彼の部下が鋼先たちを囲んだ。魯乗は幻術を使う。その場にいた全員が急な暗さに驚いた。しかし、闇というほど暗くはない。
火抜帰仁が、辺りを見て言った。
「妙な暗さだな。いや、気にするな。包囲を強めろ」
火抜帰仁の部下は、互いに腕を組んで固定する。鋼先が言った。
「駄目だ、動けない。魯乗、一体どうした?」
「すまん、思った以上に力を失っている。これで限界じゃ」
安禄山との戦いで魂魄を消耗した魯乗は、あれ以来力を落としていた。だんだんと暗さは消え、光景が戻って来る。
火抜帰仁が言った。
「賀鋼先、お前たちは燕を脱走して来たと言ったな。お前たちもまとめて、安禄山への土産にしてやる。おい、連れて行け」
包囲していた部隊が、鋼先たちを剣で脅して歩かせる。火抜帰仁が、哥舒翰に向き直った。
「将軍、本音を言えよ。あんたは安禄山が叛くまでは、長安で贅沢暮らしをしていただろう。本気で自決するつもりなんか無いはずだ」
哥舒翰は、力無く頷いた。火抜帰仁は笑う。
「そうだろうな。おっと、行く前に、あんたが持っていた魔星の力を頂くぜ」
「きさま、知っていたのか」
「あんた、自分の中にいる奴と話していただろう。それを聞いていたら、あんたの強さが魔星って奴のものだって分かったぜ」
「よせ。私のように反動で体を壊すぞ」
「そんときは追い出すまでだ。ええと、こうすりゃ出るかな」
火抜帰仁は、哥舒翰の鳩尾を蹴った。
「ぐうっ」
哥舒翰は気を失い、その身体から、光る神将が抜け出てくる。火抜帰仁が笑った。
「これから燕軍で出世するには、どんな力でも利用しないとな。さあ天威星とやら、俺に入ってこい」
火抜帰仁が、迎え入れようと両手を広げる。しかしそのとき、包囲の中から身をよじって、萍鶴が飛墨を放った。天威星の頬に「収星」の文字が現れたかと思うと、強い光と共に、天井を破って空に消えた。
火抜帰仁が慌てる。
「おい、何だ、今のは!」
そのとき、魯乗の懐から百威が飛び出し、包囲網に襲いかかる。驚いた兵が飛び退いた。
「今だ、脱出するぞ。急げ!」
鋼先が指示し、扉を開ける。雷先と李秀が周囲の兵をなぎ倒し、収星陣は駅亭を飛び出した。