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第五十六回 僕固懐恩の娘




 てんゆうせいたちをしゅうせいした後、こうせんらはかくから厚い歓待かんたいを受け、せんしょうの祝いも兼ねて宴会に参加した。きょうだいな敵を退しりぞけた後なので兵士たちの喜びも大きく、皆で楽しく飲み食いした。


 しかし、宴会のさいちゅうちょうほうが来て、郭子儀に手紙を見せる。文面を見て、郭子儀の顔色がみるみる変わった。


「まずい、潼関どうかんに動きが出た。こうちゃくしていた燕軍えんぐん交戦こうせんするらしい」


 そう言って、郭子儀は地図を広げ、洛陽らくようちょうあんの間にある潼関を指さした。


「安禄山がはんするまで、私はじょかん将軍の部下を務めていた。内情は良く知っている。今の潼関は、哥舒翰将軍がかたく守り、えんはずっと手出しできなかった。だが、将軍がひきいている兵はびょうじゃくな者ばかりで、やみ戦線せんせんを開くはずはないのだが」


 鋼先がうなずく。


「俺たちも燕軍の諜報班ちょうほうはんにいたときに、そう聞いていた。何か、たいきゅうへんでも?」


 郭子儀は手紙を目で追いながら


「哥舒翰将軍に、造反ぞうはんの疑いが掛けられてしまったそうだ。


 あんろくざん結託けったくし、潼関を明け渡して長安を攻め取るのではないか、と。それを聞いた皇帝がに受け、早く燕を討ってちゅうせいしめせとせまっているらしい」


 らいせんが、卓を叩いて怒りを現す。


「なんてこった。味方が足を引っ張ってどうする!」


「雷先君の言うとおりだ」


 こうひつが頷き、続ける。


ちょうていがわは、みやこぢかまで敵が迫ったので怖くなったんだろう。あちらには軍事のようりょうなど理解できまい。だまっていて欲しいのだが、朝廷にさからえばはんぎゃくしゃあつかいだ。哥舒翰将軍の苦労がしのばれるな」


 それを聞いて、鋼先がすっと立ち上がった。


「じゃあ、黙らせに行くか。かくしょうぐん、馬を貸してくれ。俺たちは急いで長安に行く」


 しかし、郭子儀は少しあんして言った。


「急いでもらうのは助かる。だが、先に潼関へ行ってくれないか。ちょっと気になることがある」


「気になること?」


「哥舒翰将軍は有能ゆうのうだが、ずっとやまいわずらっていた。追い詰められた今、どのように心変こころがわりするか分からない」


 鋼先が頷く。


「確かにそうだ。では潼関にきゅうこうしよう」


おんに着る、こうせん。それから、李秀りしゅうのこともよろしく頼む。無事に長安まで送り届けてくれ」


 郭子儀は、うやうやしく礼をした。李光弼もそれにならう。鋼先と李秀は、きょうしゅくして礼を返した。




 出発に際して、郭子儀はもうひとつ頼み事をした。


「私の旗下きかに、ぼくかいおんという武将がいる。てつろくぼくこつぞく(トルコ系の部族)の首長で、ウイグル族の王とつながりがある。万一我が国が窮地きゅうちおちいったとき、彼を通じてウイグルから兵を借りることができそうなのだ」


 李秀りしゆううなずいた。


僕固将軍ぼくこしようぐん、お名前はうかがったことがあります。その方が、何か?」


「彼は今、家族を連れてくるために別行動を取っているのだが、なかなかやって来ない。もし出会うことがあったら、急ぐよう伝えてほしい」


 こうせんが頷いた。


「了解した。その辺は百威ひやくいがいるから大丈夫だ。じゃあ、馬を貸していただくぜ」


 収星陣しゅうせいじんは、足が速く従順な馬を借り、早速出発した。雷先を先頭に、へいかく、鋼先、フォルトゥナと並び、殿しんがりは李秀が守りながら、潼関への道を急ぐ。魯乗ろじょうは落下などの危険をけるため、ひょうたんの中にこんぱくを保護して鋼先が持っている。


 百威が先行して飛び、様子を見ながら戻るということを繰り返していたが、昼を過ぎた頃、何かを見つけたようだった。


 百威が導く方角に向かうと、やがて唐軍とうぐんの小隊列が見えたので、李秀が挨拶あいさつに行く。


 すると、ひげだらけの丸い顔をした武将が、にこやかに礼をして言った。


「おお、かく将軍のお使いか。わざわざすまないな。粗末なえいだが、休んで行ってくれ。わしが僕固懐恩だ」


 僕固懐恩は、食事の用意をさせ、収星陣の馬に水とかいを与えるよう指示するなど、気を利かせてくれた。鋼先たちも、乗馬に疲れていたため、食事の後にすぐ寝入ってしまった。


 魯乗だけは、様子見も兼ねて姿を現し、僕固懐恩と話をしていた。家族を連れて軍に戻るはずなのに、何かめていたからである。


「では、娘御むすめごが承知しないので、合流が遅れていると?」


 魯乗が確認すると、僕固懐恩は困った顔で頷いた。


「不思議な事を言うのです。不安な予感がする、と。……このわしが、いずれ疑われて討伐を受けるから、唐には関わらずに逃げようと言うのです。普段はおとなしかった娘ですが、最近馬に乗り、武器の扱いを憶えました。この国のために役立ってくれるのかと喜んだのですが、わしの部下をそのように説き、全体がはんしそうな騒ぎになっております。こうしている間にも、燕軍えんぐんは迫っている。早くなんとかしないと」


 僕固懐恩は、満面に汗をかいて悩んでいる。魯乗は、思うところがあって提案した。


「娘御は十六歳だそうですな。まあ、まだ世間を知らんのでしょう。わしから話してみますから、お任せいただきたい」


 魯乗は自信たっぷりに言った。




 ◇




 僕固懐恩の娘・れいは、青を主体に金の縁取りをしたよろいをまとい、馬上にて武器を構えている。長い棒の先に無数のとげを植え付けた重りがある、ろうぼうという物騒な武器であった。


 そして、それに対面して、李秀が同じく馬にまたがり、麗華に借りた桃色の鎧を着て、双戟そうげきを構えている。


 しかし、その表情は混乱に満ちていた。


「な、何でこうなってるの……?」


 ぼく収星陣しゆうせいじんが見守る中で、唐突に勝負が行われることになった。




――話は少し戻る。


 魯乗から、郭子儀に合流するよう説得を受けた麗華は、かえって逆上した。


「ボクは嫌です! 戦いが怖いんじゃない、国が混乱していくのに我慢ができないんです!」


 だからどうしてもこの国を離れると言って聞かず、とうとう魯乗に殴りかかった。


 彼女にしつこく追い回され、「こんな事で消されてしまってはかなわん」と泡を食った魯乗は、自分の代わりに李秀が相手をする、勝ったら好きにするがいいと、その場しのぎを言ってしまったのであった。――




 麗華は、まだ幼さの残る顔で、ぜんと李秀に告げた。


「李秀さん、悪く思わないでほしい。ボクはあなたを倒し、家族とこの地から離れる。父上も、それでいいですね」


 僕固懐恩が、嫌そうな顔で頷く。


「ううぬ、仕方ない。勝ったらだぞ。――李秀どの、すまんが頼みます。まだ嫁入り前なので、何卒なにとぞやわらかに。しかし、圧倒的にやっつけていただきたい!」


「都合のいい注文しないで!」


 押しつけられた李秀は、涙目なみだめになって叫ぶ。


 その時、フォルトゥナが紙片に何か書き付けをし、百威に持たせた。百威はぱっと飛び、李秀に届ける。


「あっ、何か好い対応策かな。たすかる!」


 李秀が喜んで紙片を開いた。


『確認が遅れてすみません。麗華さんに、てんもうせいいています。気をつけてください』


 読んだ李秀の、涙が倍増した。


「ねえ……あたし、やくなの?」


 その時、麗華が馬腹を蹴って進んできた。


「李秀さん! 来ないのであれば、ボクから行きます!」


 馬の突進と共に、狼牙棒が勢いよく突き出された。李秀は馬上でのけ反ってこれをかわす。


 麗華は、棒を引かず、そのまま李秀の腹に打ち下ろした。


「うっ!」


 李秀は双戟を交差させてこれを防いだが、狼牙棒の重さに耐えられず、打撃を受けた。麗華は一本取ったので退き、にやりと笑う。


「郭子儀将軍のお弟子と戦えるなんて、光栄です。どうぞ、そちらもご遠慮なく!」


 李秀は身震いした。


「えげつない武器ね。直撃だったら、おなか破られてたわ」


「はあっ!」


 麗華は、またも突進して来た。同じように狼牙棒をとつする。速度が増していた。


 双戟で払いながら、李秀は直感する。


(駆け引きがない。力と速さですだけね。せいりょりょくだけが強くなったのかな)


 麗華は実戦の経験が浅い、と判断した李秀は、次々に打ち出される狼牙棒を払いながら、彼女の周囲を駆け回った。郭子儀に鍛えられた李秀は、騎馬での戦いも慣れている。麗華の攻撃は、全く当たらなくなった。


「仕方ない、ごめんなさい!」


 ごうを煮やした麗華は、狼牙棒で李秀が乗っている馬の胸を突く。馬は驚いて後ろ足立ちになった。


「うわわっ!」


 落馬しそうになった李秀は、必死にくらにしがみつく。麗華は、そのすきを突いた。


「もらった!」


 麗華は、李秀の背中に狼牙棒を打ち込む。


 しかし、李秀はぱっとくらを跳び、宙返りして麗華の馬に着地した。


「えっ?」


 驚く麗華。狼牙棒は空振りしている。李秀は、勢い余った麗華の脇に狙い定め、馬から蹴り落とした。


「あああっ!」


 麗華は落馬したが、すぐに立ち上がって狼牙棒を取った。


「ま、まだです!」


 李秀も馬を下り、双戟を手にして、一気に駆け抜ける。


「やあっ!」


 激しい金属音が響き、狼牙棒が、中空を舞う。舞いながら、二つに斬れて、どすんと落下した。


 李秀が、残心ざんしんの構えのまま、あんのため息をつく。


 麗華は、がっくりと膝を折ってうなだれた。


「ま、参りました。ボクの負けです」




 ◇




 ようやく事が終わったので、鋼先は僕固懐恩に、魔星の話をした。彼は驚いたものの、娘の様子が変化したのはそのせいだったのかと合点し、収星を依頼する。


 すっかりおとなしくなった麗華についけんを刺すと、いかつい顔をしたじんしょうが現れた。


「天猛星。この娘が不安がっていたことに、何か心当たりはあるか?」


 鋼先は、ぼくおやに配慮して、小声で聞いた。天猛星は答える。


「はっ。私は、野営の火に誘われるようにここに迷い込んだところ、この娘に憑依ひょういする形になってしまいました。娘は、どうもそれから、漠然ばくぜんと未来が見えるようになっていたようです」


「漠然と、か。はっきりしてはいないのか」


「はい。だからこそ、不安はかえって大きくなってしまったのでしょう。詳細はよく分かりませぬ」


 天猛星はそうして収星を受け入れ、朔月鏡に入っていく。麗華も、魔星が抜けた途端に力を失い、自分がしていたことを忘れてしまっていた。


 結局、気にはなったのだが、潼関へ急がなくてはならないため、鋼先たちは野営をった。僕固懐恩も家族と部下を率いて、郭子儀の軍へと出発した。




 ◇




――後の話になるが、鉄勒族首長である僕固懐恩は、ウイグル族のかん(王)に娘を嫁がせた。僕固懐恩がウイグルから兵を借りることができたのは、これに由来する。


 後に唐はウイグルの助力で国を回復させるが、その後の政治は混乱し、功績こうせきのあった者が讒言ざんげんおとしいれられる事態が相次いだ。主に宦官かんがんたちが、功臣こうしんが権力を得て台頭たいとうするのをおそれ、罪を着せてほうむろうとたくらんだものが多い。皇帝もそれに乗せられて、功臣にむくいようとしない態度が目立った。




 安史の乱のとき、僕固懐恩は郭子儀に従って多くの手柄を立てた。援軍のウイグルを率いて、燕の最終皇帝である史朝義しちょうぎの首を斬るところにまで貢献こうけんしたのである。


 しかし、乱が終わると、彼も讒言ざんげんによって疑われ、叛乱はんらんに追い込まれてしまった。


 僕固懐恩は、唐のさいしょうはいじゅんけいに、泣きながらこう訴えたという。


「この戦いで、我が一門からは四十六名もの戦死者が出ました。それだけでなく、援軍を得るために娘をウイグルに差し出しましたし、敵から敗走してきた息子を、軍律のために、私が自ら斬ったりもしたのですぞ。――ここまで苦しい戦いを続けて、ようやく乱をしずめたのに、功は無視され、野心があると疑われて叛逆者にされるとは! あまりにもひどいではありませんか!」


 これを聞いた裴遵慶は、ひたすらなぐさめて唐へのにゅうちょうを勧めたが、叛逆者であることは取り消せないというので、僕固懐恩は唐へは行かず、去って行った。おめおめと唐に入れば、捕まって処刑されるだけだと分かっているのである。


 そして永泰元年えいたいがんねん(七六五)、僕固懐恩はばん・ウイグルなど蛮族ばんぞく二十万を率いて唐を攻め、都・長安はその勢いに震撼しんかんしたが、僕固懐恩はその途中で病死し、乱は郭子儀によって鎮圧ちんあつされた。


 ウイグルの王に嫁いだ僕固懐恩の娘は、「婆墨光親麗華毘伽可敦」という名をもらい、ウイグルの皇后に納まっていたが、父の死から三年後にぼつした。

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