唐の玄宗皇帝。
中国の歴代皇帝の中でも、特に有名な皇帝である。
政務とは別に、歌舞などの芸術、そして道教に関心のある人物だった。玄宗の「玄」は、道教との関わりが深い文字である。玄宗は羅公遠という仙人の道術に興味を持ち、頼み込んで隠れ身の術を習ったが、何度やってもうまく姿を消せず、身体のどこか一部が見えていた、という逸話が伝わっている。
彼の治世の前半は、善政を布いて国を大いに発展させ、元号の名を取って「開元の治」と呼ばれた絶頂期となった。人々は平穏で豊かに暮らし、芸術・文化も円熟を見せ、唐は周辺のアジア諸国にも影響を与える大帝国となった。
しかし、玄宗は名君としてより、後半の堕落ぶりの方が有名である。
開元二十五年(七三七)、愛妃の武恵妃に死なれた玄宗は、宦官(去勢されている宮廷の召使い)の高力士という者に命じて、新しい女性を探させた。
玄宗の好みをよく知る高力士は、楊玉環という二十五歳の、豊満な佳人を連れてきた。玄宗の喜びは、天にも昇らん勢いだった。
「素晴らしい。美しさはもとより、賢く、さらに歌舞にも詩文にも秀でた女だ。よくぞ見つけた、力士」
高力士は拱手して答えた。
「いささか強引な手法を用いました。お許し下さい」
「構わん。それほどの価値がある女だ、許す。朕は万乗の皇帝ぞ」
ひと目で気に入った玄宗は、さっそく彼女を宮中に入れた。そして貴妃という位を与え、以降楊貴妃と呼ぶようになる。
玄宗は、霓裳羽衣の曲という自慢の曲を、楽団に奏でさせた。楊貴妃もこれを気に入り、持ち前の才能を活かし、華麗な舞踊を披露したので、玄宗はさらに彼女に惚れ込んだ。
玄宗はこのとき五十五歳。美女に夢中になった名君は、この日以来、毎日のように宴を繰り広げ、まったく政務を執らなくなってしまった。
玄宗に代わって朝廷を動かしていたのは、宰相の李林甫であった。
李林甫は有能な政治家であると同時に、奸臣の手本のような男である。自分よりも有能な者に宰相の地位を脅かされぬよう追放したり、あらぬ罪を着せて処刑したりした。また、武将が手柄を上げても重用されにくいように、漢族ではない異民族の軍人を採用するなど、細かいところまで抜け目がなかった。
このころの唐には科挙(官僚登用試験)の制度もできており、優秀な人材を発掘する基盤があったのだが、李林甫の独裁のせいもあって、才能よりも家柄が実権を握る世の中であった。
李林甫が起用した武将の中に、安禄山という者がいた。
雑胡(イラン系とトルコ系の混血)であった安禄山は、六種類もの言語を操り、国家間の交易で手腕を発揮した。そのうちに認められて平廬という地の節度使(辺境の守備隊司令官)となった。
李林甫の引き立てであったので、安禄山は玄宗と楊貴妃に謁見を許された。安禄山はもの凄い肥満体で、また話術に長けていたので、玄宗の目を引いた。
「お前のその腹には何が詰まっているのだ」
と玄宗が問うと、
「ただ陛下への忠誠のみでございます」
と答え、大いに玄宗を喜ばせた。
玄宗は楊貴妃の機嫌を取るために、彼女の親戚縁者を取り立てて貴族扱いした。その中でも、楊貴妃のいとこにあたる楊釗という者は出世頭となり、玄宗から「国忠」という栄誉ある名をもらった。
天宝十一載(七五二年)に李林甫が逝去すると、彼の後釜として楊国忠が宰相の座に就いた。楊国忠も李林甫と同じで、力のある者を蹴落として自分の保身に努める一方、多くの役職を兼任して権勢をほしいままにする。他の朝臣や国民の怨嗟は、日に日に募って行くばかりであった。しかし玄宗は、もう政治は面倒とばかりに、何事も要領よくこなす楊国忠にすべてを任せ、楊貴妃と共に遊ぶだけの毎日になっていた。
節度使となった安禄山は、その後も軍功を重ねた。唐の国境北側には強力な異民族がおり、たびたび侵入して攻め寄せるので、安禄山はそれを退けて唐を守り続けて来たのである。
玄宗と楊貴妃が彼を気に入ったことも幸いし、安禄山は范陽と河東の節度使も兼任することになった。結果、安禄山は河北から山西に渡る地域に十五万の兵力を抱え、なおかつその地での独裁権を許されるという、巨大な実力者となっていた。
人に取り入るのがうまい安禄山は、戦争には強いものの、玄宗にはひたすら諂い、さらに楊貴妃とは戯れに養子縁組をして彼女の息子と称し、機嫌を取った。実際には安禄山は、楊貴妃より十四歳も年上である。ここまで従順な安禄山に、玄宗はすっかり心を許し、彼の求めるままに恩賞を与えたのである。
一方で、宰相楊国忠は、そんな安禄山を危険視し、警戒を怠っていなかった。
楊国忠は、密かに哥舒翰という人物を訪れた。河西節度使の哥舒翰は、身体を壊して療養してはいるものの、まだ充分に軍を指揮できる、勇猛な将軍である。
「范陽はどうなっていますか」
哥舒翰は、楊国忠の来訪を受けて訊いた。范陽は現在の北京にあたり、安禄山の本拠地である。
「奴はすでに兵を揃え、蜂起の準備を進めている。だが、口実がないので困っているようだ」
楊国忠は、間諜を使って安禄山の身辺を調べていた。
哥舒翰は顔を曇らせる。
「口実ですか。……畏れながら、『君側の奸を除く』ということも言えますぞ」
あからさまに自分のことを蔑まれたのだが、楊国忠は怒りはせず、苦笑した。
「まぁ、李宰相と同じことをしてきた俺が、あちこちから憎まれているのは知っている」
「挙兵は時間の問題でしょう。奴は唐の国力を侮っています」
哥舒翰が更なる憂い顔になったが、楊国忠は嬉しそうにほほ笑んだ。
「そこだ将軍。挙兵をな、させてしまおう」
「何とおっしゃいました、宰相」
驚く哥舒翰を、楊国忠は手で制す。
「挙兵してしまえば、正面から奴を討てる。いくら陛下でも、奴をかばうことはできまい」
「しかし、奴の兵は強うございますぞ」
「だから貴殿に頼みに来たのだ。奴に勝ちたいだろう。積もる恨みもあることだしな」
楊国忠は、確信した笑顔を向けた。哥舒翰は、確かに安禄山を嫌っている。哥舒翰も異民族の軍人であり、安禄山に手柄を独り占めされ、鬱屈していた。哥舒翰は頷いて言う。
「挙兵の時期が読めれば、こちらが有利になれます」
「そうだな。安禄山は、陛下には好かれているが、皇太子には嫌われている。奴が挙兵するなら、陛下が亡くなった直後を狙うはずだ」
「なるほど。陛下ももう七十歳。いつまでも、とは言えますまい」
「そういうことだ。宮廷の群臣は、みな俺に追従している。陛下が亡くなった後、皇太子を即位させるのも俺だ。だから俺に恩を売っておけ、哥舒将軍」
楊国忠は、すでに勝利したような目で笑った。
「はい。それがしも宰相のお目にかない、光栄です」
哥舒翰も同じ目で笑った。
◇
宦官の高力士は、玄宗が若い頃から仕えていた腹心である。歳は玄宗の一つ上で、常に玄宗の傍らに侍って補佐をしている。玄宗も彼を頼りにし、何事も相談していた。
「いつも同じことを訊くが、安禄山の叛意のことじゃ。力士、そちはどう思う」
玄宗は寝所で楊貴妃を抱えながら、高力士に尋ねた。信頼の厚いこの宦官は、玄宗が寝静まるまで付いている。
玄宗の心配そうな顔を見て、高力士は優しく笑った。
「私は、安禄山には同情しております。辺境で野戦に明け暮れていた彼は、陛下の思し召しで都の暮らしを知りました。おそらく今は、殺伐な戦場にいるよりも、この長安でゆっくりと暮らしたい気持ちなのでしょう」
そう言われて玄宗は、
「そうか。あやつも、都の楽しさが恋しくなるのは当然か」
と納得した。高力士は続ける。
「戦ばかりの人生は虚しゅうございます。都に住みたい、という切望が人づてに伝わって、都を乗っ取るという叛意に誇張されたのではありますまいか。それに、」
と高力士は楊貴妃をちらりと見て、
「謀叛の話は、楊国忠様が流しておられるご様子。あの方と安禄山は、仲が良いとは言えないようですので」
と言って礼をし、一歩下がった。
「貴妃はどう思う。忌憚なく言うがよい」
玄宗がうながすと、楊貴妃は憂い顔でほほえんだ。
「確かに、兄(楊国忠)も心配が過ぎるようです。私としても、あの愉快な禄山に、謀叛なんて大それたことができるとは思いませんもの」
玄宗はため息をついて、
「朕もそう思う。しかし、禄山をずっと都に置くこともできぬ。契丹(北方の異民族)から唐を守れる者は、奴しかおらぬし……」
とすっかり塞ぎ込んでしまった。
楊貴妃はそんな玄宗を優しく抱きしめ、寝所の灯りを消した。
高力士はいつの間にか退室している。
それから数日後。
楊貴妃は、安禄山と共にいた。
場所は長安、安禄山専用の邸。
安禄山ほどの実力者になると、任地は遠くとも、都に邸宅が与えられる。
二人は今、玄宗の目を盗んで密会していた。
楊貴妃は、好物の茘枝を口に含み、口移しで安禄山に食べさせる。安禄山も、満悦の表情でそれを噛んだ。楊貴妃は妖艶に笑い、彼の首筋に幾度も口づけする。
「高力士が、あなたを弁護していたわ。叛意など無いでしょうって」
安禄山は、おかしそうに笑う。
「おめでたい奴らだな。高力士も、その主も」
二人は普通の男女のように話していた。安禄山は、玄宗の御前のように恐縮することもない、大胆な物言いだった。
「しかし貴妃、本当にいいのか。俺が唐を滅ぼしても」
楊貴妃は艶然と微笑む。
「私は運命に翻弄されるだけの人生だった。でもようやく、自分の手でできることを見つけたの。この上なく、やりがいのあることを」
「ほう?」
「……盛栄を極めた王朝を、毒に浸して枯れさせる。国の規模から言えば、呉の西施を凌ぐわね」
「ぞっとすることを言うな」
安禄山は苦笑する。西施は春秋時代の呉王夫差に愛された美女で、夫差は彼女の美貌に溺れて政務を疎かにし、国ごと攻め殺された。
「ねえ禄山、范陽に帰りなさい。今すぐ」
口ではそう言いながら、楊貴妃は手を拱く。安禄山は抱きつこうと突進したが、楊貴妃は両手をつっかい棒にして、彼の肩をがしりと止めた。
「どうしてだ、貴妃。今日に限って、なぜ焦らす?」
楊貴妃は、止めた手を緩めずに言った。
「一度帰って、また来なさい。私が欲しいなら。十五万の兵を連れて、堂々といらっしゃい」
安禄山は、大きく頷く。
「そうか。では、望み通りにしてやる。俺が長安を落とした暁には、皇后に迎えてやる。そして俺の子を産むが良い。初めて母になれるぞ」
玄宗の妃になって久しい彼女だが、まだ子は産んでいない。安禄山はそれを指して言ったのである。
しかし楊貴妃は、急に表情を制止させて答えた。
「いえ。一度、娘を産んだわ。もういなくなってしまったけど」