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第十二回 王朝の斜陽




 とうげんそうこうてい


 中国の歴代皇帝の中でも、特に有名な皇帝である。


 政務とは別に、歌舞などの芸術、そしてどうきょうに関心のある人物だった。玄宗の「玄」は、道教との関わりが深い文字である。玄宗はこうえんという仙人の道術に興味を持ち、頼み込んでかくの術を習ったが、何度やってもうまく姿を消せず、身体のどこか一部が見えていた、といういつが伝わっている。


 彼の治世の前半は、善政を布いて国を大いに発展させ、元号の名を取って「かいげん」と呼ばれた絶頂期となった。人々は平穏で豊かに暮らし、芸術・文化も円熟を見せ、唐は周辺のアジア諸国にも影響を与える大帝国となった。


 しかし、玄宗は名君としてより、後半のらくぶりの方が有名である。




 開元二十五年(七三七)、あいけいに死なれた玄宗は、かんがん(去勢されている宮廷の召使い)のこうりきという者に命じて、新しい女性を探させた。


 玄宗の好みをよく知る高力士は、ようぎょくかんという二十五歳の、豊満な佳人かじんを連れてきた。玄宗の喜びは、天にも昇らん勢いだった。


「素晴らしい。美しさはもとより、賢く、さらに歌舞かぶにも詩文にも秀でた女だ。よくぞ見つけた、力士」


 高力士はきょうしゅして答えた。


「いささか強引な手法を用いました。お許し下さい」


「構わん。それほどの価値がある女だ、許す。ちんばんじょうの皇帝ぞ」


 ひと目で気に入った玄宗は、さっそく彼女を宮中に入れた。そしてという位を与え、以降ようと呼ぶようになる。


 玄宗は、霓裳羽衣げいしょうういの曲という自慢の曲を、楽団に奏でさせた。楊貴妃もこれを気に入り、持ち前の才能を活かし、華麗な舞踊を披露したので、玄宗はさらに彼女に惚れ込んだ。


 玄宗はこのとき五十五歳。美女に夢中になっためいくんは、この日以来、毎日のようにうたげを繰り広げ、まったく政務をらなくなってしまった。




 玄宗に代わって朝廷を動かしていたのは、宰相の李林甫りりんぽであった。


 李林甫は有能な政治家であると同時に、かんしんの手本のような男である。自分よりも有能な者に宰相の地位をおびやかされぬよう追放したり、あらぬ罪を着せて処刑したりした。また、武将が手柄を上げてもちょうようされにくいように、かんぞくではない異民族の軍人を採用するなど、細かいところまで抜け目がなかった。


 このころの唐にはきょ官僚登用試験かんりょうとうようしけん)の制度もできており、優秀な人材を発掘する基盤があったのだが、李林甫の独裁のせいもあって、才能よりも家柄が実権を握る世の中であった。


 李林甫が起用した武将の中に、あんろくざんという者がいた。


 雑胡ざっこ(イラン系とトルコ系の混血)であった安禄山は、六種類もの言語を操り、国家間のこうえきしゅわんを発揮した。そのうちに認められてへいという地のせつ使(辺境の守備隊司令官)となった。


 李林甫の引き立てであったので、安禄山は玄宗と楊貴妃にえっけんを許された。安禄山はもの凄い肥満体で、また話術にけていたので、玄宗の目を引いた。


「お前のその腹には何が詰まっているのだ」


 と玄宗が問うと、


「ただ陛下への忠誠のみでございます」


 と答え、大いに玄宗を喜ばせた。


 玄宗は楊貴妃の機嫌を取るために、彼女のしんせきえんじゃを取り立てて貴族扱いした。その中でも、楊貴妃のいとこにあたるようしょうという者は出世頭しゅっせがしらとなり、玄宗から「こくちゅう」という栄誉ある名をもらった。


 天宝てんぽう十一さい(七五二年)に李林甫がせいきょすると、彼のあとがまとして楊国忠ようこくちゅうが宰相の座に就いた。楊国忠も李林甫と同じで、力のある者をとして自分の保身に努める一方、多くの役職を兼任して権勢をほしいままにする。他の朝臣や国民のえんは、日に日に募って行くばかりであった。しかし玄宗は、もう政治は面倒とばかりに、何事も要領よくこなす楊国忠にすべてを任せ、楊貴妃と共に遊ぶだけの毎日になっていた。




 節度使となった安禄山は、その後も軍功を重ねた。唐の国境北側には強力な異民族がおり、たびたび侵入して攻め寄せるので、安禄山はそれを退けて唐を守り続けて来たのである。


 玄宗と楊貴妃が彼を気に入ったことも幸いし、安禄山ははんようとうの節度使も兼任することになった。結果、安禄山はほくからさん西せいに渡る地域に十五万の兵力を抱え、なおかつその地での独裁権を許されるという、巨大な実力者となっていた。


 人に取り入るのがうまい安禄山は、戦争には強いものの、玄宗にはひたすらへつらい、さらに楊貴妃とはたわむれに養子縁組をして彼女の息子と称し、機嫌を取った。実際には安禄山は、楊貴妃より十四歳も年上である。ここまで従順な安禄山に、玄宗はすっかり心を許し、彼の求めるままに恩賞を与えたのである。




 一方で、宰相楊国忠は、そんな安禄山を危険視し、警戒を怠っていなかった。


 楊国忠は、密かにじょかんという人物を訪れた。西せいせつ使の哥舒翰は、身体を壊して療養してはいるものの、まだ充分に軍を指揮できる、勇猛な将軍である。


「范陽はどうなっていますか」


 哥舒翰は、楊国忠の来訪を受けて訊いた。范陽は現在の北京ペキンにあたり、安禄山の本拠地である。


「奴はすでに兵を揃え、ほうの準備を進めている。だが、口実がないので困っているようだ」


 楊国忠は、かんちょうを使って安禄山の身辺を調べていた。


 哥舒翰は顔を曇らせる。


「口実ですか。……おそれながら、『くんそくかんのぞく』ということも言えますぞ」


 あからさまに自分のことをさげすまれたのだが、楊国忠は怒りはせず、苦笑した。


「まぁ、李宰相りさいしょうと同じことをしてきた俺が、あちこちから憎まれているのは知っている」


「挙兵は時間の問題でしょう。奴はとうの国力をあなどっています」


 哥舒翰が更なるうれい顔になったが、楊国忠は嬉しそうにほほ笑んだ。


「そこだ将軍。挙兵をな、させてしまおう」


「何とおっしゃいました、宰相」


 驚く哥舒翰を、楊国忠は手で制す。


「挙兵してしまえば、正面から奴を討てる。いくら陛下でも、奴をかばうことはできまい」


「しかし、奴の兵は強うございますぞ」


「だから貴殿に頼みに来たのだ。奴に勝ちたいだろう。積もる恨みもあることだしな」


 楊国忠は、確信した笑顔を向けた。哥舒翰は、確かに安禄山を嫌っている。哥舒翰も異民族の軍人であり、安禄山に手柄を独り占めされ、うっくつしていた。哥舒翰はうなずいて言う。


「挙兵の時期が読めれば、こちらが有利になれます」


「そうだな。安禄山は、陛下には好かれているが、皇太子には嫌われている。奴が挙兵するなら、陛下が亡くなった直後を狙うはずだ」


「なるほど。陛下ももう七十歳。いつまでも、とは言えますまい」


「そういうことだ。宮廷の群臣は、みな俺についじゅうしている。陛下が亡くなった後、皇太子を即位させるのも俺だ。だから俺に恩を売っておけ、哥舒将軍かじょしょうぐん


 楊国忠は、すでに勝利したような目で笑った。


「はい。それがしも宰相のお目にかない、光栄です」


 哥舒翰も同じ目で笑った。




 ◇




 宦官の高力士は、玄宗が若い頃から仕えていた腹心である。歳は玄宗の一つ上で、常に玄宗のかたわらにはべって補佐をしている。玄宗も彼を頼りにし、何事も相談していた。


「いつも同じことを訊くが、安禄山のはんのことじゃ。力士、そちはどう思う」


 玄宗は寝所で楊貴妃を抱えながら、高力士に尋ねた。信頼の厚いこの宦官は、玄宗が寝静まるまで付いている。


 玄宗の心配そうな顔を見て、高力士は優しく笑った。


「私は、安禄山には同情しております。辺境でせんに明け暮れていた彼は、陛下のおぼしで都の暮らしを知りました。おそらく今は、さつばつな戦場にいるよりも、この長安でゆっくりと暮らしたい気持ちなのでしょう」


 そう言われて玄宗は、


「そうか。あやつも、都の楽しさが恋しくなるのは当然か」


 と納得した。高力士は続ける。


いくさばかりの人生は虚しゅうございます。都に住みたい、という切望が人づてに伝わって、都を乗っ取るという叛意に誇張されたのではありますまいか。それに、」


 と高力士は楊貴妃をちらりと見て、


ほんの話は、楊国忠様が流しておられるご様子。あの方と安禄山は、仲が良いとは言えないようですので」


 と言って礼をし、一歩下がった。


「貴妃はどう思う。たんなく言うがよい」


 玄宗がうながすと、楊貴妃は憂い顔でほほえんだ。


「確かに、兄(楊国忠)も心配が過ぎるようです。私としても、あの愉快な禄山に、謀叛なんて大それたことができるとは思いませんもの」


 玄宗はため息をついて、


「朕もそう思う。しかし、禄山をずっと都に置くこともできぬ。きったん(北方の異民族)から唐を守れる者は、奴しかおらぬし……」


 とすっかりふさぎ込んでしまった。


 楊貴妃はそんな玄宗を優しく抱きしめ、寝所の灯りを消した。


 高力士はいつの間にか退室している。




 それから数日後。


 楊貴妃は、安禄山と共にいた。


 場所は長安、安禄山専用のやしき


 安禄山ほどの実力者になると、任地は遠くとも、都にていたくが与えられる。


 二人は今、玄宗の目を盗んで密会していた。


 楊貴妃は、好物のれいを口に含み、口移しで安禄山に食べさせる。安禄山も、満悦の表情でそれを噛んだ。楊貴妃は妖艶に笑い、彼の首筋に幾度も口づけする。


「高力士が、あなたを弁護していたわ。叛意など無いでしょうって」


 安禄山は、おかしそうに笑う。


「おめでたい奴らだな。高力士も、そのあるじも」


 二人は普通の男女のように話していた。安禄山は、玄宗の御前のように恐縮することもない、大胆な物言いだった。


「しかし貴妃、本当にいいのか。俺が唐を滅ぼしても」


 楊貴妃はえんぜんと微笑む。


「私は運命にほんろうされるだけの人生だった。でもようやく、自分の手でできることを見つけたの。この上なく、やりがいのあることを」


「ほう?」


「……盛栄を極めた王朝を、毒にひたして枯れさせる。国の規模から言えば、西せいしのぐわね」


「ぞっとすることを言うな」


 安禄山は苦笑する。西施は春秋時代しゅんじゅうじだいおうに愛された美女で、は彼女の美貌に溺れて政務をおろそかにし、国ごと攻め殺された。


「ねえ禄山、范陽に帰りなさい。今すぐ」


 口ではそう言いながら、楊貴妃は手をこまねく。安禄山は抱きつこうと突進したが、楊貴妃は両手をつっかい棒にして、彼の肩をがしりと止めた。


「どうしてだ、貴妃。今日に限って、なぜらす?」


 楊貴妃は、止めた手をゆるめずに言った。


「一度帰って、また来なさい。私が欲しいなら。十五万の兵を連れて、堂々といらっしゃい」


 安禄山は、大きく頷く。


「そうか。では、望み通りにしてやる。俺が長安を落としたあかつきには、こうごうに迎えてやる。そして俺の子を産むが良い。初めて母になれるぞ」


 玄宗の妃になって久しい彼女だが、まだ子は産んでいない。安禄山はそれを指して言ったのである。


 しかし楊貴妃は、急に表情を制止させて答えた。


「いえ。一度、娘を産んだわ。もういなくなってしまったけど」

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