四月の上旬のある日、
帰りがけ、ちょっとした広場を見つけ、棒術の練習を始めた。
夢中になって棒を振っていたが、ふと、誰かの気配を感じ、動きを止めた。
「何か用か?」
雷先の後方に、二人の女性が立っている。
「あ、確か、
雷先が思い出して言うと、一人が答えた。
「
そして軽く礼をした。雷先も慌てて返す。
「あなた方が旅に出て、二月ほど経ちましたね。何かあれば、お聞きしようと思いまして」
「はい。私たちに、仲間が増えました。今は五人と一羽です」
姉妹が
「是非、会って行ってください」
雷先がそう言うと、九天玄女が言った。
「その前に、あなたにだけ、話しておかなければならないことがあります」
「姉さん、あたしから言うわ」
六合慧女が、
雷先は急な事になって戸惑う。
「俺に、何かあるのですか?」
六合慧女は、きれいな睫毛の目を伏せて告げた。
「あなたのことを、
「えっ……?」
唐突なことを言われ、雷先は耳を疑う。
六合慧女が続けた。
「遇わなければ、助かるかもしれません。怖がらせるだけでごめんなさい、あとはあなたがご判断を」
「西王母娘々も、そこまでしか判らないそうです」
九天玄女が気の毒そうに雷先を見る。
雷先は、目の前が真っ暗になった感じがした。しばらく間を置いてなんとか気を取り戻すと、
「助かるね。ふところが
姉妹から
九天玄女が言う。
「道程は、西王母娘々の占いによるものです。ただ、魔星に出くわしやすい道ということですから、つらい報せなのですけど」
「いえ、旅慣れない身でしたから、
と鋼先はちらりと横目をする。
「うちの兄がかなり落ち込んでいるようですが、何かありましたか」
「ええ……」
帰ってきてから雷先は、姉妹をちらちらと見ながら、ため息ばかりついている。
姉妹は言いにくそうに口ごもった。鋼先は
鋼先たちは雷先に話を聞きたかったが、何も話したくないというので、深くは聞かず、宿を
荷をまとめている途中で、
「困ったね、雷先。どうしたのかな」
しかし鋼先は、苦笑して答える。
「何か大事なことを言われたのは違いないが、それは問題じゃない」
「そうなの?」
「ああ。兄貴は、自分に忠告をしてくれる女に
夕方になり、一行は
長江。
この国でもっとも大きく長い川で、国土を南北に分けている。川幅は広く、向こう岸は水平線の彼方にある。
この川を渡り、北を目指して進む。
暗くなってきたが、大きな渡し船がちょうど出るというので、乗せてもらうことにした。
渡っているうちに夜になった。岸に着くのは翌日になるので、鋼先たちは船中で眠りに就いた。
突然、船が何かにぶつかり、大きく揺れる。
かなりの衝撃だったので全員が起き出し、月明かりで照らされた周囲を見回した。
「どうした」
鋼先が尋ねると、船頭たちの頭格の二人が、震えた声で言う。
「だ、誰かの船にぶつかりました。灯りも点けてないんで、直前まで見えなかったんです」
「何をそんなに怖がってるんだ」
「深夜に無灯で出ている船は、ほとんどが
「
「はい。たぶん、密輸の品を運んでいるんでしょう。灯りを点けると人目に付きますから」
そのとき、向こうの船からがやがやと声がして、大勢がこちらの船に乗り込んでくる気配がする。やがて
「やっぱり!
二人の船頭は、泣き出しそうな声を上げる。
やって来る連中は、抜き身の刀を手にしていた。その刃渡りに映る松明の光が、鋼先の目をまぶしくする。
「大勢だな……また水中戦になるのは勘弁してくれよ。ここは深そうだ」
その時、雷先たちと、他の乗客らも集まってきた。鋼先は、黙っているように、と手で合図する。
二人の船頭が震えながら、賊の頭領に
「
だが、荀洋雲は答えもせずに、刀を抜いて二人を斬り伏せた。部下が手際よく、
「ひ、ひええっ! 助けてくれ!」
他の乗客たちが、目の前の凶行に恐れおののき、次々と水へ飛び込んで逃げ出した。
荀洋雲が、
「積み荷が一部、水に落ちた。これから取引だってのによ」
「どうせまともな取引じゃないんだろ」
鋼先が苦笑すると、荀洋雲がにらみつけた。
「悪いが、見られたからには死んでもらう」
「ふん。人間に取り憑いて悪さをするな、魔星ども」
鋼先がびしりと言うと、荀洋雲は急に後ずさった。
「なぜ知っている、そんなこと」
「お、当たったか。カマをかけただけなんだが」
「くっ」
荀洋雲が、手下に手で合図した。十人近くがばらばらと散らばり、鋼先たちを包囲し始める。
「兄貴と李秀は
鋼先が短く指示を出した。
手下たちは一斉に斬りかかってきた。荀洋雲は船縁に下がり、様子を見ている。
足場の悪い船上では、江賊たちの方が有利だった。大きな船ではあるが、さすがにこの総勢では狭い。
雷先と李秀は、無理に攻めず、相手の刀を受け流し続けた。敵が勢いづいてきた頃、魯乗が
「
萍鶴は頷いて受け取り、素早く
百威は、手下の
「させるかっ」
しかし、あとわずかの間合いで荀洋雲が割り込み、追魔剣を跳ねのける。
「なるほど、その二人にも魔星がいるんだな」
鋼先がにやりと笑うと、荀洋雲は満面に怒りを表した。
「また探りか、
と、鋭く刀を振る。
鋼先は危うく胸元を切られそうになったが、李秀が横から刀を受け止めた。
「鋼先、ここはあたしたちに任せて」
「わかった。頼むぜ」
鋼先は素早く水に入り、
「ほらほら、こっちこっち!」
李秀は船上を跳ねるように走り、手下を自分に引きつけた。
雷先は、その手下を追うように打ちかかり、次々に川へ叩き落としていく。
「この小娘!」
しかし、手下の一人が李秀に追いついて、手首をねじ上げた。
「痛っ! 離してよ!」
「李秀、危ない!」
萍鶴が素早く飛墨を打つと、手下は気を失って倒れた。李秀は萍鶴にほほ笑みながら、また違う手下をいなして、川に落とす。
そしてついに、荀洋雲と二人の
雷先が、船縁に集まった三人を、棒で狙う。
「川に飛び込め、早く!」
荀洋雲は指示を出したが、雷先の棒先と、萍鶴の飛墨、そして百威のクチバシがそれぞれに当たり、船底に倒れた。
「よし、今だ」
鋼先は船に上がると追魔剣を抜き、三人を突く。すると、荀洋雲からは
李秀が
鋼先たちは全員、疲れて船の中にへたり込む。
「あの人数相手に勝てたな。みんな無事でよかった」
鋼先が笑うと、皆も笑顔になった。
「すみません、ちょっといいですか」
急に、聞き慣れない声が聞こえた。船の下、水面の方からである。
一同が見ると、大きな亀が一匹、水面に顔を出している。
その亀が口をきいた。
「私も魔星です。
鋼先が、船から身を乗り出して訊く。
「自分から名乗るとは珍しいな。天寿星たちの
しかし亀は、首を伸ばしてゆっくりと左右に振る。
「彼らは自業自得です。私はただの亀、戦う力もありません。呼び止めたのは、お願いしたいことがあるからです」
「聞こう」
鋼先が
「私はこの亀に憑いて何十年とのんびり暮らしていたのですが、いつの間にか親和が強くなりすぎてしまったのです。どうか私を、亀から出していただけませんか」
「出すことはできるが、自由にはしてやれないぜ」
「察しはついていますよ。私たちを封印なさっているんでしょう。いいんです、私もそろそろ、兄弟たちに会いたくなってきたところです」
鋼先たちは、驚きながら顔を見合わせて頷いた。
「そういうことなら、引き受けるぜ」
鋼先が追魔剣を刺そうとすると、亀が言った。
「よろしければ、
李秀が艫綱を亀の方へ投げると、亀はそれをしっかりくわえ、船を引っ張り始めた。
「泳ぐ力だけはあります。速度を上げますよ」
船はたちまち速くなり、鋼先たちは
ちょうど夜が明けた頃、岸にたどり着いた。
一同が船を下りると、
「ありがとうよ。なぁ、魔星に憑かれた奴は、みんなお前みたいに
鋼先が、礼と共に疑問を口にした。
亀は少し首を捻って、
「宿主との相性なのでしょう。影響も個々に違うはずです」
と答え、目を閉じた。
鋼先は頷き、その美しい甲羅に追魔剣を突き立てる。出てきた神将は、にこりと笑って
魔星の抜けた亀は、人間の姿を見て驚き、さっさと川に戻った。
「忙しい一日だったな。鋼先、これからどうする?」
雷先が聞いた。
「ほとんど寝てないからな、宿を探して休みたいね」
鋼先がそう言ってあくびをしたとき、岸辺の
鋼先が手で合図をすると、雷先たちは円陣を組んで身構える。百威は空へ飛んだ。
茂みを割り、一人の男がぬっと現れる。
頭を丸坊主に剃り、
鋼先たちが様子を見ていると、男の方から口を開いた。
「見ていたぞ。魔星だな、今のは」
鋼先は、男の口調から、はっきりとした
「見てたのかい。お騒がせしてすまないね」
しかし男は動じずに手を伸ばした。
「そこの
「俺は賀鋼先という道士だ。あんた、何者だよ」
「
「なんだって。どういうことだ?」
鋼先が聞き返す。李秀が
「鋼先、こいつ、魔星が三人も憑いてる!」
だが呉文榮は、にやりと笑って訂正した。
「憑いているのではない。拙者が魔星を取り込んでいるのだ。よこさぬなら、腕ずくでいただくぞ!」
呉文榮は、突然駆けだして突っ込んできた。鋼先に体当たりする動きである。しかし、鋼先はかわそうとしなかった。
上空から狙っていた百威が、急降下して呉文榮の頭をしたたかに蹴ったのである。呉文榮は体勢を崩し、顔面から地面に激突した。それでも勢いが死なず、呉文榮は岸辺の
百威は魯乗の腕に乗り、誇らしそうに鳴く。
「どうじゃ、百威は強かろう」
「ぬうう……
呉文榮が、顔面を血まみれにしながら起き上がった。
「ほれ、剣だぜ」
鋼先が、呉文榮の真正面に回って、追魔剣をその腹に刺した。
とたんに、呉文榮の身体から電光のような強い光が
「ぬああっ! しまった、魔星が!」
鋼先は追魔剣を抜き、後ずさる。
大きく息をつきながら、鋼先が失神している呉文榮を見る。
「一人の人間に、複数の魔星が入るとはな。しかも、こいつは自ら取り込んでいると言ってたが」
李秀が頷く。
「これまでとは違う相手ね。不気味だわ」
その言葉の終わらないうちに、呉文榮はいきなり跳ね起きた。
顔の血を
「……賀鋼先といったか。憶えておくぞ。また会おう」
そう言うと、呉文榮は岸を駆けだして長江に飛び込む。そのまま下流へ泳ぎ去り、見えなくなってしまった。
雷先が悔しそうに言う。
「厄介な感じだな。逃がしたのはまずかった」
「まあいいよ。それより、今夜は忙しすぎた。早く休みたいぜ」
と、鋼先は大きなあくびをした。
やがて一行は小さな宿屋を見つけ、腹いっぱいに食事を済ませると、そのまま眠りに就いた。
(第一部 完)