皆で歩きながら、
(右足を少しかばっている。やはり間違いない、あのときの
鋼先は、彼女と逢ったことがある。
彼女に記憶が無いのなら、語っても仕方のないことだが、二年前のその出来事が、鋼先の脳裏にはっきりと再現された。
――夏のことだった。鋼先はその日、上清宮で倉庫を片付ける仕事をしていた。
不要になった書類などを大量にまとめ、小船に乗せて輸送しているとき、彼女を見かけた。
たった一人、あたりを見回しながら、おぼつかない足取り。
「……また、道に迷った観光客だ。この時間は、もうまずいぞ」
鋼先は小舟を漕ぎ寄せて、彼女が歩いている岸へ降りた。
「
軽く声をかけると、彼女はいちど驚いてから、ぱっと笑顔を見せた。
「はい、家族で来たのですけど、見失ってしまって。あの、このあたりの方ですか?」
鋼先は、一瞬止まってしまった。
彼女の姿が、表情に幼さはあるが、すらりとした色白の
「違いましたか? すみません」
残念そうな顔になった彼女に、鋼先は手を振って笑う。
「いや、俺は竜虎山に暮らしてる者だ。道案内は任せてくれ」
とりあえず小舟を岸に繋ぎ、鋼先は彼女を伴って、南側の岩山を目指した。
「あんたの来た道は、観光の最終日に行く人が多いんだ。そのまま、帰るための船着き場に繋がってるからな。でもちょっと入り組んでいて、ときどき迷う人がいる」
彼女は、何度も強く
「は、はい。私も、早く戻らないといけないんです。帰りの船の時間が……!」
鋼先も、充分わかって頷いた。
「時間は知ってる。今からじゃ絶対に間に合わないぜ。だから、ちょっと険しいが、あの岩山を越えるぞ。がんばれ」
本当に時間がないので、互いに自己紹介もなく、ずんずんと走った。
岩山は人の背丈の三倍ほどの高さがあり、壁のように道を塞いでいるが、これを越えれば船着き場は近い。
「俺が先に上って、縄を貸す。待ってろ」
鋼先は岩山を上った。何度もやっていることなので、他人のために縄を置いてある。それを彼女に投げ、身体に巻き付けさせ、手繰り寄せた。
「よし。軽い人で良かったぜ。もう少しだ」
しかし、そのとき突風が吹いたかと思うと、急に大粒の雨が降り出して来た。洗い流されるような豪雨に、二人はずぶ濡れになる。鋼先は、足を踏ん張り、縄をつかみ直した。
「こんなときに、ひどい雨だ。おい、落ちるなよ」
彼女も必死に上ろうとするが、岩肌が滑って足が乗らない。そのたびに鋼先にも衝撃がかかり、何度も縄を放しそうになった。
彼女はようやく上りきり、雨の中、今度は二人で斜面を下る。しかし、
「あっ!」
滑る岩肌に足を取られ、彼女が右足を
激痛に動けなくなり、鋼先も困ってしまう。
「もう船が出るぞ。ちょっとがまんしな!」
鋼先は、彼女を背中に背負った。
夏の薄い着物が雨で張り付き、彼女の胸と脚が、直接触れているかのように密着する。
「やだっ」
恥ずかしがる声を、聞こえない振りして、鋼先は一直線に走り出した。
息も切れてきた頃、船着き場にたどり着いた。彼女を見つけた家族が、急いで船に乗せる。船はすぐに出た。鋼先は、息ができなくなっていて、結局何も話すことができなかったのを悔いた。
鋼先は、その時のことを話そうと思ったが、ふと考え直す。
(記憶を失うなんて、相当なことがあったんだろう。あの時とは、だいぶ雰囲気が違うな)
鋼先は、幼さも消え、物事に動じなくなっている彼女に、初対面として接することに決めた。
◇
鋼先が、
「俺は竜虎山から来た
彼女は、ただ首を振る。
「本当に記憶が無いみたいだな。その筆の、魔星のせいか?」
今度は、黙って
「なら、あなたの術で、記憶を戻せないの?」
「それはできないわ」
急に強い声で、彼女は否定した。
李秀は驚いて鋼先を見る。鋼先は、
「魯乗はどう思う?」
「思い出したくないことがあるんじゃろうな。無理強いはできん」
「なぁ鋼先」
「彼女にも、
鋼先は、ため息をついて兄を制した。
「簡単に言うなよ。危険な旅なんだぜ」
一同は、彼女を見る。
「私は、嫌よ」
鋼先は頷いた。
「そうだろうな。すまない、無理を言って」
しかし、彼女は首を振る。
「嫌だと言ったのは、あの術のこと。あんなもの、私は捨ててしまいたいの」
だが鋼先は頷いた。
「それも気が付いていたさ」
彼女が、驚いたように目を上げる。
「俺が言うまで、術を使わなかったからな。世話になった店が焼かれたのに」
彼女が目を伏せた。鋼先は続ける。
「だが、あんたを連れて行けば、術を使わせざるを得ない。それでは気の毒だ」
李秀も魯乗も、頷いていた。
「きっと、災いのもとになるわ。もう放っておいて」
彼女が、
すると雷先が、身を乗り出した。
「無理を言ってすまなかった。筆の魔星は、俺たちが収星する。で、君の記憶が戻るまで、竜虎山で静養すればいい。それならどうだ」
鋼先が、兄の肩を叩いた。
「それが最善だな。最初にそう言ってほしかったなぁ、兄貴」
「でも、」李秀がいぶかしげに言う。
「そんなに嫌なら、その筆、捨てればよかったじゃない。どうして持ち続けてるの?」
彼女は答えず、しばし沈黙が流れた。そして突然、
「
「魔星が、あんたを選んだ?」
鋼先の問いに、彼女は力無く頷く。
何を言おうかと鋼先は迷っていたが、彼女が、不意に言った。
「あなたたちも、何かを抱えているのね」
一同は驚いた。そして顔を見合わせ、ただ頷く。
彼女が続けた。
「それなのに、すごく楽しそうに見える。どうして?」
それを聞いた鋼先は、
「俺たちは別々に、難題を抱えてる。だから協力することにしたら、何だか心強くなってきたのさ」
と笑った。雷先たちも照れたように笑い、
少し間を置いて、彼女は言った。
「私も、連れていって。記憶が戻らなくても、このまま一人でいるのはいけない気がする。あなたたちと一緒に、いさせて欲しい」
その言葉の力強さに、鋼先は少し驚いて周囲を見る。そして、ほほ笑みと共に、全員で頷いた。
◇
仲間には加わったが、彼女のことはほとんどわからない。そこで、手荷物を調べてみることにした。
「いい服持ってるね。ちょっとした
李秀が服を見ていると、魯乗が得意そうに声を上げた。
「この
「となると今年で十八歳か。出身は会稽、姓は王だな」
鋼先が頷いて言った。
「ふーん。あたしは開元二十六年だから、あたしの一個上だ。よろしくね」
李秀がにこやかに
「……よろしく」
ほほ笑みにはずいぶん足りない表情で、彼女が挨拶を返す。
雷先が、ふと思い出して言った。
「会稽の王家と言えば、
しかし当人の王は、何の反応もしていない。
「筆を見れば、はっきりするかも知れんの」
魯乗が手を伸ばしたが、王はそれを制して言った。
「この筆の名は『
「なんと。それでは意味がないわい」
魯乗が残念そうに手を引っ込めると、鋼先が立ち上がって言った。
「会稽の王羲之は、竜虎山と交流があったらしいから、やっぱり何かの縁かも知れないな。今日はいろいろあったし、休むとしよう」
翌朝、朝食が済むと、雷先と魯乗が王を裏庭に連れ出した。例の術を詳しく見たいのだと言う。
鋼先と李秀と百威は、かたわらで見ていることにした。
「手品を見せてもらう子供みたいよね」
李秀が半ば呆れていうと、鋼先も苦笑した。
「面白い術だからな、気持ちは分かる。それに、一見万能そうに思えるが、弱点や限界が無いとも限らない。実験する必要性はあるだろう」
「そうか。そうだね」
魯乗と雷先は、張り切って裏庭を片付け、広い場所を作っている。
王は墨を満たした壺と筆を持ち、無表情に言った。
「いつでもいいわ」
魯乗が、切り株の上に袋を乗せる。中から一羽の鶏が出てきた。
「こいつは食用に買ってきた。遠慮はいらん」
「何をすればいいの」
「うむ、では『
雷先が口を挟んだ。
「水も無いのに溺死?」
「無理そうなところから試していく。王君、頼む」
王が墨を付けて筆を振る。鶏に「溺死」と文字が現れたが、何も起こらず、切り株から
「やはり無理か。では、次は『飛翔』と」
王が再び筆を振ると、鶏の翼に「飛翔」の文字が現れた。鶏は激しく羽ばたくと、真っ直ぐ上昇していく。
雷先が驚いて言った。
「すごい、飛べるようになった」
「百威、連れ戻せ」
「最後に王君、この鶏を術で
王は、やや
「どうしてだ?」
雷先が首を
「私が望まないことは、実現しない。……逆に言えば、使う者の意志によってはどんな恐ろしいこともできてしまう。解るでしょう、私が嫌がる理由が」
魯乗が歩み寄って彼女の背を叩いた。
「すまんな、
「魯乗、俺だけのせいにするな。ずるいぞ」
雷先が魯乗を小突こうとしたが、魯乗がひらひらとかわすので、そのまま追いかけっこになった。
鋼先と李秀がそれを見て笑う。
王も、少しだけほほ笑んだ。
宿の使用人が茶を持ってきてくれたので、それを飲みながら一休みしていると、魯乗がいきなり言った。
「
「彼女の呼び名か」
鋼先が短く頷いて、当人を見た。
「萍鶴……」
彼女は唇で音を形作っている。
「理由は?」
李秀が聞く。
「
皆が彼女を見た。
「……王萍鶴、何だか自然な感じがする。ありがとう、魯乗」
そう言って、萍鶴は笑った。
百威が歓迎するように、彼女の頭上を一回りして鳴く。
「そしてもう一つ」
魯乗が、勢いをつけて言う。
「『
「あの術の名前か」
雷先が感心した。
「ふうん、なかなか渋いじゃない」
李秀が片目をつむって言う。鋼先も頷いた。
「……何だか照れるわ。もったいないくらいよ」
はにかみながら、萍鶴は輝影の筆を振った。
すると、近くにあった枯木の
とたんに、満開の花が咲いた。
「わあ、きれい」
「
李秀と魯乗が喜ぶ。鋼先も、突然のことに驚いてほほ笑んだ。
雷先が、用意していた酒瓶を開け、皆に杯を持たせて注ぐ。数種類の果汁を混ぜた酒で、甘い香りが辺りに立ちこめた。
鋼先が乾杯を唱え、
こうして、新たな仲間が加わったことを、皆で改めて祝った。