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第六回 その名は王萍鶴




 皆で歩きながら、こうせんは彼女をじっと見ていた。特に足を見ている。


(右足を少しかばっている。やはり間違いない、あのときのむすめだ)


 鋼先は、彼女と逢ったことがある。


 彼女に記憶が無いのなら、語っても仕方のないことだが、二年前のその出来事が、鋼先の脳裏にはっきりと再現された。




――夏のことだった。鋼先はその日、上清宮で倉庫を片付ける仕事をしていた。


 不要になった書類などを大量にまとめ、小船に乗せて輸送しているとき、彼女を見かけた。


 たった一人、あたりを見回しながら、おぼつかない足取り。


「……また、道に迷った観光客だ。この時間は、もうまずいぞ」


 鋼先は小舟を漕ぎ寄せて、彼女が歩いている岸へ降りた。


竜虎山りゆうこざんを観に来たお客さんかい? お連れさんとはぐれたのかな?」


 軽く声をかけると、彼女はいちど驚いてから、ぱっと笑顔を見せた。


「はい、家族で来たのですけど、見失ってしまって。あの、このあたりの方ですか?」


 鋼先は、一瞬止まってしまった。


 彼女の姿が、表情に幼さはあるが、すらりとした色白の佳人かじんだったので、思わず見とれてしまったのだ。


「違いましたか? すみません」


 残念そうな顔になった彼女に、鋼先は手を振って笑う。


「いや、俺は竜虎山に暮らしてる者だ。道案内は任せてくれ」


 とりあえず小舟を岸に繋ぎ、鋼先は彼女を伴って、南側の岩山を目指した。


「あんたの来た道は、観光の最終日に行く人が多いんだ。そのまま、帰るための船着き場に繋がってるからな。でもちょっと入り組んでいて、ときどき迷う人がいる」


 彼女は、何度も強くうなずく。


「は、はい。私も、早く戻らないといけないんです。帰りの船の時間が……!」


 鋼先も、充分わかって頷いた。


「時間は知ってる。今からじゃ絶対に間に合わないぜ。だから、ちょっと険しいが、あの岩山を越えるぞ。がんばれ」


 本当に時間がないので、互いに自己紹介もなく、ずんずんと走った。


 岩山は人の背丈の三倍ほどの高さがあり、壁のように道を塞いでいるが、これを越えれば船着き場は近い。


「俺が先に上って、縄を貸す。待ってろ」


 鋼先は岩山を上った。何度もやっていることなので、他人のために縄を置いてある。それを彼女に投げ、身体に巻き付けさせ、手繰り寄せた。


「よし。軽い人で良かったぜ。もう少しだ」


 しかし、そのとき突風が吹いたかと思うと、急に大粒の雨が降り出して来た。洗い流されるような豪雨に、二人はずぶ濡れになる。鋼先は、足を踏ん張り、縄をつかみ直した。


「こんなときに、ひどい雨だ。おい、落ちるなよ」


 彼女も必死に上ろうとするが、岩肌が滑って足が乗らない。そのたびに鋼先にも衝撃がかかり、何度も縄を放しそうになった。


 彼女はようやく上りきり、雨の中、今度は二人で斜面を下る。しかし、


「あっ!」


 滑る岩肌に足を取られ、彼女が右足をくじいてしまった。


 激痛に動けなくなり、鋼先も困ってしまう。


「もう船が出るぞ。ちょっとがまんしな!」


 鋼先は、彼女を背中に背負った。


 夏の薄い着物が雨で張り付き、彼女の胸と脚が、直接触れているかのように密着する。


「やだっ」


 恥ずかしがる声を、聞こえない振りして、鋼先は一直線に走り出した。


 息も切れてきた頃、船着き場にたどり着いた。彼女を見つけた家族が、急いで船に乗せる。船はすぐに出た。鋼先は、息ができなくなっていて、結局何も話すことができなかったのを悔いた。




 鋼先は、その時のことを話そうと思ったが、ふと考え直す。


(記憶を失うなんて、相当なことがあったんだろう。あの時とは、だいぶ雰囲気が違うな)


 鋼先は、幼さも消え、物事に動じなくなっている彼女に、初対面として接することに決めた。




 ◇




 旅籠はたごへ移って落ち着いた一行は、卓を囲んで座った。


 鋼先が、よくようのない言い方で訊ねる。


「俺は竜虎山から来た賀鋼先がこうせん。あんた、名前は?」


 彼女は、ただ首を振る。


「本当に記憶が無いみたいだな。その筆の、魔星のせいか?」


 今度は、黙ってうなずいた。鋼先は、目を閉じて息をつく。


 李秀りしゅうが、思いついて言った。


「なら、あなたの術で、記憶を戻せないの?」


「それはできないわ」


 急に強い声で、彼女は否定した。


 李秀は驚いて鋼先を見る。鋼先は、魯乗ろじょうを見た。


「魯乗はどう思う?」


「思い出したくないことがあるんじゃろうな。無理強いはできん」


「なぁ鋼先」


 らいせんが興奮気味に言った。


「彼女にも、しゅうせいを手伝ってもらったらどうかな。あの術はすごい、きっと役に立つ」


 鋼先は、ため息をついて兄を制した。


「簡単に言うなよ。危険な旅なんだぜ」


 一同は、彼女を見る。


「私は、嫌よ」


 鋼先は頷いた。


「そうだろうな。すまない、無理を言って」


 しかし、彼女は首を振る。


「嫌だと言ったのは、あの術のこと。あんなもの、私は捨ててしまいたいの」


 だが鋼先は頷いた。


「それも気が付いていたさ」


 彼女が、驚いたように目を上げる。


「俺が言うまで、術を使わなかったからな。世話になった店が焼かれたのに」


 彼女が目を伏せた。鋼先は続ける。


「だが、あんたを連れて行けば、術を使わせざるを得ない。それでは気の毒だ」


 李秀も魯乗も、頷いていた。


「きっと、災いのもとになるわ。もう放っておいて」


 彼女が、ばちな声になる。


 すると雷先が、身を乗り出した。


「無理を言ってすまなかった。筆の魔星は、俺たちが収星する。で、君の記憶が戻るまで、竜虎山で静養すればいい。それならどうだ」


 鋼先が、兄の肩を叩いた。


「それが最善だな。最初にそう言ってほしかったなぁ、兄貴」


「でも、」李秀がいぶかしげに言う。


「そんなに嫌なら、その筆、捨てればよかったじゃない。どうして持ち続けてるの?」


 彼女は答えず、しばし沈黙が流れた。そして突然、


地文星ちぶんせいが言ったわ。彼が筆を選び、そして次に私を選んだ、と」


「魔星が、あんたを選んだ?」


 鋼先の問いに、彼女は力無く頷く。


 何を言おうかと鋼先は迷っていたが、彼女が、不意に言った。


「あなたたちも、何かを抱えているのね」


 一同は驚いた。そして顔を見合わせ、ただ頷く。


 彼女が続けた。


「それなのに、すごく楽しそうに見える。どうして?」


 それを聞いた鋼先は、


「俺たちは別々に、難題を抱えてる。だから協力することにしたら、何だか心強くなってきたのさ」


 と笑った。雷先たちも照れたように笑い、百威ひゃくいもキッキッと鳴く。


 少し間を置いて、彼女は言った。


「私も、連れていって。記憶が戻らなくても、このまま一人でいるのはいけない気がする。あなたたちと一緒に、いさせて欲しい」


 その言葉の力強さに、鋼先は少し驚いて周囲を見る。そして、ほほ笑みと共に、全員で頷いた。




 ◇




 仲間には加わったが、彼女のことはほとんどわからない。そこで、手荷物を調べてみることにした。


「いい服持ってるね。ちょっとした良家りょうけかしら」


 李秀が服を見ていると、魯乗が得意そうに声を上げた。


「このすずりの裏に、何か刻まれておるぞ。『かいけいおう君へ 御息女ごそくじょの生誕を祝って かいげん二十五年 えんおん 拝』……彼女の誕生祝い品じゃな」


「となると今年で十八歳か。出身は会稽、姓は王だな」


 鋼先が頷いて言った。


「ふーん。あたしは開元二十六年だから、あたしの一個上だ。よろしくね」


 李秀がにこやかにあいさつした。


「……よろしく」


 ほほ笑みにはずいぶん足りない表情で、彼女が挨拶を返す。


 雷先が、ふと思い出して言った。


「会稽の王家と言えば、しん代の書聖しょせいおうが有名だな。そのゆかりだろうか?」


 しかし当人の王は、何の反応もしていない。


「筆を見れば、はっきりするかも知れんの」


 魯乗が手を伸ばしたが、王はそれを制して言った。


「この筆の名は『えい』。私以外の人が触れると、あの力は落ちるわ。それでも良ければ、貸すけれど」


「なんと。それでは意味がないわい」


 魯乗が残念そうに手を引っ込めると、鋼先が立ち上がって言った。


「会稽の王羲之は、竜虎山と交流があったらしいから、やっぱり何かの縁かも知れないな。今日はいろいろあったし、休むとしよう」




 翌朝、朝食が済むと、雷先と魯乗が王を裏庭に連れ出した。例の術を詳しく見たいのだと言う。


 鋼先と李秀と百威は、かたわらで見ていることにした。


「手品を見せてもらう子供みたいよね」


 李秀が半ば呆れていうと、鋼先も苦笑した。


「面白い術だからな、気持ちは分かる。それに、一見万能そうに思えるが、弱点や限界が無いとも限らない。実験する必要性はあるだろう」


「そうか。そうだね」


 魯乗と雷先は、張り切って裏庭を片付け、広い場所を作っている。


 王は墨を満たした壺と筆を持ち、無表情に言った。


「いつでもいいわ」


 魯乗が、切り株の上に袋を乗せる。中から一羽の鶏が出てきた。


「こいつは食用に買ってきた。遠慮はいらん」


「何をすればいいの」


「うむ、では『でき』と書いてくれ」


 雷先が口を挟んだ。


「水も無いのに溺死?」


「無理そうなところから試していく。王君、頼む」


 王が墨を付けて筆を振る。鶏に「溺死」と文字が現れたが、何も起こらず、切り株からけだした。


「やはり無理か。では、次は『飛翔』と」


 王が再び筆を振ると、鶏の翼に「飛翔」の文字が現れた。鶏は激しく羽ばたくと、真っ直ぐ上昇していく。


 雷先が驚いて言った。


「すごい、飛べるようになった」


「百威、連れ戻せ」


 こずえに留まっていた百威が、さっと飛び立って鶏を捕らえてきた。


「最後に王君、この鶏を術でめてくれ。『殺』でも『死』でもいい」


 王は、ややちゅうちょしてから墨を飛ばした。鶏には「死」の文字が現れたが、しかし変化は無く、落ちている草の実をついばんでいる。


「どうしてだ?」


 雷先が首をかしげる。王は短いため息と共に言った。


「私が望まないことは、実現しない。……逆に言えば、使う者の意志によってはどんな恐ろしいこともできてしまう。解るでしょう、私が嫌がる理由が」


 魯乗が歩み寄って彼女の背を叩いた。


「すまんな、無理強むりじいさせてしまって。雷先の奴が、どうしてもと言うので」


「魯乗、俺だけのせいにするな。ずるいぞ」


 雷先が魯乗を小突こうとしたが、魯乗がひらひらとかわすので、そのまま追いかけっこになった。


 鋼先と李秀がそれを見て笑う。


 王も、少しだけほほ笑んだ。




 宿の使用人が茶を持ってきてくれたので、それを飲みながら一休みしていると、魯乗がいきなり言った。


おうへいかく、というのはどうじゃ」


「彼女の呼び名か」


 鋼先が短く頷いて、当人を見た。


「萍鶴……」


 彼女は唇で音を形作っている。


「理由は?」


 李秀が聞く。


へいは浮き草のことじゃ。失礼だが、ただよっているような立場だからな。つるは、彼女の背の高さから取った」


 皆が彼女を見た。


「……王萍鶴、何だか自然な感じがする。ありがとう、魯乗」


 そう言って、萍鶴は笑った。


 百威が歓迎するように、彼女の頭上を一回りして鳴く。


「そしてもう一つ」


 魯乗が、勢いをつけて言う。


「『飛墨顕字象ひぼくけんじしょう』! これは自信作じゃ」


「あの術の名前か」


 雷先が感心した。


「ふうん、なかなか渋いじゃない」


 李秀が片目をつむって言う。鋼先も頷いた。


「……何だか照れるわ。もったいないくらいよ」


 はにかみながら、萍鶴は輝影の筆を振った。


 すると、近くにあった枯木のみきに、「華」の文字が現れる。


 とたんに、満開の花が咲いた。


「わあ、きれい」


ももの木だったんじゃな」


 李秀と魯乗が喜ぶ。鋼先も、突然のことに驚いてほほ笑んだ。


 雷先が、用意していた酒瓶を開け、皆に杯を持たせて注ぐ。数種類の果汁を混ぜた酒で、甘い香りが辺りに立ちこめた。


 鋼先が乾杯を唱え、さかずきが傾けられる。


 こうして、新たな仲間が加わったことを、皆で改めて祝った。

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