ある日、昼過ぎになってから急に大粒の雨が降り出した。
昼飯がまだだったので、
「
と注文する。二人も照れて笑った。
すぐに酒が出される。
飲みながら、鋼先は、右隣の卓にいる、水色の上衣に白の
帳簿を付けているらしく、帳面と筆が置かれていた。
ただ、書き物をするでもなく、じっと外の雨を見ている。
(おや、この人は)
鋼先は、どこかで見たことがあるような気がした。しかしその時、ガラガラと大きな音を立てて、酒場の真正面に馬車がついた。
馬車には車の付いた
馬車から護送の役人が二人と、
その三人は
そして彼らが飲み始めたとき、檻の中の囚人が騒ぎ立てた。
「おい、俺たちは
「腹が減ったぞ、何か食わせろ」
「こんな檻、今に抜けてやるぞ」
しかし、役人たちは冷笑しているだけだった。
「お前らが濡れようが知ったことか。悪行の報いだ」
御者が、へつらいを言いながら酒を注ぐ。
「お二方も大任で。あんな奴らを護送なさるんですから。さあ、今くらいはごゆっくり」
様子を見ていた
「ねえ、あの囚人って、もしかして」
鋼先が答える。
「ああ。江州の城門で人相書きを配ってた。これだ」
鋼先が出したビラには、三囚人の似顔絵が描かれていた。
「名は
「物騒な雰囲気になってきたな。もう出るか?」
雷先がそう言ったとき、外の
鋼先たちが見ると、檻車の扉が壊れ、
役人の片方が驚いて立ち上がったが、向景は鋭く手を伸ばし、役人の喉をつかむ。そして彼の腰から剣を抜き取り、即座に
役人は声もなく倒れる。
「ひっ、ひと殺しだぁ!」
見ていた店の主人が、そう叫んでさっと奥へ引っ込む。
次に易角が駆け込んで来た。この男は、首枷を嵌めたままである。
「ひいい!」
御者が悲鳴を上げる。易角は体を
鋼先たちが
金還は曲がった釘を見せて言った。
「『檻を抜ける』って言ったろう。鍵開けは得意でね」
もう一人の役人が、
「檻を出たなら、さっさと逃げればいいだろう。なぜこんなことを?」
すると向景が、剣を向けて言う。
「ここまでの道中、ずいぶん雑に
易角が後を
「今日は雨の中に置き去りにしやがって。まとめて礼をしたまでよ」
役人は震え、腰を抜かした。
金還が、ふと気付いたように鋼先たちに目を向ける。
「何見てる。邪魔だ、失せろ」
だが鋼先は、愛想笑いをして言った。
「すまねえ、腹が減っててな。食ったら出て行く」
「死体が転がってるのに、大した食い意地だ」
金還が鼻で笑い、好きにしろと手を振った。
鋼先は、そっと李秀に耳打ちする。
「
李秀は
「いた。四ついるよ」
雷先が、いぶかしげに言う。
「数が多くないか」
「そうね。でも、これ以上鏡を向けると怪しまれるわ」
「じゃ、全員に
鋼先が苦笑して、豚骨の
金還が役人に近付く。向景から剣を渡され、狙いを定めていた。
何とか
魯乗は短く頷き、
意を受けた百威が、勢いよく
「ピイーッ!」
と鳴いた。
音に驚いた三囚人は、慌てて辺りを見回す。
李秀が素早く飛び出し、向景に
「えいっ!」
李秀は真正面から斬り付けた。向景の椅子はまっぷたつになったが、向景はそのまま両手武器として振り回す。二人は店の中を駆け回り、左右の得物で打ち合った。互いに素早い
雷先は金還に棒で打ちかかった。金還は剣で受け止め、力比べになる。しかし、金還は急に力を抜いて体を
易角が、二組を見ながら首を捻って言う。
「ただの道士かと思ったが、
その声を聞き、百威が飛びかかったが、易角は跳躍し、店の
「金還、向景、もう
そういうと、易角は厨房に下りて油を持ち出した。そして慣れた手つきで撒き始める。
魯乗が叫んだ。
「放火する気か。おい役人、そこの娘を連れて逃げろ!」
あの色白の女性は、この騒ぎにも動じずに座っていた。
役人は彼女に目もくれず、四つん
鋼先が、その背中に無造作に追魔剣を刺す。
「痛い! おい、何をする?」
「こいつにはいないか。だとすると……」
その時、店内に火が点いた。油のせいで、あっという間に燃え広がる。
包丁を手にした易角が、雷先に攻めかかった。雷先は金還も相手にしているので、防戦一方になる。
向景の方も、火に応じるように勢いが上がり、李秀が
鋼先が
「火事場で暴れるのが得意なのか。ちくしょう、何とか奴らの動きを止めないと」
すると、かたわらにいた例の女性が、ふらりと立ち上がった。
「止めれば、いいのね」
彼女は
鋼先は何事かと思ったが、事態は急変した。
三人の囚人の顔に、墨の文字が現れた。「停」と読める。そのとたん、三人は麻痺したように倒れてしまったのである。
「なんだこれは」
鋼先は、驚いて彼女を見た。
が、機を逃すまいと、急いで三人に追魔剣を突き立てる。
「李秀、朔月鏡を!」
鋼先が叫ぶと、李秀が鏡を投げた。
鋼先はそれを受け取ると、素早く魔星を吸い込ませて言った。
「
外はまだ雨が降っている。
役人が、一人で逃げようと馬の手綱を解いていた。
雷先と李秀が、素早く役人を捕まえる。
「おい、どこへ行く気だ」
「早くあの三人を縛るなりしなさいよ。何だか分からないけど、あいつら動けなくなってるから」
そのとき魯乗が、あの女性を連れて出てきた。
「奴らが動かなくなったのは彼女のせいじゃ。鋼先、お主は見ていたろう」
すると女性は、その手に持った筆を見せて言った。
「そう、私がやったの。私の術は、墨を飛ばして、文字のままの力を
か細くて、しかし
「何? では、もしや」
魯乗が驚きの声を上げると、鋼先たちは一歩下がって身構えた。
しかし、彼女は首を振る。
「私ではないわ。『地文星』はこの筆に宿っているの」
「筆に?」
鋼先の問いに、彼女は頷く。
「魔星は、何にでも取り
「その筆と、話せるのか?」
「もうできない。筆との同化が強くなったから」
そんな説明を聞いていると、あの役人が声をかけてきた。
「火は収まってきた。あいつらは縛ったから、応援を呼んでくる」
役人は慌てて馬車に乗り、去って行った。
入れ替わりに、裏に隠れていた酒場の主人夫婦が現れた。
「娘さん、ここにいたか。無事かい」
そして、まだ煙を出している店舗を見ながら言う。
「あれでは、しばらく店はやれん。わしらは一度田舎へ帰るよ」
主人に礼をしながら、彼女が言った。
「お世話になりました、お元気で」
「一緒に来てもいいんだよ?」
会話を聞いた鋼先たちが首を傾げていると、妻が説明した。
「この娘は、先月ふらりとこの町に来てね。困ったことに、記憶が無いみたいなの。可哀想だから、何か思い出すまで、うちで
「記憶が無いの? ……何か、たいへんなことがあったのかもしれないね」
李秀が心配そうに彼女を見た。彼女は、また主人に礼をする。
「お気持ちは嬉しく思います。今までありがとうございました」
彼女はそう言って、本当に去ろうとした。
鋼先は慌てて声をかける。
「ちょっと待ってくれ。さっき助けてもらった礼がしたい。今晩の宿くらいは面倒見るぜ」