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人畜無害な婚約者が、浮気相手の殺害を計画していると知ってしまった
人畜無害な婚約者が、浮気相手の殺害を計画していると知ってしまった
有沢楓
異世界恋愛ロマファン
2025年01月31日
公開日
2.1万字
完結済
「何度もごめん。……結婚を延期して欲しいんだ」

 男爵家の一人娘パトリシアは家業の出版社を継ぐため、大学卒業と同時に婿取りをする予定だった。
 しかし同窓生でもあった婚約者のルーファスからは、多忙を理由に入社後も何度も式の予定を延期させられている。
 そのたびパトリシアは、仕方ないと自分を納得させて受け入れてきた。
 実際、彼は新部門の小説出版の仕事も任され、特に彼が担当する作家アンジェリカの、激甘なロマンス小説は大ヒット。パトリシアもすぐファンになったからだ。

 けれどもパトリシアはある日、「アンジェリカを殺すしかない」というルーファスの走り書きを見付けてしまう。
 人畜無害そうな婚約者が、何故か殺人を企てている!
 このまま結婚か、はたまた婚約破棄か、それとも殺人が先なのか。
 調査を決意したパトリシアの前に、ルーファスがアンジェリカと浮気をしている疑いが現れて……?


 この話は他サイトにも掲載しています。

人畜無害な婚約者が、浮気相手の殺害を計画していると知ってしまった

「パトリシア、何度も申し訳ないのだけど」


 初夏の陽気に相応しくない、いつかも聞いた沈んだ声音に、喉の奥に雪が詰め込まれる。


「仕事が忙しくて……結婚を延期して欲しいんだ」


 振り返れば婚約者のルーファスが、四度目の結婚延期を言い出したところだった。

 トフィーブラウンの細い眉につられて、目が伏せられる。長い睫毛は、髪よりも濃色の瞳に影を落とした。

 中性的で優しげな顔立ち。落とした肩に、後ろでリボンで結んだ短い髪先がかかっている。叱られる前の長毛種の犬のようだ。


 ロウ子爵家の次男スペアの彼と、私――オーウェル男爵家の一人娘・パトリシアは大学在学中に婚約して、卒業後すぐ結婚するはずだった。

 出版業を営むオーウェル家の婿で、社長候補として。


 普段態度から表情まで控えめな彼のそんな顔に、私は無理やりつめたいものを飲み下し、つい「いいよ」と言ってしまいたくなる。

 だって彼は、私に謝るようなことをしたことがないから。この件以外は。

 でも、二年近く四度の先延ばしは、いくら多忙が理由でも……すこし、いや、かなり許容範囲を超えている、と思う。


「……以前、これ以上の延期は厳しいって言わなかったかしら」


 二回目までは笑顔で承知した。

 三回目、やんわりとくぎを刺した。

 四度目も来るだろうなという予感は残念ながら当たったわけだ――そうなったら、はっきり言うしかないと、ひと月前から決めていた。

 私は手をきつく握り込む。


「披露宴でお出しする料理だって季節が変われば、食材から考え直しでしょう。延期した方が余計に時間がかかることは少し考えれば分かるはず」


 自分で想定したより私の喉から出た声は冷えていて、棘があった。


「ドレスの採寸だって、やり直しかもしれないし」


 これは、かもしれないじゃなくてほぼ確定。卒業前に頑張って絞ったウエストは、仕事と延期のストレスからくるヤケ食いでもとに戻った自信がある。


「……本当にごめん」


 頭を下げられれば、まるい頭頂が見えた。見たくもない姿に、イガイガする喉から言いたくもない言葉をぶつける。


「これは両家の結婚式なの。籍だけ入れる、式だけで披露宴をしない訳にいかないって分かってるわよね。友人たちにもせっつかれているし、私の仕事にも影響が出るの」


 私は今、父の会社で主に女性向けの雑誌や書籍の、企画と編集をしていた。特に私のような貴族の末端から新興富裕層ジェントリから、中間層に向けて。

 最近増えた女子学生向けの本や、流行を集めた雑誌、それに家庭を切りまわす奥様――主婦層向けの実用書は年々売り上げを伸ばしている。

 今後もリサーチと売り込み、説得力のためには、学生時代の貴族の友人たちとの交流に加えて、既婚と言う肩書きが重要なのだ。


「……忙しいのも準備がなかなか進まないのも、半分は父のせいだし、それは私からも言っておくけど」


 ルーファスは一般向けの実用書を担当しつつ経営を学び、更には最近始めた小説部門の編集業務まで担当させられていて、忙しさは私の比ではない。

 とはいえ、いつまでも後回しにしていたら、一生結婚できない。


 ――でも、本当に言いたいのはそんな、仕事にかこつけた可愛げのない言葉じゃなくて。

 息を吸えば、彼から控えめなインクの香りがした。

 それをゆっくり吐いて、なるべく柔らかい声音になるように気を付けて。


「でももう半分、たまには自分から休みをもらっていいと思うの。

 今回の延期は、分かった。だけど……今度決める日程で、最後にしましょう?」 

「……そうなるといいな」


 自信なさげに頭を上げた彼の、頼りない微笑は、そのまま彼の存在ごと消えてしまいそうで、口をつぐむ。

 学生時代から断定を嫌がるのは知っているけれど、それはたんに慎重で根拠を重視する性格だからで、こんな風に無気力だからではない。

 自分から延期を言い出しているくせに、私より打ちひしがれていく姿では。


 だから、追い詰めたくなくて、本当に言いたかったこと――なんでそこで「そうしよう」にならないの? と。最初から結婚する気がなかったの? と問い直す勇気がなくなってしまう。


 本当はたくさん聞きたかった。

 残業が長引いて家に帰れず、会社と近い我が家に寝泊まりする時も、絶対に私の部屋には挨拶に来ないのは何で、とか。

 話し合う時間を作るつもりがないんじゃないか、とかも。


「……」


 私は「そうするの」と言う気にもなれず、足元に目を落とす。

 そこに、庭の芝生の上に広げたピクニックバスケットの、手付かずのままになっていた料理を見付けた。

 ローストビーフのサンドイッチ、苺のコンポートとビスケット。それに紅茶。


「そろそろ食べましょう。せっかくコックが作ってくれたんだもの」


 私は何とか笑顔を作って顔を上げ、促す。

 ルーファスもまた顔を上げてピクニックシートの上に腰を下ろし、神妙な顔でサンドイッチに手を伸ばす。

 私も隣に座って一口かじれば、薄くホースラディッシュを塗ったそれは、コックも熟知している彼好みの味だ。


「半月ぶりかな、一緒に食事するの。本当はもっと時間が取れたらいいんだけど」

「……そうね」


 多忙が嘘じゃないのは良く分かっている。職場が一緒で、仕事場は隣の部屋だ。たびたび席を外していることも知っている。

 だから婚約者のくせに、レストランで食事したことなんて、この一年なかった。


 だけど、その一年前だって、多分親が同席して仕事の話をしていた。

 ……いや、婚約前からだって、初めて会った時からたいていの会話は、紙をはさんでいたっけ。要するに他愛のない会話は殆どしたことがない。

 よくある、複数人の候補の中から条件で決まった、ありふれた政略結婚。


「……どうしたの、パット?」


 優しいテノールで遠慮がちに問いかけられれば、私は咄嗟に冷めたお茶を喉に流し込んだ。

 呼び名が、愛称に変わる。そういう時、私の胸はざわつく。

 いつからか呼ばれ始めた愛称を聞くと、政略結婚なのか、なんなのか、距離感が分からなくなってしまうから。


「婚約のずっと前、初めて会話した時のことを思い出してた」

「二年次の近代技術史のレポートの評価が君が一番目で、僕が二番だったね。まさか技術史で印刷から農村の福祉まで話が繋がると思わなかったからよく覚えてる」

「ルーファス……ルーがね、おめでとうって言ってくれた」

「そうだったかな」


 ルーファスは、細い指でコンポートをおっとりと、でも器用にビスケットに乗せて口に入れた。


「女子に負けるなんてって男子たちに言われてたのにね。何人かの教授たちだってそう。通わせた父ですら、成績はそこそこで良いって言ってたのに」

「それはパットの発表がすごくよくできてたから、当然賞賛を受けるべきだと思ったんだよ。それに、図書館に通い詰めてたのも見てたから」


 ビスケットを飲み込んだ口は、簡単にそんなことを言ってしまう。

 彼は、私のように勉学や人間関係が仕事に役立つからと、大学に行かせられた訳ではない。いや、子爵はそうだっただろうけれど、彼自身は純粋な学問のしもべだった。

 あの時の私は、評価されたら針山の晒しものにされるなんて想像もついていなくて、一度は辞めてしまおうかとまで思った。

 彼が祝ってくれたから、他の生徒たちから拍手をもらえたのだ。


「あなたより評価されたのは、後にも先にもその一回だけ。実を言うと出版業と私のアピールのためにも、絶対に一番を取るんだって気合を入れてた課題だったの。

 それなのに発表後、祝われた上に参考資料を聞かれて、敵わないって思って――」


 この人は純粋に勉強が好きなんだなと、尊敬した。

 目で追うようになって、物静かな佇まいと、資料を丁寧に扱う手つきに恋をした。

 だから。

 あなたはそのまま学者になるんだって思ってた、という言葉を飲み込む。


「今の仕事が大変でも。仕事が軌道に乗ったら、きっと歴史書も発行できるし専念できる。私みたいに、編集者兼執筆者って珍しくもないし」


 ――私は嘘つきだ。

 こうやって相手も自分も仕事にかこつけてなだめて、誤魔化して、言いたいことも言わずに、いつか彼が情を移してくれないかなあなんて時間を稼いでいる。




 ルーファスがピクニックシートの布地の上に体を横たえたので、私が青いデイドレスの膝上をあけると、遠慮がちに頭を乗せてくる。

 抱き合ったこともないけれど、偶然頭が乗った時に私が拒否しなかったので、それ以降庭で彼は、人目がない時はこうするようになった。

 そうするとルーファスの、澄んだ瞳と以前より濃くなっているクマがはっきり見える。


「歴史書か……できるかな」

「きっとできるわ。ルーには知識はもちろん、うまくまとめる才能があるもの。編集の方だって、お茶会じゃうちの新レーベルの話でもちきりなんだから」


 私もロマンス小説は専門外だったけど、彼が担当しているアンジェリカ・エアハートはぜんぶ読んだ。

 ヒロインがとっても可愛くて魅力的で。男性たちとのやりとりが砂糖漬けみたいに甘いのに、物語の筋は歴史や政治の話題と絡み合っててスパイスが効いている。

 新刊が出るたびにルーファスに感想を話していたけれど、半分は単なるファン心理だった。


「この前の新刊も発売日に買って、その日のうちに読み終えちゃった――おかげで次の日は寝不足」

「それは嬉しいな。どこが良かった?」

「色々あるけど、いちばんはメインヒーローとの再会の場面! 長い間会えなかったからなかなか言葉にならなくて、それから『いま何を言葉にしても、うまく伝えられずに嘘になってしまう気がする』って」

「そうか、頑張った甲斐があったね」


 ルーファスは私を焼き栗みたいな色の瞳で見返して、とろけるような笑顔を見せた。

 寝転んでいるときだけは――眠いからだろうけど――こうして見せてくれる表情に、結婚するつもりがあるのかもなんて、希望にすがってしまう。


「だからね、その売り上げを回せるんじゃないかしら。二人で早く父を引退させてやりましょう」


 ルーファスは小さく頷いてから欠伸をすると、腕を伸ばしてきた。

 緊張に身を固くしていると、私の目尻の辺りにこぼれた、ぱっとしない茶髪にそっと触れてから、そのまま手を戻す。

 目を擦った。


「ごめん……パット。最近寝てないんだ」

「うん、おやすみルー」


 たまの休憩時間はいつもこんな風に昼寝してしまう。

 私は頭をそっと撫でた。

 普段手に触れることも少ないのに、これもつい、私が撫でてしまってからの習慣のようになった――何故か拒否されたことはないのをいいことに。

 見た目よりもずっとさらさらとした髪の毛は指通りが良くて柔らかくて、気持ちがいい。

 そんなことを知っているのは、これからも私だけでいい。


「……ごめんね」


 呟いたのは私の方だった。


 結婚してくれれば私の夢はふたつ叶ってしまうだろう。

 ひとつは彼と結婚すること。

 もう一つは、いずれ「これ」と見込んだ学問的な価値のあるものや、初学者向けの参考書を出版すること。そのために理解のあるパートナーを得ること。


 今はまだ高等教育は余裕のある人たちだけに占有されているけれど。工業と印刷技術は発展し続け、出版も勢いがある。

 都市部でも読書人口が増えたから貸本屋ができて鉄道の駅々にも貸小説が置かれるようになった。村に届く雑誌は、農村の子供たちにも世界や自分にも手の届く憧れを見せた。

 これからきっと女性や、奨学金で通うような人たちの中からもルーファスのような才能が出てくる。


 ……父は、採算が取れないからと私の考えには渋い顔をする。

 きっと多くの男性もそうだろうと、大学に行って実感した。彼のように、学問に理解があってなおかつ女性に意見や立場を譲れる男性はそう多くないのだ。


 けれど。

 お互い成人して、納得の上だとしても。

 それは私と両家にばかり利があって、どう考えてもルーファス個人には――経済的にはともかく、夢をすり潰してまで得られるものなんてないように思える。


 ルーファスの「好き」は学生時代いつだって歴史の研究や勉強に向けられてきた。私の持っている少ない宝飾品や、家に飾ってある絵画や食器と同じくらい――いや歴史があるからこそ、それらや、書籍や原稿を扱う手つきが優しい。

 そして、傷めないように注意を払って角を揃える指先や眼差しが、私は「好き」なのだ。

 彼の好きなものは、才能があったとしたって、出版ではない。


(……ほとぼりが冷めた頃に、解放してあげたほうがいいのかな)


 静かな寝息が聞こえてきてから、私は昼寝に備えて持って来たアンジェリカの新刊を開いた。


 そこには現実とは違うキラキラした世界が広がっている。

 私やルーファスと同じ茶色の髪に茶色の目の一見ぱっとしない令嬢・パメラが、持ち前の能力を発揮して宮廷で活躍。様々な男性に求愛されながら幼馴染の貴公子と愛を育むという王道ラブロマンスだ。

 ドレスに宝石、舞踏会。テラスでの密会、カフェでのデート。甘い口説き文句にひたむきな告白。


『あなたに出会ってはじめて、僕の世界に色が付いた気がしたのです』


 万事控えめなルーファスからは絶対に囁かれることのないような、溺れてしまいたいような甘い言葉。

 でも、そうでなくとも「君は大輪の薔薇のようだ」なんてありふれた美辞麗句さえ口に出す男性は実際に多くないから、読者の支持を得ているのだろう。

 ヒーローはそれにパメラの努力や、一見平凡な茶色に別の色が混じっていることにも気付いたりしてくれる。


『他の人には見せないで』


 パメラが馬車でタウンハウスまで送ってもらった頃、私はルーファスのジャケットから一枚、折りたたまれた紙が零れ落ちたのに気付いた。

 風で飛んでいかないようにと拾い上げてから、それが会社で使っている便箋で、書きかけであることに気付く。


「……仕事かしら」


 私は本をぱたりと閉じた。

 私も、正直なところ仕事と式の準備で手いっぱいだけど、ルーファスよりはましだ。

 何か肩代わりできないかなと、裏に透けるメモ書きに興味を引かれて開いてみれば。



 ――『もう限界だ。アンジェリカを殺すしかない。』



 荒いけれども確かにルーファスの筆跡で、そう書かれていたのだった。


 周囲の音が遠くなった。

 耳の中で心臓がどくどくと、早鐘を打つ音だけが響く。


 結婚を先延ばしにしたいのは、何故?

 アンジェリカと関係があるの?

 私と結婚したくないから? 巻き込まないため?


 このまま私は殺人犯と結婚するの? それとも、類が及ばないようにこちらから婚約破棄するしかないの?

 いつ、殺すつもりなの?


 私は喉を鳴らすと、紙を慎重に折りたたんで、そうっとジャケットのポケットに押し込む。

 それから暖かで人畜無害そうな婚約者の面立ちを、瞼が開くまで眺め続けた。



***



 翌日の昼休み、私は早速、隣にある小説編集の部署を訪れた。

 元々の実用書の部署に机と仕事を詰め込んだ部屋はだいぶ雑然としていた。資料の角が綺麗に揃えられているルーファスの机に目が吸い寄せられれば、思った通り主の姿はない。


「済みません、今お時間宜しいですか? 雑誌の次号の特集の参考にご意見をお伺いしたくて」


 私は金色の髪を後ろできっちり結んだ女性に声を掛ける。かっちりした灰色のドレスと眼鏡でも色気が漏れ出る彼女は、シャノン・フォスターさん。

 二年先輩で、新設の小説の部署を実質的に管理している。


「ええ、今ちょうど手が空いていますから」


 机と椅子だけの簡素な小会議室に場所を移して扉を閉めると、シャノンさんは伺うような視線を向けてきた。


「パトリシアさんは大丈夫ですか?」

「……結婚のことなら、仕方ないですよね」

「社長のお嬢さんに言うことじゃないかもしれませんが、お仕事より優先していいと思いますよ」


 彼女は入社前に父の忘れ物を届けに来た時からの顔見知りで、しっかり者の性格からか、今も色々と気にかけてもらっている。

 その彼女を利用するのは申し訳ない、と思いつつ私は情報を得るために神妙な顔つきで頷く。


 昨夜唸りながら書き換えた、日々の仕事も結婚式も後回しになったタスクの一番上は、ルーファスとアンジェリカ先生の関係を調べることだった。


「実は、そのこともありまして。

 いま、女性のお茶会でアンジェリカ・エアハートの本が大評判なんです。ここから新しい流行が生まれると感じています」

「まあ」


 シャノンさんの目がきらりと輝く。


「雑誌でも、登場する物品などを紹介できれば売り上げが伸びて、父ももうちょっと人手を増やしてくれるかなと思って」

「ああ、今ロウさんものすごく忙しいですからね。ちょくちょく呼び出されていますし……午後からも外出予定だそうで、そろそろ戻ってくると思うのですが」

「……仕事減ると、いいんですけど。どんな状況なんですか?」


 納得して頷くシャノンさんは私に同情のまなざしを送る。


「最近は実用書より小説の方に注力してもらっています。

 ご存知のように女性向けのロマンス小説の売り上げがとても良くて、特に担当のアンジェリカ先生の作品、社長に二カ月に一冊は新刊を出したいって言われて、大忙しです」

「パメラのシリーズですね、読みました。素敵ですよね」

「私もですよ! 『曖昧なままにしておいた方が、心地良かったのに』とか!」

「離別のシーンの『あなたを想い続ける許可をいただけませんか』とか」


 小説の話題に笑顔を見せたシャノンさんだったが、そこできまりが悪そうに首を傾げた。


「ただアンジェリカ先生、本業の兼ね合いかご身分のある方なのか、なかなか連絡が取れない方なんです。それで余計に負担がかかってしまって……」


 私の知る限りでも、家族に執筆を知られたくないからと性別や筆名を変更する方、私書箱のみのやりとりの方はいる。

 それだけなら、筆名を使い分ける記者もいるから珍しくはないけれど。


「連絡先は担当のロウさんと、私しか知りません。やり取りは基本的に郵送か、ロウさんが仕事場に行くことになっていますが、加えて最近は締め切りに間に合わないとか……相談もしばしばで、苦労しているみたいです」

「どれくらい、ですか」

「二、三日に一回ですね」


 心臓が跳ねた。跳ねて、なかなか静まらない。

 私と顔を合わせる回数よりずっと多いのは単なる事実で、そこにはまだ仕事以外の意味は付随していない――いや、もしそうであっても冷静になるべきだ、と私は自分を叱る。


「遠いところにお住まいなんですか?」

「……許可がないので明言できませんが、近隣の区域に専用の仕事場を借りていらっしゃいます」


 それなら、馬車ですぐ行ける範囲になる。


「どんな方ですか?」

「私も一度だけ行ったことがありますが、その時は風邪をひいておられて扉越しの対応でしたから、顔を見たことがないんです」

「……そうなんですか。他の担当の方と、負担を分け合ったりとかは……」

「肝心のアンジェリカ先生がロウさんをご指名なので、他の方が担当するのは難しいと思いますね」

「……指名ですか……?」


 シャノンさんの声に若干気まずそうな響きが混じるのは、私がすぐ想像したようなことを彼女も考えているのかもしれない。

 あのロマンス小説の中身はかなり貴族の社会に取材されて書かれていた。教養からしても、貴族の奥様かご令嬢の可能性が高いように思える。


「……ルーファスの、個人的な、知り合い……?」


 彼女たちが書こうとするなら、お茶会に顔を出している私との接点の方が、多いはずだ。私を経由して会社に仕事を相談してもいいはず。

 自分で言うのもなんだけど、口が軽いなんて評判は立っていない。

 それをわざわざルーファスに直接相談するのだから、男爵家の婿でなく、子爵家の次男として、一人の男性として見られている? たとえば夜会にでも出ていた時に知り合って親しくなって――。


「パトリシアさん、あの、想像とは違うと思いますよ」


 ついずぶずぶと思考の沼に沈んで、「浮気」という言葉を拾い上げそうになる意識を、彼女の聞いたことのない、慌てた声に引き戻される。


「みんなで大掃除しているときに、ロウさんの机から原稿が出てきたんです。ちらりと見えたのがすごく素敵な恋愛シーンの草稿で、つい私が夢中になってしまって」

「シャノンさんが発見されたのですか?」

「ええ。伺ったら郵送での持ち込みだと仰ったので、これを書かれた方に連絡を取って、本にしたらどうかと私が勧めたんです」


 早口のシャノンさんにぼんやり頷くと、扉からノックの音がした。薄く開いた間から遠慮がちな同僚の声が聞こえてくる。


「お話し中のところ済みません。パトリシアさんを社長がお呼びです」

「はい、今行きます」


 私は答えると、立ち上がってシャノンさんに頭を下げる。


「……時間を取っていただいたのに、途中で申し訳ありません。

 アンジェリカ先生の読者さんの反応の良いところ、またあとで教えてください。それと雑誌の記事ができたら、確認してもらっていいですか?」

「大丈夫ですか」

「ええ、締め切りに遅れたこと、ほとんどないです。……失礼します」


 気遣うような顔に話題をあえてそらして笑ってみせて、もう一度頭を下げると、私は父のところへ急いだ。



***



 父は書類やら何やらで狭苦しくなっている社長室の、大きな、これまた紙類で埋まっている机の向こうに中肉中背の半身を屈めて、数字が並ぶ書類を覗き込んでいた。


「……お父様、参りました」

「パトリシア、ロウ家の財務状況が芳しくないことはルーファス君から聞いているか?」


 書類から顔を上げた父は、眼鏡を外して白髪交じりの眉をひそめた。娘の私と同じくどこにでもいそうな紳士といった風貌だけれど、会社を興して継続するくらいの野心がある――つまり、私の結婚の決定権を握っている。


「何となくは」

「外国の干ばつの影響で投資が無駄になってな……まあともかく、うちとロウ家が縁を結ぶ意味が薄れてきた。

 パトリシアも、相手がルーファス君でなくともいいんじゃないか」

「……何を、言ってるんですか……今更じゃないですか」


 私はごく冷静に答えたつもりだったけれど、声が上ずってしまい、父は更に眉を下げる。


「……結婚式の打ち合わせを二人に任せていたら、伸ばし続けているじゃないか」

「それは、忙しすぎるからです。ルーファスに仕事を振りすぎではないでしょうか。もう少し人を雇っても、まだまだ経営に余裕はあるはず……」

「本当に結婚するつもりがあるのか?」


 そう言う父が、婉曲的に聞いているのは分かる。私でなく、ルーファスの気持ちを。

 私がとっさに答えられずにいると、父は意外な名前を口にした。


「……あのアンジェリカ・エアハート」

「お父様もロマンス小説を読まれるんですか?」

「あれだけ売れてるんだ、軽く目を通した。他のを後回しにしてまで刷らせている売れっ子だからな。

 ……で、アンジェリカ先生への問い合わせが凄くてな。わたしのところにも色々来ている。コラムとか雑誌の連載をとか、連絡先を教えろとか、探られたりだとか――ルーファス君しか把握していないのに、だ」


 父は参ったというように息を吐いた。


「ルーファス君には彼女の情報を渡すか、できないなら最低限先生を専属作家にするように尻を叩いている。

 ロウ家への援助と、お前と結婚したいなら、と。かなりの譲歩だと思わないか? だがそれすらうまくいってない」

「そう、ですが。……でも先生に嫌がられて他社に逃げられるよりずっといいはずです。……それから、私にも彼の仕事を分けてください」

「お前はお前の仕事に専念しろ。それにルーファス君にも無茶な量は振っていない。次に社長になるならこれくらいできないでどうする」


 父の目に見えたのは、事業家としての苛立ちではなく、父親としての娘に対する憐れみだった。


「元々彼は学者志望だろう。別に婚約解消してもこちらから解雇はしないし、彼個人になら数年金銭的に援助してもまあ、構わない」


 後者は破格の申し出だ。

 でも、さすがにその援助の中には、彼が売れっ子作家の殺害犯になっても、という仮定は含まれてないはず。


「頑張るように、お前からも言ってくれ。もし無理そうなら、彼のことは諦めなさい」


 破格の申し出は同時に、最後通牒でもあった。

 唇を引き結び、父に「はい」と答えられないまま部屋を出る。


 電灯の少ない薄暗い廊下の、柱の影に吸い寄せられた私は背中を冷たい壁に預ける。

 深く息を吸って吐けば、真新しい印刷物の香りがした。嫌いではない、むしろ好きな香り。

 それなのに無性に大学の図書館の、古い本を嗅ぎたくなる。

 学生でなくなった私には容易に戻れなくなったそこに、何を置いてきてしまったんだろう。


 そんな風に考えていた時、廊下の向こうから複数の足音がして私は壁から背を離す。連れ立って歩いてきたのは、ルーファスとシャノンさんだった。

 彼はフロックコートにハットの訪問着で、シャノンさんも普段の服の上から少し改まったコートと帽子を被っている。


 私に気付いてぺこりとお辞儀をするシャノンさん。

 そのまま通り過ぎようとするルーファスの目は、対してうつろで正面しか見ていないのに、機械的な足取りだった。

 聞きたいことも言いたいことも沢山あったけれど、いたたまれなくなる。


「あの、ルーファス」


 勇気を出して声を掛ければ振り向いた彼の返事まで、一、二秒あった。


「……パトリシア。……どうしたの?」


 気まずそうに微笑するルーファスに私はぎこちなく笑顔を返す。


「ちょっと父に仕事のことで相談があって。……どこに行くの?」

「……作家の先生が資料を欲しがっているんだけど、女性向けのものは良く分からなくて……それでフォスターさんに協力を頼んだんだよ」

「済みません、パトリシアさん……また後で」


 シャノンさんがやっぱり気まずそうに謝って、後で説明しますというように目配せをしてくる。


「シャノンさんでなくても、仕事が終わってから私が同行するのでは駄目?」

「……ごめん、それは……。……あの、フォスターさん、先に玄関で待っていてもらってもいいでしょうか?」


 ルーファスは視線を彷徨わせた後、シャノンさんに軽く頭を下げた。彼女は頷くと「ゆっくりでいいですよ」と言って先に歩いていく。

 その背中が角を曲がって見えなくなってから、私は口を開いた。


「あのねルーファス、明日、仕事を休めない?」

「ごめん、明日は大事な仕事が」

「大事な仕事……? 私、より、アンジェリカ先生の方が、大事?」


 何重かの意味で言うべきでない言葉を口にしてしまって、咄嗟に謝罪する。


「っ……ごめん」

「……どうしてそんなことを?」


 そういうルーファスの目はまだぼんやりと私を見ている。


 ……もしかしたら疲れ切って、アンジェリカ先生を殺したいなんて思うようになったのかもしれない。

 寝不足だと思考が悪い方に行きがちだ。

 とはいえ彼のことだから、正直に休んだ方がいいと言っても、きっと私の言葉では届かない。断るのは目に見えている。


「ちょっと相談があって……わ、私も、仕事のことなの」

「パトリシアが僕に手伝って欲しい仕事なんてあるの? いつだって一人でこなしているのに」

「……ルーファス?」


 普段と違う何か切羽詰まったような声音に手を伸ばしかけて、彼の手が革手袋に包まれていることに今更気付いて引っ込める。


「……あのね、」

「パトリシアもこれから仕事だよね」

「……うん、友人宅のお茶会に招かれてて、リサーチと営業。……でも、私、欠席したって、」

「僕の負担のことだったら、もうすぐ楽になるから、だから大丈夫だよ」

「……ちが……明日が駄目なら明後日は?」

「そうだね。明後日なら大丈夫……大丈夫にするよ」


 やけに力強く頷くので、不安になってしまう。つい「本当に?」と問い返せば。


「たぶんパトリシアは……僕のことを信じていないよね」


 そう消えそうに小さい声で言った彼が儚げに、あまりにも寂しそうな笑みを浮かべる。


 喉のよりも先、胃の奥に溜まっていた言葉が出ようとしてはつっかえて、炭酸水にむせるように、あぶくのように息だけがぬるい空気に消えていく。


「ごめん……信じてもらえるように、頑張るから。……じゃあ急ぐから、また」


 結局私は何も言えないまま、彼の揺らぐ背中を見送ることしかできなかった。



***



 私はその後、予定通り友人宅でのお茶会に参加していた。

 彼を追いかけても良かったのに、結局、他のものを優先するのはルーファスだけでなく私も同じ――いや、私の場合は逃げたんだ。


 それなのに未練がましく、馬車に乗っている間も、着いてからもずっと、私はルーファスとアンジェリカ先生について考えていた。


 アンジェリカ先生を殺したい理由。

 本当に殺すつもりがあるのか、その確率。

 彼女の正体。身分を隠す理由、ルーファスを指名する理由。

 そもそも草稿は投稿小説などでなく、ルーファスへの恋文だったんじゃないか。草稿についてシャノンさんから、詳しく聞いておけばよかった。


 でもそんな疑問は全部、ルーファスに問いただせば何らかの解決をみることは、本当は理解していた。


「パトリシア、今日はずいぶんうわの空じゃない?」


 女学校時代に一番仲が良かった友人のエリカ声を掛けられ、私は応接間のソファに座っていたことを思い出した。

 ふわふわの金髪が私と対照的な可愛らしい顔立ちの彼女は、見た目に似合わず、卒業後は一念発起して看護学校に進学した。

 看護師として病院で知り合った軍人と結婚し、妻として家を守っているしっかり者だ。


「……え? そう?」

「そうよ。いつもなら市場調査とか言ってお菓子やお茶や、テーブルウェアのチェックを欠かさないのに」


 エリカは悪戯っぽく笑うと、ほら新作のビスケットよ、と勧めてくれる。


「こっちがうちで焼いたので、これが最近人気のベーカリーの……」

「相変わらず詳しいのね」

「結婚するとおもてなしも増えるしね。……なんてね、パトリシアのところの雑誌にずいぶん助けられてるわ」

「ところで、みんなは?」


 いつの間にか向かいに座っていた友人たちの姿が見えなくなっていたので問えば、さっき帰ったわよと言葉が返ってくる。


「あいさつも上の空だったものねえ。……何があったの?」


 エリカは口がかたく、信用が置ける数少ない友人だ。

 とはいえ、「婚約者が殺人を計画している」なんて言えるわけがない。


「……もし、もしね、仮定の話ね。エリカの旦那様に深い悩みがあって憔悴までしているのに、相談してもらえなかったら、あなたはどうする?」

「結婚を四回も先延ばしにしてるあなたの婚約者のこと?」


 遠回しに言ったのにずばりと指摘されて、私はおずおずと頷く。


「うちは軍人だから、平時でも急な呼び出しで遠方に行けっていうのもよくあるのよ。戦争でも起こったら海外だし、何の作戦に従事してるかなんて軍事機密になれば教えてもらえないしね」

「……ごめんなさい」

「そうじゃなくて、私のことを信じてたってすぐに相談できない理由なんて幾つもあるってこと。逆に私の方が、彼が相談できない理由があるんだって考えるの」


 彼女は私の前のお皿にビスケットを積んでいく。


「結婚したって職場は配慮してくれないし、相手の全てを把握して管理することもできないものね」

「……」

「だから、自分ができる範囲の問題にするの。相談してくれるように促して、いつでも相談していいよってポーズでいつまでも待つことは、自分でできるから」

「信じてるから?」

「というより、そうしたいから」


 口に花の型をしたビスケットを運べば、更にお皿にもう一枚、絞り出しのものが乗せられた。


「あの……旦那様は軍人でしょう。……ごめんなさい、失礼な、変なことを聞くけど、たとえば人を殺したらって、怖くない?」

「怖いってひとくちに言っても色々あるでしょ。パトリシアは何が怖いの?」


 積まれていくビスケット。

 どうやら私にやけ食いでもさせるつもりらしい。


「私はじめは、夫のこと、どこかで怖いなって思ってたわ。戦ってくれることに感謝はしていたけど、怪我人を看てれば戦いそのものがない方がいいって思ってたし」

「うん」

「今は彼なりの信念で軍人をやってる、簡単に潰れないって知ってるから、それは怖くない」

「……知ってるから」


 私はルーファスが自分に抱く気持ちを知らない。

 何となく感じても、知らないことにしている。

 知らないことを選んだ。

 それは聞くことが怖くて――好きでも何でもないとはっきりするのが怖いから。

 でも、もし知っていたら、アンジェリカ先生のことでこんなに不安にならなかっただろう。


「知れば怖くなくなる?」

「ある程度は。でも、彼が命のやりとりをする場所にいるのは、死ぬのは怖い。今は何があっても夫が健康で生きていてくれることが、一番の望みになっちゃった」


 自分勝手よねと苦笑したエリカは、それでもどこか嬉しそうに見える。


 それで気付く。

 そう、エリカの言うように私が真っ先にひとりの社会人として考えるべきは――売れっ子作家……ううん、一人の女性が殺されようとしているのならその命を守るのが先なのに。

 ルーファスのことばかり考えている自分に。


「私が怖いことは、望みは……」


 脳裏に鮮やかに蘇るのは、書棚の列と机――大学の図書館。

 彼が、そこに戻れなくなることが、一番怖い。

 私が見たいのは、夕日の差す図書館の窓から離れた席で、資料を並べ、広げてページをめくる彼の穏やかな顔だから。

 私がたどり着けない理想、きらきらしたものを持っている、本を傷つけないようにといつも整えられている指先が、血に染まって欲しくない。


 だったら。

 私は、パメラのように恋愛がうまくいかなくても、物語の名探偵のように鮮やかな解決はできなくても。

 言葉に踏み留まらせる力がなくても。

 無理やりにでも防げる可能性が、あるなら。


 エリカは私が考え事をしている間に、テーブルの缶から手つかずのビスケットや他の菓子を軽く紙で包んでいた。


「ね、これ美味しかったでしょう? ぜひ婚約者に食べさせてあげて。賞味期限は今日まで」

「今日まで?」

「そう、絶対今日中に渡すこと」

「……ありがとう」


 私は包みを受け取ると、急いで立ち上がった。突然足に血が通ってふらつく体を、エリカが支えてくれる。


「何に悩んでるのか知らないけど、言いたいことは言っちゃったほうが健康にいいわよ。私、いつもこれが最期かもって思いながら夫と別れてるの」

「……最期」

「あなたにもよ、パトリシア」

「あり……ありがとう、ごめんなさい、この借りはかならず返すから……」

「じゃあアンジェリカ先生の新刊に、サインちょうだい」


 私は玄関で明るく笑ってくれるエリカに苦笑を返すと、駆けだした。

 人波を縫って大通りで勢いよく手を振り辻馬車を掴まえると、私は銀貨を数枚、御者の手のひらに押し付ける。


「シティのオーウェル出版社、急いでください」



***



「どうしたんですか、パトリシアさん!?」


 帰社したシャノンさんの声に振り向けば、目を丸くしている彼女の姿があった。

 私はその時、他の社員の視線を浴びながら、机の引き出しを下から階段状に引き出して漁っているところだった。

 机の上には封筒から引っ張り出した、ふたつの原稿がある。

 ひとつはタイプライターで打たれた、当社の雑誌用のアンジェリカの死亡のお知らせ。

 もうひとつは新聞社へ出す依頼――アンジェリカの死亡広告。

 どちらも死亡の日付は、明日になっている。


「アンジェリカ先生の草稿、と、住所ください!」


 咎められても当然だったが、彼女が呆然としているうちに勢いで押すことにした。


「ルーファスの未来がかかってるかもしれないんです、あと、今日どこで何を買ってきたかも教えてください」

「ああ、ええ。パトリシアさんにお会いした後、急遽ロウさんに百貨店の買い物の付き添いを頼まれまして……私はアドバイスくらいで、実際はロウさんが選ばれて」


 何故か歯切れが悪い。何か気を遣っているそぶりに、強い調子で促す。


「何でも言ってください」

「手芸店のレースですよ。仕事の資料と言ってましたけど、あれは本当はパトリシアさんへのプレゼントでは」

「心配させて済みません。今はアンジェリカ先生へのプレゼントだって構いません」


 私の言葉に再度シャノンさんは戸惑いつつも、金庫から住所を出してくれた。

 それを手帳に書き写して間違いがないか二度確認すると、原稿と一緒に、革鞄に突っ込む。


「草稿の方は先生にお返ししたはずです」

「ありがとうございます。では私、これからすぐ退勤するので、机の整理と、これ、父によろしくお願いします。受け取らなかったら押し付けてきてください!」

「え!? パトリシアさん!?」


 私は馬車の中で書いた手紙を机に投げるようにして、声を背中に聞きながら部屋を飛び出る。

 待たせていた辻馬車が向かうのはもちろん、アンジェリカ・エアハートの仕事場だ。



***



 品が良いけれどさほど高級でもないアパートメントの一室。古く分厚い木製扉は黒に近いネイビーで、203という金属の部屋番号が張り付いていた。

 私はひとつ息を呑み、どうすべきか考えてから、そっとノッカーを叩いた。


 反応はない。

 思い切ってドアノブを掴むと、抵抗なくゆっくりと開いた。 

 ルーファスの声が微かに聞こえてくる。


「……これがアンジェリカの最後の原稿になるんだ」


 言い含めるような声だった。

 そうっと一歩足を踏み入れ、音を立てないように扉を閉める。

 玄関には立てかけられたルーファスのステッキのほか、泥を落とすマット以外、何もない。同様に生活感のない廊下が奥の部屋に続いていた。


 鍵をかけるのを忘れるほど、集中する何かがあったのか。

 固く握りしめたこぶしに、爪が手のひらを苛んだ。


「あの時、断って、書かなければ嫉妬なんかする必要もなかったのに。……僕には男爵家を敵に回す勇気がなかったから」


 もう一歩進む。

 右手には無人のキッチン、左手はバスルーム。

 そして正面、開いたままの扉の向こうに立ち尽くす、見慣れたフロックコートの背中があって――そう目が認識した時、私は廊下の床を蹴っていた。


「……駄目! 殺さないで!」


 背中から腰に飛びついた。揺れる背中。

 私は、凶器を持っているかもしれない腕を抱きしめる。

 そのまま手のひらを探していると、振り向いた彼は栗色の目を驚愕に見開いていた。


「パトリシア、何でここに!?」

「そんなことよりナイフは、縄は!? 砂袋ブラックジャックは? 危ないもの持ってたら全部出して!」

「そんなもの持っていないよ。それより、僕が殺人犯ならこんなところに一人で来たら危ないじゃないか……」


 私は構わず、革手袋の両手を開いて、ポケットにも手を突っ込んだ。ハンカチと財布以外特別入っていないことを確かめると、周囲を見回す。


 けれど血だまりはおろか、想像したような倒れたアンジェリカ先生やあからさまな凶器、あるいは吊るされた縄。そんなものは何もない。

 暖炉のほか、家具らしい家具は机と椅子、本の入った小さな棚しかない殺風景な部屋だった。


「火かき棒」

「使っていないし、予定もない」


 どこかくすんだ色合いの中、机上のランプの側に置かれた、ぴかぴかの黒いタイプライターと、プレゼント用の青い箱だけに色彩がある。

 そして贈られただろう部屋の主はどこにもいない。


「アンジェリカ先生は――」

「アンジェリカ・エアハートならいないよ」


 私に両手を握られたまま、ルーファスは困惑を浮かべたまま首を傾げる。優しげな両目に慌てた様子はもうなくて、殺人を計画していたにしては落ち着いている。


「まだ帰ってきてないの? それとも、もう死んで……!」

「……パット、落ち着いて。アンジェリカならまだ死んでない」


 私が再びルーファスに詰め寄れば彼は先生を親しげに呼び捨てにして、それから肩を落として息を吐く。

 それからなだめるように、私の両肩に触れたので思わず温かさに視界がにじんだ。


「……良かった、間に合って良かったけど、」

「……ごめん……僕が怖い?」


 私は首を横に思いっきり振った。

 殺人を犯すかもしれない手なのに、私はそれを怖く感じない――ルーファスの指摘通り、恐いのは彼自身ではなかった。


 手の甲で涙を拭えば、彼に手で椅子を示されて、促されるまま椅子に腰掛ける。さっきよりはっきりした視界に、机の上に置きっぱなしになっていた数枚の紙が差し出された。


「読んでくれる? これはアンジェリカの第一巻の草稿だよ」


 かつてシャノンさんが発見したというそれは、原稿ではなく便箋に走り書きのように書かれている、手紙に見えた。

 そして私は、この筆跡を知っている。


「これ、ルーファスの字……よね」


 学生時代のルーファスは思い付いたアイデアをいつでも思うままに書きつけていく癖があった。その時の字は自分だけに解ればいいとかなり崩していたので、よく知らない人から見れば、彼のものだと判らないだろう。

 私だって側を通り過ぎる時に盗み見していたようなようなものだ。


 便箋には、走り書きに相応しい情熱的な美辞麗句が書かれていた。小説の中で、パメラを称賛するヒーローと同じ言葉が。


「うん、そうだよ」

「……ラブレター?」


 自分で口にした単語にじわりと胸の中に痛みが広がれば、


「すぐ渡せなかったんだけどね」


 何故か困ったような吐息が漏れて、胸がさらに締め付けられる。


「あの小説はアンジェリカ先生が、ルーファスの手紙をもとに書いたの? やっぱり、以前から知り合いだったの?」


 そう言って見上げた私の眉間にはきっと皺が寄っていただろう。


「ルーファスは、アンジェリカ先生が好きなの? それともアンジェリカ先生がルーファスのこと好きなの? どっちも?」

「なんでそんなこと……」

「だって、アンジェリカ先生へのラブレターなんでしょう?

 それに……父が私と結婚するなら、情報を渡すか専属契約をして欲しいって言ったのを断ってる。

 守りたいんじゃないの? あんなに疲れているのにシャノンさんと百貨店にまで行って資料を買ってあげるとか、プレゼントなの? それとも私との結婚との板挟みとか、だってさっきも男爵家を敵に回す勇気、って言ってて――」

「聞かれてたんだね。……パット、全部違うよ」


 私は思いついたことを否定されて、やっぱり彼を理解できてないかったんだと、視線をまた机に落とした。


「……ルーファス、私ね、あなたを解放してあげようと思うの。仕事も先生のことも、こんなに悩んでるのに何の力にもなれなかった」


 悔しさに、机に置いた私の手がそんな自覚もないのに小さく震えていた。


「婚約なんかやめたっていいから、誰かを殺したり、自分の未来を殺したりしようなんて思いつめないで」

「殺すって、さっきからどうしてそんな物騒なこと」


 ルーファスは一度言葉を切ると、はっとしたように。


「……もしかして、僕の落書きを見た?」

「この前食事した時に服から手紙が落ちたから、仕事を分け合えないかと思って見たの」


 息を呑む気配がして、私はこくりと頷く。


「ルーファスが本来進むべきだった道に、戻れるうちに終わりにしたい。婚約解消したら、父が学者になるための資金援助を――」

「……違う、誤解だよ。その……どこから話せばいいのかな。まず、殺そうと思っても物理的に殺せないんだ」


 隣でルーファスが動く、と思ったら、私の手に一回り大きな彼の手が重なった。視線を誘導されるように持ち上げられて、私の視線は栗色の瞳とかち合った。


「だってアンジェリカ・エアハートなんて人間は存在しない。あれは……僕の筆名ペンネームなんだから」





 私が呆然としている間に、ルーファスは机の上に、薄ピンク色のアンジェリカのロマンス小説5冊の背表紙を並べ、書きかけの原稿と、綺麗な貼り箱を開いた。

 書きかけの原稿の中には箱の中身そっくりの、レースやリボンが登場している。


「描写に悩んで参考資料を買って来たんだ。証明にならないかもしれないけど……この先の展開を言っていい?」

「……」

「あの後旅を計画するパメラはハンカチにレースを縫い付けるんだ。リボンはヒーローへの贈り物を飾るため。それから駅で落ち合った二人の前に、一巻で追い払ったはずの――」

「……! ごめん、ちょっと待って、それ以上はやめて」

「ネタバレは嫌かな」

「……ネタバレはなしで」


 ルーファスがアンジェリカ先生だった。

 思ってもいなかった告白は疑っても良かったけれど、彼の声音はよくものごとを把握している時のもので、嘘をついている態度ではなかった。

 信じ、ネタバレ回避のために大人しくならざるを得なかった私が口をつぐむと、代わりに彼がはためらいがちに口を開く。


「発端は、跡継ぎとして期待されるような仕事ができなくて、行き詰まっていたことだったんだ」


 ルーファスは婚約前後から、真面目に出版社の仕事に取り組むつもりだったらしい。

 けれども、本の編集はともかく、向いていない経営の勉強にずっと四苦八苦していて、不足を時間で補うことにした。


「もともと少ない君と会う時間も減っていったから、ある日、思い余って手紙を書いた。

 会社で深夜、勢いで書いたから……翌朝正気に戻ってから恥ずかしくなって机にしまい込んで、そのまま忘れてしまっていたんだけど」

「シャノンさんが見つけて、勧められて小説を書いたのね?」

「……うん。そうしたらヒットして、売り上げが立った。社長に、認められた。

 だから次を書かなくちゃいけなくなった」


 ルーファスの声が、喉の奥に詰まったようになる。


「最初は忙しかったけど楽しかったんだ、君への気持ちを綴って、間接的にでも言葉が届くなら。

 でも……書いている間、僕が君に会えないのに、登場人物たちは自由にパメラに会えて、したいことができるんだ。

 君が登場人物を褒めるのを聞いて、嫉妬した。僕自身は君に何も言えていないことに変わりがないからね」


 私の頬がかっと熱くなる。小説の中で語られた恥ずかしい台詞の数々を思い出して。

 頭の上でルーファスの微笑が漏れる。


「パメラのモデルは君だよ」

「……私、あんな素敵な人じゃない。瞳だって平凡な茶色で」

「パットの目も光が入ると、ほんの少し青みがかるんだよ。屋外で鏡を見る機会はないから分からないよね。きっと僕以外の男は知らない。

 その、『他の人には見せないで』欲しい……」


 私はふと、庭に彼が寝転んで、膝枕をしている時のことを、とろけるような眼差しを思い出す。


「一度苦しいと思い始めたら、睡眠や君との時間を削ってまで書き続けるのは無理だと分かった。

 それなのに新刊も、売り上げも、専属契約も求められて、連絡先も聞かれて……もうアンジェリカを殺すしかないと思った」


 ――それで彼は、あんな風に紙に思いを吐露したのだ。


 私はまたおずおずと、告白を続けるルーファスに口を挟む。


「……あのね、たぶんすごく勘違いなんだと思うんだけど、さっきから聞いているとまるでルーファスが、私のこと……」

「好き、だった。ずっと。学生の頃から」


 優しい顔の目尻が下がって、瞼が赤らんでいる。


「君は昔からずっと、夢と現実の折り合いを付けて叶えようとしてきたよね。何もない場所にだって白黒の紙で、たくさんの人に夢や希望っていう色を付けていく。そんな君自身も色鮮やかに見えた。

 昔の、ただ歴史なんて商売の役に立たないことに耽溺して、実家もここでも役に立たない僕に親切にして、褒めて、生かそうとしてくれたのも君だけだ」


 それから、声に少し懇願するような響きが混じった。


「話すのが苦手で、心配ばかりさせて……こんな情けない男でも、『あなたを想い続ける許可をいただけませんか』」

「……っ、それは、小説の……」

「台詞は全部覚えてるよ。忘れるわけない、ずっと言えなかったことだけ書いたんだから」


 彼の目も声も、もうぼんやりもしていなくて、取り繕うような調子はなくて。小さく布を裂くような音を混ぜながら、少しずつ、昔の温度を取り戻していく。


「政略結婚なのに親切にしてくれる君に、そんなことを言ってしまったら、気持ち悪いって思われるって……怖かったんだ」




 私とルーファスはそれからぽつぽつと互いのことを話し始めた。

 結局いつしか学生時代の発表のように事実の突き合わせと質疑応答になってしまって、私の激しい勘違いが明らかになった。

 ルーファスは単に、私が好きで婚約をして、結婚したくて限界まで努力しただけだったのだ。


 私は手を頬の両側に当てると、息を吸い込み、思い切り叩いた。

 ……痛い。


「何をしているの、赤くなってるよ」

「ルーの言った通り、信じられなかった私に対する罰……にしてはささやかすぎるけど。

 私を許してとは言わないけど、提案は聞いて欲しいの――お願いします」


 私はルーファスに向けて深く頭を下げてから、おっとり頷く彼にありがとうと言った。

 それから出掛ける直前に立てた計画を話し始める。


「……ルー、私ね、さっきここに来る前に、休暇を申請してきたの」

「そうだね、心配をかけ過ぎた僕に言えた義理じゃないけど、たまにはゆっくり休む方がいいよ」

「あのっ、私だけじゃなくて、ルーの休暇も」


 私は椅子から降りると、彼を見上げる。ぱちぱちと目を瞬く彼の無邪気な顔に口角を頑張って持ち上げる。


「明日から宿を借りて、二週間、ルーは休むの。

 朝は二度寝して、本を読んで、だらだらごろごろして。食事なら私が届けに来てもいい」


 そう、別に婚約というのは私との婚約という意味だけしか、本来はないのだから。むしろ都合がいいのかもしれない。


「それで休みが明けたらアンジェリカの死亡広告を出して。それから会社を辞めてもいい。

 そこまでやって、それでもルーファスが……私を許してくれたら、気が向いたらでいい、ゆっくりでもいいから……結婚式の準備をしましょう」


 私の声はきっとかすれていた。

 けれどもう、何も届かないとは思わなかったし、反対されてもいいと思った。

 彼が何を思うのか、それを知りたい。


「父が反対するなら私を人質に取ってやればいいわ。

 アンジェリカの金庫を譲られたことにして、これからいくらでも遺稿を見付ければいい。そうすれば書きたくなった時に好きな時に書ける。いい考えでしょう?」

「……あの、ちょっと待ってよ。それじゃあまるでその、パットも……僕が、好きなように、聞こえるんだけど……」


 揺れる声に私はほんの少し喜んだような音を聞いたような気がして。

 私は今度は殺人を止めるためじゃなく、私自身を受け止めてもらうために正面から抱き着いた。



***



 その後、ルーファスは二週間の休暇を、約束通りほとんどホテルの部屋で、ごろごろだらだらして過ごしたらしい。

 らしいというのは、私は時折遊びに行ったり、本を届けたり、レストランで食事をしたくらいだから。


 この間、唯一こちらからお願いしたこといえば、アンジェリカが次に出す予定の最終巻の台詞は、現実とは違うものにして欲しい、ということだけ。

 「じゃあぜんぶ書き直しだね」と苦笑させてしまったけれど、切羽詰まっていた彼の言葉は、私だけのものにしておきたい。

 ただ、彼が復職しても、以前と違って「実は書き上がっていた原稿が見付かった」なら締め切りには余裕がある。

 アンジェリカ・エアハートには休みが明けに死亡広告が出たから。


 ……とはいえアンジェリカの原稿だって、これで最後とは限らない。あの有名な小説の名探偵だって死んだ後に読者の要望で復活した。ましてルーファスに託された金庫から出てきたと言えば、過去編もスピンオフも書けるのだから、大丈夫だ。

 彼がもし無職になったって、しばらくは勉強に専念できるだけの収入は得られる。



 そして私たちは四度の延期を経て今度こそ本当に結婚して、新婚旅行に旅立った。

 近場の百貨店から遠くの港町、クルージングまで。観光地だけでもないあちこちを巡る変な旅程は、アンジェリカの小説の一巻に登場した場所だから。

 休みなく働いていたルーファスが私とずっとしたかったことだと言うので、文句はない。それどころか作家先生本人の解説付きだから、ファンとしては破格の待遇。

 ちなみに、最初の行き先は大学の教室だ。


「『あなたに出会ってはじめて、僕の世界に色が付いた気がしたのです』」


 でも、彼が穏やかに語るもうひとつの解説――何を思って書いたかという少々気恥ずかしい話は、短い旅行では語り終えられなかったので、またすぐ、いつかの休暇の計画を立てなければならなかった。


 だって、まだ彼が書いた小説は、数冊分も残っているのだから。

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