昭和生まれの方は、学校にて体育教師から「根性が足らん!」と怒られたことがあるであろう。
まるで生まれつき運動神経が悪いのは、すべて本人の努力不足であるかのように。
それが平成中期になると変わる。
運動神経は生まれ持っての部分が大きいと、指導者層にも認識され始めたからだ。
また、少しの欠点など【生まれ持った個性】ということにされ、褒めたたえられる。
だが、この時代に変わっても、【学力】だけは努力の賜物とされてきたように思う。
そして、日本人の多くが長い平成不況を味わうと、人生における結果は運の要素もかなりあると認識されたと思う。
そして令和になると、金持ちの子供はよい教育を受け、富の所有が世代を超えて継続されることも指摘された。
だが、今になっても【生まれ持った才能】の存在は世間はあまり認めたがらない。
相続税のかからない優秀な遺伝子の相続は、人類にとって最も価値ある財産なはずなのにだ。
なぜならば、世論の操作はいつの時代も成功したものが行う。
もしその成功が、努力によるものでなく、遺伝子によるものであったとしたら。
成功したのはただの【親ガチャ】の結果であるとされ、世間からの評価はガタ落ちになるからだ。
まぁ、個々の努力は極めて大切であり、才能だけで成果が出るわけではない。
だが、最近の調査によるまでもなく、生まれついた知能指数は人生における所得に著しく関係する。
皆、自分と大谷翔平の【才能】の差は認めるが、庶民同士の【才能】の差は認めたがらない。
だが、当たり前のように、庶民同士も知能指数などの【才能】の差がないわけがないのだ。
「なぜ貧しい人の部屋は汚いか?」
これに疑問を持った人がいたのだが、結論から言えば、脳の能力格差によって収入だけでなく【整理能力】にも優劣が生じるらしいのだ。
つまり、小さな所作や外見や服装など、すべてにおける分野で生まれ持った【才能】は発揮される。
もちろん、それは良くも悪くもだ。
「悪い個性などない!」
そういう人も多くいる。
だが、例えば、あなたは目が見えなくなる病気を持って生まれたいであろうか?
ほとんどの人は【NO】というに違いない。
……そう、生まれ持っての【個性】や【才能】には優劣があり、きれいごとで済まない部分が極めて多いのだ。
そして、文明人を自称するならば、それは真摯に直視せねばならない問題なのだ。
その認識を為せてこそ、本当に平等な社会への一歩であるといえる。
だが、それには皆が嫌がり認めたがらない難解な調整をしていかねばならない。
「各自の個性を尊重する」
それは、ただ「すべての個性は素晴らしい」というのではなく、税負担から社会的地位の調整まで、各自が幅広い分野の負担を覚悟しての発言であるべきなのだ。
今日も「平和と平等、自由」を当たり前のように掲げる現代人。
我々は、ロシアから多大な様々な資源を輸入しながら、何を宣うのであろうか?