それは、私への感謝を込めた言葉だったのかもしれません。でも、そのとき私は、自分が侮辱されたような、自分がどこにでもいる知り合いの少女にすぎないことを突き付けられたような心地がして、目の前が真っ暗になりました。まるで地に叩きつけられたかのように、私は全身がわななきました。
そこへ奥様が召使に伴われて、駆け付けていらっしゃいました。
『まあ、カテリーナさん、よくいらっしゃいましたわ。私、もうすぐ御用が済みますから、そうしたらすぐに参りますわ。すみませんが待っていてくださいね』
私にそういった後、夫のニコライ様の方を向いて、にっこりと目で挨拶されました。その瞬間、私はこのご夫婦が愛し合っていること、それは紛れもない事実だということをすっかり見抜いてしまったのでございます。
私は、奥様のお話に……私の期待しているニコライ様の話題があまり出ないことに気づいていて、実はこの方たちは不仲なのではないか、そんなことまで期待していたのでした。
けれど、それは誤りだったのです。そこには、私のような他人が入り込む隙もないほどの、深い情愛と強いきずながあったからということなのです。
あの一瞬の二人の表情に、私はそれをいやというほど見てとることが出来ました。私はもはや、立っていることさえ危ういほどに身体から力が抜けてしまっていました。
すっかり打ちのめされた私は、一人自室に閉じこもり、考えました。ニコライ様が、私を愛してくださるにはどうすればいいのか。私はもうこの時すでに理性を失っていました。以前はあった倫理観さえ、もうどうでもよくなっていたのです。
あの方には、奥様があり、お子があり、家庭を持っていらっしゃる。けれど、それは私の恋の妨げでしかない。自分の恋を、この突き上げる思いを抑えるなどとは、私には到底できないことなのでした。
ニコライ様に愛してほしい。ただひたすらにその思いにとらわれていたのです。
私はお手紙を書こうと思いつきました。これはとても良い案に思えました。今は顔を合わせる時間さえ限られている中で、私は私を、私こそがニコライ様にふさわしい妻となりうることを、ニコライ様に知ってほしかったのです。いえ、そこまで大胆でなくとも、私のこの思いを伝えずにいることが耐えがたく辛いこととなっているのでした。
私は机の上の紙とペンをとりました。
「そのお手紙は出されたのですか」
セルゲイはやや先走って尋ねた。この不思議な話の顛末を、早く知りたい気分になっていた。不思議な話。セルゲイにとってはそうだったのだ。
「ええ、私の気持ちを、そのありったけをしたためるのは、それはそれは大変なことでした。私は何枚も紙を無駄にしましたわ。それでも、一晩寝ずに、とうとう手紙を書き上げたのです。そしてそれを、下女に託したのです」
「それから、あなたはどうされたのですか」
「私は待ちました。これまでのように、あなたのお家にうかがい、奥様の話し相手になり、あなたと遊び戯れながら……胸は灼けるようでしたが、必死に押し隠して。そして自室にいるときは、今は癒えてしまった自分の手の傷跡へ、何度も何度もそっと口づけをしました。まるでそれが、何かのおまじないにでもなるかのように」
「できれば、そのお手紙を拝見したいくらいですね」
「でも、手紙はもうないんですの」
カテリーナは答えた。
「私は、ニコライ様とは親しくお話をしたこともありません。それでも、この方以外に私の伴侶はいないと固く信じていました。今でもそうです。あの方を殺してしまった今、私は他の誰とも縁を結ぶ気はありません。ずっとずっと、この想いを胸に抱いて、生きてきたのです。それだけで私は幸せでした」
「殺してしまったというのは、どうやって?」
「それは……」
カテリーナは言いよどんだ。遠い目をして、やがて苦し気に美しい顔を歪ませた。
「刺し殺したんですわ」
「え、何ですって?」
「私は、あの方の胸を突いて、殺してしまったのですわ。あの方がお帰りになり、馬車を降りられたときに」
セルゲイは息をつめた。その情景は、あまりに突飛なものに思われた。
「なぜ私がそうしたのか、お知りになりたいでしょう」
カテリーナは意を決したようにセルゲイを見た。
「ぜひ」
「では、お話しますわ。息子のあなた様には、聞く権利がおありなのですから」
そしてまたカテリーナは、紅茶を口に含むと、セルゲイの方にまっすぐに向き直って、語りを再開した。
「あの方からのお返事は一切ありませんでした。私は胸が張り裂けそうな心地で毎日を過ごしていたのです。
ある日、私は母に呼び出されました。母の文机の上の白い紙を見て、そして私は『ああ!』と叫び声をあげていました。それは、まさしくあの方へ差し上げた私の手紙だったのです。怒りと驚きと絶望が一時に去来しました。母は溜息をついて、一言『もう二度と、このような真似はしないように』と言い渡しました。そして、目の前でびりびりと破り捨て、暖炉の火にくべてしまったのです。そして、呆れたように、このころの母の口癖であった『お父様が生きていらしたら』という言葉をつぶやき、それきり黙ってしまったのです。父を亡くして弱っていた母は、私を叱りつける気力さえ萎えてしまっていたようでした。
私は部屋を飛び出しました。
そして、こうなってはもう、死しか自分には残されていないと感じたのです。でも、私は、今後もあの方が生きて、奥様と我が子と幸せに生きていくのだということが、どうしても耐えられませんでした。
私は、暗がりの中、あの方を待ちました。そして、馬車から降りたあの方に向かって真っすぐに歩き、黙って、ナイフを突き立てたのです。あの方は、驚いたようなお顔をなされましたが、優しい笑みを浮かべられて、そして、私の額にそっと口づけをしてくださいました。
私は、その口づけではっとなり、あの方を助け起こそうとしましたが、もうあの方は息絶えてしまっていたのです。
そのあと、私は自分も死ぬつもりだったのです。そのつもりで家に戻りました。けれど、そこに下女が現れました。彼女は紙のように真っ白で、怯えたような表情を浮かべています。
『お嬢さま、お許しくださいまし。私は、どうしてもあの手紙をお隣のあの方にお渡しすることが出来ませんでした。お嬢さまの名誉のために。思い余って、私はそれを奥様にお渡ししたのです』
私はその場に崩れ落ちました。母に手紙を渡したのは、あの方ではなかった。この侍女がしたことで、ニコライ様は一切をご存じなかったのです。それなのに、私は、何ということをしてしまったのでしょう。
私はそのまま、気を失ってしまいました。そして長い長い間、病に伏せることになったのでした。そのまま私は別荘地を離れ、自宅の屋敷に連れ戻されました。あとのことは、未だによく知らないのでございます。
それでも、私は、恐ろしい罪の意識よりも、だんだん、あの方を自分のものにできた喜びの方を強く覚えるようになっていったのでした。
あの方のことを思うだけで今も幸せで胸がいっぱいになります。
この幸せのために、私は生きることにしたのでした」
セルゲイは、この辺でカテリーナの家を辞した。カテリーナは瞳にうっすらと涙を浮かべていた。最後に、彼女は言った。
「セルゲイ様は、お父様によく似ていらっしゃいます」
自宅に帰りつき、セルゲイは書斎に入った。しばらくすると、ドアをノックする音がした。
「入っていいか」
父の声だった。
現れた父の顔を、セルゲイは不思議なものでも見るような心地で眺めた。そして尋ねた。
「父上、今日、興味深いお話を聞いたのですよ」
「はは、何だね。退屈な役所仕事でも、たまには面白いこともあるかい」
「いえ、仕事の話ではないのですが」
「ご婦人かな」
父はいたずらっぽく笑った。セルゲイも微笑して、
「そうです、でもあなたの知らないご婦人ですよ」
と返事した。
もはや明らかだった。あの婦人、カテリーナは、父ニコライを強く愛するあまり、観念において父を殺し、永遠に自分のものとしてしまったのだ。セルゲイはそのことを確信した。
そして、彼は、その父に妬ましい思いを抱いている。
もし、そのときそこに、今の自分がいたならば、この自分が父を殺してしまったかもしれない。セルゲイはそんな妄想にとらわれた。カテリーナの面影が、自分のうちに宿ってしまったことを自覚しながら。
セルゲイの手には、白いつる薔薇の小枝が握られていた。その手に力がこもったのか、一筋の赤い血が流れていた。
fin.