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カテリーナの告白
カテリーナの告白
仁矢田美弥
文芸・その他純文学
2025年01月30日
公開日
7,936字
完結済
19世紀ロシア。
老貴婦人、カテリーナ宅を訪れたセルゲイは驚くべき告白を聞かされる。

第1話

 「貴方のお父様を殺したのは私です」

 カテリーナの告白に、セルゲイはカップに伸ばしかけた手をとめた。そしてまじまじと彼女を見た。彼女は微笑さえ浮かべていたが、その目は真剣だった。

 23歳の青年セルゲイが、パーティーで初めてこの婦人と言葉を交わしたのは、つい3日前のことである。そこでカテリーナは、並々ならぬ好奇心をこの若者に抱いたらしく、話し終えてもなお、彼を自宅へ招きたいと申し出たのであった。そのときはあまり乗り気ではなかったセルゲイだったが、今日、所用で近くまで来て、ふとカテリーナの家がこの街路から離れていないことに思い当たり、ちょっとした気まぐれから急遽訪れたのであった。

 突然の訪問をカテリーナはことのほか喜んでいるようであった。

 この婦人は、パーティーに顔を出すこともまれになっていたのだが、それでも噂は流れ、セルゲイでさえ、彼女が30代も半ばを過ぎた今まで独身を貫き通し、両親の亡き後も自宅にひっそりと暮らしているという一風変わった女性であることを知っていた。ただ家柄は古く、その血は決して卑しくはない。

 家に入ると、調えられ小ざっぱりとした部屋は、飾らない上品さがあった。セルゲイにはそれは好ましいものに思えた。実際家の彼の家とはまた違った趣に、興を惹かれもした。

 下女のアーニャがサモワールに湯を沸かすと、カテリーナはすぐに下がるよう命じた。アーニャは礼儀正しく退いた。

 そうして二人きりになったところで出てきたのが、あの言葉だったのである。

 「それは、どういうことです?」

 セルゲイは微笑を返しつつも、内心とまどいながら問いかけた。

 「私が、殺したのです。あなたのお父様を」

 同じことを、婦人はもう一度、順番を変えて言った。セルゲイは黙っていた。その沈黙の中に拒絶も怒りの感情も混じっていないことを確かめると、カテリーナは語り始めた。

 「もう20年前になります。私は17歳の小さな貴婦人でした。私は、深くあなたのお父様を愛してしまったのです。のぼせ上った小娘の気の迷いとは思わないでください。私は本気だったのです。全身全霊をかけて」

 セルゲイは父のニコライのことを考えた。20年前なら、セルゲイは3歳のころである。当然父は母と結婚をし、家庭を営んでいた。父にそんな浮名があったのか。この婦人が17歳の頃、父は30に近い年齢であった。

 カテリーナの話はどこまでが本当なのか、セルゲイは見当がつかなかった。


 「夏の別荘地へ行ったときのことでした。わたくしの別荘と、お父様の別荘がちょうど隣り合っていたのです。私は避暑を楽しみにしていました。だって、日ごろの退屈な街の生活から離れて、新しいお友達と、自由に遊べるんですもの。

 あの夏、私は別荘につくと、新しいお友達を探そうと思っていたの。それで、隣のお庭を覗いたのだったわ。お庭には素敵な木々が感じよく植えられていて、その合間から私は盗み見をしたの。すると、紫色のドレスを着た貴婦人が、坊やを連れて出ていらっしゃいました。そう、その坊やはあなたです」

 セルゲイは苦笑した。

 「そう、あなたはとてもきれいなお子さんだったのよ。そしてあなたのお母様も。ああ、のちに私がしたことを考えると、本当に申し訳ない。お母様はお元気でらっしゃるのでしょう?」

 「ええ、おかげさまで」

 カテリーナは構わず続けた。

 「そのうちに、陽が傾いて、空の金色が地平線に消えていくころ、あなたのお父様が現れたのです。ちょうどお仕事のお休みをとって、妻と子供に会いに、週末に駆け付けたようなあんばいでした。あの方の豊かな金髪が、残照に映えて、とても美しかった。私はその光景にいつしか目が釘付けになっていたのです。やがてあなたのお母様は、あなたを促して、屋内に入っていかれました。そして、あの方は、お庭の点検をするような様子で歩きはじめました。

 私は今さらそこを動くこともできず、彼が歩くのを眺めていました。彼は草木に邪魔されて、ここに私がいることにまだ気づいてはいらっしゃらないようでした。私は動くに動けないまま、だんだん近づいてくるあの方のお顔を正面から見ました。そして、恋に落ちたのです」

 「まさか。それだけのことで?」

 「そうです。恋とはそういうものではないでしょうか? けれど、いくら私が何も知らぬ少女であったとしても、この方が、すでにご家庭をお持ちになり、それは絶対にゆるがせにさせてはいけないものだということは理解しておりました。でも、こうも思ったのです。これは公平ではない、と。もしも私とあの奥さまが対等に比べられたなら、選ばれるのが私であってもおかしくはなかったはずだと。

 そう思うと、なにか悔しくて悔しくて、涙があふれてきてしまいました。私はわざと、敷地の間にある白いつる薔薇の枝をとろうと腕を伸ばし、その鋭い爪で、手に掻き傷をつくってしまいました。血が、赤い血が一筋流れました。私が呆然としていると、あの方は、ようやく私に気づき、白を赤く染めた色彩に眉を顰めました。

 『これは、きれいな小さい手が台無しだ、応急処置をしよう。あなたはこの家のお嬢さんですか』

 『はい』

 『痛みますか』

 『少し』

 彼は胸元から白い絹のハンカチを取り出すと、それでそっと押さえてくださいました。まるで父のように。言い忘れましたが、私の父は数カ月前に、他界していたのです」

 セルゲイはようやくお茶に口をつけた。頭の中では必死に記憶の中の若い父の姿を思い浮かべようとしながら。

 カテリーナは続けた。何かにとりつかれたように。

 「その日から、私の身を焦がすような煩悶の日々が始まりました。それまでは、お友達を求める子供らしさを残していた私が、突如、恋に悶える女になったのです。私はニコライ様に憧れながら、こんなにも恋した人を間近にしながら、それを申し上げる手立てさえない地獄へと堕ちたのです。

 私は、セルゲイ様、あなたを気に入ったふりをしました。まるで新しいお人形を手に入れた少女のように振舞って……ああ、機嫌を損ねないでくださいね。事実、あなたはそれはかわいらしい子で、私はあなたのことも大好きでした。

 でも、それは、ニコライ様に少しでもお近づきになりたいがためのお芝居でもあったのです。

 お家にお邪魔しては、あなたと遊びながら、あなたのお父様が部屋に現れるのを今か今かと待っていたのです。

 あなたのお母様は、私のことを好いていてくれました。あの方は、ニコライ様のお仕事が忙しいためか、どこか退屈したような雰囲気をまとっておられました。私は、彼女のよき話し相手にもなったのです。内心では、なぜ私はこの人に勝てないのか、いえ、勝てないというより、社会の、家庭のありようというだけで、この人の上に行くことが出来ないことに理不尽な怒りと悲しみを抱えながら、それでも私は奥様といろいろな話をいたしました。

 それは、他面では楽しいひとときともなったのです。彼女がニコライ様のことを一言語られるだけで、私はもうドキドキしてしまって、そして、幸福感に満たされるのです。なんとも不可思議な自分の感情でございました。

 奥様は、なんの疑問も抱かずに、あの方の妻でした。そして平然と退屈しておられるのです。私にはそれ自体が信じられないことでした。

 私は勝手な妄想さえ抱きました。もしこの美しい奥様が、何か病を得てお亡くなりになれば、私はこの苦しみから逃れられるのです。それは恐ろしいことでした。頭ではそれを理解しながら、幸福そうに退屈している奥様を見ていると、どうしてもそういう思いが、甘い感傷の気持ちとともに、湧いてきてしまうのです」

 セルゲイは今度は、17歳のカテリーナを想像しようとした。より生命力に溢れて、バラ色の頬をした、そしてその年頃に特有の、研ぎ澄まされた感受性を湛えた何ものかであったに違いない。

 カテリーナは続ける。

 「私はある夜、ニコライ様をも交えての夕食会に招かれました。

 すばらしいお料理でしたが、私は喉がつかえて、食が進みません。もっぱら奥様がお話になり、ニコライ様は無口でした。私をニコライ様に紹介したいというお気持ちだったのでしょう、奥様は私の家柄の良さを褒めます。そして、この私のことも『仲のよいお友達』と紹介しました。それは、今度社交界にデビューする少女に対する礼儀であったかもしれません。ああ、社交界! あれほどに憧れたこの響きも、そのとき私の中では色あせてしまっていました。それよりも、それよりも。社交界の殿方が私に浴びせるであろう賛辞など、今はどうだっていいのです。私は、ニコライ様がこの私に目を向けてくだされば十分なのです。

 たったこれだけの願いさえ、叶わぬ夢なのでしょうか」

 カテリーナは言葉を切った。セルゲイは今ではすっかり彼女の話に聞き入っていた。しかしそれは、かつて我が家で起こった出来事としてではなく、どこか他人の家での、いや夢の中の場面のようにも思われた。

 カテリーナは何かを思い出したのか、急にうっとりと瞳を潤ませた。

 「でも、ある日とうとう、ニコライ様と二人きりになれる時間が訪れました。それはたまたまだったのです。ほんとうに、偶然に、少しの間。私がお訪ねしたとき、奥様は来客中で、私は引き返そうかととまどっていました。私のことは、召使たちもよく承知していて、気をきかせて中へ通してくれました。そしていつもの気持ちのよいお部屋に私をほんの一時残して、奥様に私のことを伝えるため、席を外しました。そこへひょっこりとニコライ様が現れたのです。

 服装などから、出先からふいに戻られたような佇まいでした。

 ニコライ様は私をみると、にっこりと微笑まれました。そのにじみ出る優しさ、輝かしさといったら! 私は身を固くして声も出ないほどでありながら、心はとろけるようであったのです。

 『いらっしゃっていたのですね。またお会いしたいと思っていました。あの時のお怪我はもうだいぶいいですか』

 言うまでもなく、薔薇のとげで傷つけた私の手のことをおっしゃっているのです。もうそのころには、傷跡はきれいに消えていました。私はそれさえ大事な印が消えていくようで、悲しく思っていたのでした。あのとき、ハンカチを汚して応急手当をしてくださったニコライ様の心が再び私をとらえました。

 『ええ、あの時は、本当にありがとうございました。おかげさまでもう、すっかりですわ』

 私は少し威厳を込めた物言いでお礼を申し上げました。ニコライ様の前では、本物の貴婦人でありたかったのです。そして、何か気の利いた、ニコライ様の心をとらえる、一人前の女性としての知性を披露したいと切に願いました。けれど、気は逸りながらも、私の心臓は早鐘のように打って、足は情けないことにがくがくと震えているのです。

 ニコライ様はそんな私の思いを知ってか知らずか、親しみのこもった目を向けています。

 『お会いしたいと思っていた』……先ほどの言葉が、頭の中を駆け巡っていました。それは、どういう意味なのでしょうか。

 しかし、彼はこう続けられました。

 『うちの小さな、セルゲイをかわいがってくれてありがとう』

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