そこに至るまでの細かい記憶は無い。
ただ、早鐘を打ち続けるような鼓動だけを覚えている。
俄かには信じられない急報を受け急ぎ帰還した駐屯地。
医務室のベッドに横たわる二人の姿をその目で見た今でもまだ、アイラは受け入れられないでいた。
何かの間違いではないのかと何度も疑っていたものの、現実は非情だ。
「ルート副団長……。ロザリ中尉……。一体、何が……」
固く目を閉ざしてピクリとも動かない二人を前に、アイラは呆然とした口調でそう溢す。
彼女の隣ではルシルが無表情のままに、意識の無い戦友二人を見下ろしていた。
「お二人とも、危険な状態です……。治癒魔法による処置は可能な限り施しましたが……。もしかしたら、このまま……」
二人の容態を説明するマルファの顔には疲労の色が滲んでおり、それすらも塗り潰される程に暗い表情だった。
「すみません、団長……。留守を守ると言っておきながら、こんなことに……」
そう声を落とすノエミも額に血の滲んだ包帯を巻き、右腕を首から吊り下げてと満身創痍の重傷だ。
憔悴しきった声にはいつものような覇気が無い。
「何が起こったのか……、報告を聞きましょう」
それに対し感情の読み取れない平坦な声でルシルが言う。
けれどそれはどこか張り詰めた糸のようで。
傍らで聞くアイラは瞳を曇らした。
室内に流れる重苦しい空気が、晴れることなく漂い続ける。
「……いつものよくある戦闘だったんです、ドーバーへ現れたネフィリムの撃退までは……。団長達の抜けた縮小編制ではあったっすけど、大きな問題も無く進んでました。紺碧騎士団の増援を待たずとも片付けられるくらい、順調だったんです」
鬱々としたノエミの報告。
彼女の語る光景の方が、眼の前の現実よりも余程しっくりくると、アイラは思う。
無論、ネフィリムを侮っているつもりは無い。
紛れもない怪物である奴等は明確な人類の脅威であり王国を脅かす存在だ。
そこに対して異論も反論も余地は無い。
奢って死ぬより謙虚に生きながらえようという思考を実践するアイラは、意気の軒昂たるやを示すため口や態度でこそ時たま大袈裟に示してみたりはするものの、基本的には油断も隙もあり得ない。
しかしそんな彼女をして、白鳩騎士団の団員へは絶対的な信頼があった。
敗れる姿など想像できない程には、ルートもロザリも輝いていた。
実際、もしもお互いに魔鎧騎を駆って一対一の模擬戦でもしてみれば、二人に勝てるのは十回に一回程度であろう。
それだけに、夢でも見ているような気分だ。
無論、悪夢。
最悪だ。
「洋上でネフィリムを撃墜し、ほんの一息ついたところで、それは現れました。その僅かな隙を、気の緩みを、狙い澄ましていたかのように……」
「……一体、何が現れたというんですか?」
アイラの問いかけに、ノエミは顔を上げその目を見る。
「――魔鎧騎っす、見たこともない型の。それは突然現れ、そして前触れ無く、副長センパイのデュッセルドルフを後ろから貫きました」
その答えにアイラは息を呑む。
自然と眉間に皺が寄る。
見たこともない型の、敵対する魔鎧騎。
それは丁度今晩、ルシルと二人で遭遇したものでもあった。
同時に同じことを思い出していたのか、ルシルの眉もピクリと動いた。
「不覚にも、何が起こったのか理解できなかったっす。直前で魔鎧騎自体は認識できていたものの、それがこちらを襲ってくるなんて思ってませんでした。魔鎧騎なんだから当然援軍だと、思ってたっす。副長センパイも当然そう思ってたはずです」
それは当然のことであろうとアイラは思う。
魔鎧騎とは本来、連合王国陸軍のみが運用する兵器なのだ。
ネフィリムとの戦いを繰り広げるこの場で、よもや他の騎士と刃を交えることになるとは夢にも思えないことだ。
「……けれどそれでも、ロザリんはすぐに反応した。意識の範囲外にあった奇襲のはずなのに、デュッセルドルフが攻撃を受けた次の瞬間には迎撃の体勢に移っていたっす……。けど、敵は即座に私達傍付き隊へ目標を変えて、ロザリんはその間に入って……」
「……ロザリ中尉は誰よりも人の思念に敏感ですからね。そして、優しすぎるお人です」
目を伏せて、潤んだ声でマルファが言う。
「その後、紺碧騎士団が現場へ急行してきたのもあって、敵の魔鎧機はどこへやら消えていったっす。傍付き隊も負傷者多数……。しばらくはまともに動けません」
そしてノエミはルシルへ向き直って、頭を下げた。
「すみません、団長。傍付き隊筆頭の私が、もっとしっかりしていれば……ッ! こんなことにはならなかったはずなんです……!! せめてロザリんの代わりに私が――」
「黙りなさい、ノエミ少尉。それ以上は、あなたを守って倒れた中尉に失礼よ。報告に感情は要らないわ。ただ、事実だけでいい」
それまで不気味なほどに平坦な口調だったルシルが、僅かにではあるが語気を強める。
感情は要らないと切り捨てつつも、彼女でさえもやはり、平静を保っていられているというわけではないようだった。
「でも、それでも……」
「整理しましょう、事実だけを。ルート大尉以下白鳩騎士団縮小編制部隊はネフィリム迎撃後、敵性魔鎧機の襲撃により壊滅。敵は恐らく、黒の黎明。そして今回の一件の責任は全て、予定より帰営時間を遅らせた私のものよ」
そう言い切って、ルシルは静かに目を伏せる。
横たわるルートの傍らに立ち、そっとその額に手の平を乗せる。
「私が予定通りの時間に帰っていれば……。あるいは、ロンドンで黒の黎明を壊滅的なまでに追い込んでいれば、今回の行動は起こせなかったかもしれない。……そのどちらも果たせなかった私が、あなた達をこんな目に遭わせてしまった。私があの時、もっと冷静な判断を下せていれば……」
強い強い自責の念。
手と声を震わせる彼女の姿に、アイラは何も言えなかった。
初めて、これほどまでにはっきりと発露されたルシルの弱い部分は、迂闊に触れると壊れてしまいそうなほどで。
アイラは揺れるその背中を、見守ることしかできなかった。
「……不甲斐ない団長でごめんなさい」
そんなことはないと叫んだところで、恐らく何の意味も無い。
彼女もまた、自分の無力さを噛み締めていた。
煤と煙で汚された空のように重たい空気は、未来を暗澹と包みこんでいくようで。
その空を飛ぶ白鳩を地へと追い落とすかのようだった。
昨日までの日常が脆く崩れ去る。
それは坂道を転げ落ちる石のように、より勢いよく、盛大に。
音を立てて、崩れ去っていく。