白が迸った後、景色を取り戻した世界。
石塊の砲弾は塵へと変わり、空気の流れに乗って揺れている。
一切の澱みが振り払われ、清廉な空気が漂っているかのような清々しさ。
天上の世界が現出したかのような静謐。
余りに現実離れした現象に言葉を失うアイラの横で、ルシルが小さくも荒い息を繰り返していた。
「流石に魔力を、使い過ぎたわ……」
「団長、ご無理をなさらずに……」
足下が覚束ない彼女に、アイラは慌てて肩を差し出す。
ふらつく彼女の身体を支えながら、アイラは改めて辺りを見回す。
身の回りの全てを薙ぎ払い破壊する、アイラをもってしても常識の埓外にあると思えるルシルの魔法。
その破壊の果てで、もはや残骸と化した魔鎧騎の中から這い出るようにしてジャクリーンが現れる。
頭から血を流し立ち上がることもできないほど消耗した彼女は、それでも未だ力を失っていない瞳で二人を睨み苦々しく吐き捨てた。
「糞が……。ネフィリムなんかより余程化け物じゃねぇか……。ええ、白鳩さんよ……」
「あなたに言われたくないわね……。これだけやってまだ生きてるそちらも相当人外よ」
呆れ混じりの声で返すルシルは、しかしジャクリーンから目を逸らすことなく続ける。
「けれど、いい加減引導を渡してあげないとね……。一応、言い遺す言葉くらいは聞いてあげてもいいけれど」
「ははっ、涙が出るほど慈悲深い申し出だが……。生憎と、今更俗世に未練など無い……。唯一惜しむらくは黎明の思想が遂行されるその瞬間を見届けられないことだが、その時は遠からずやってくる……。それは必然なのさ。故に、遺す言葉など必要無い」
息も絶え絶えになりながらそう語るジャクリーンは、二人を一瞥して笑う。
「まあせっかくだから、あんたらが死に際に何を感じ何を思ったか……。向こうでゆっくり聞かせてくれや。救済を終えた後でなら、通じる言葉もあるかもしれない」
「……そんなものは無い。この先も、未来永劫ね」
きっぱりと言い放ち、ジャクリーンへ手の平を向ける。
しかしそこで、仇敵をとどめるべく魔法を発動しようとするルシルの耳に、不意に若い男の声が届いた。
「――白鳩騎士団ルシル・シルバ団長殿。不躾なお願いかもしれませんが、今この場で彼女を介錯するのは考え直して頂けないでしょうか? どの道、貴女方にとっての大勢は変わらない」
それは穏やかで、理性的で、それでいて神秘的な雰囲気を醸し出す不思議な声色。
いつの間にか、壁に空いた大穴の脇に一人の男が佇んでいた。
フードを目深に被り表情は伺い知れないものの、その佇まいだけで普通ではない空気を作っている。
「……いきなり現れて何を言うかと思えば。私のことは知っているようだけれど、あなたは一体何者なのかしら?」
「これは失礼を。自己紹介をしなければね」
恭しく大仰なお辞儀。
「僕は黒の黎明主宰、グラントリー・パトモス。ようこそ僕達の数あるアジトの一つへ。歓迎は致しかねますが、せっかくお越し頂いたのです。是非一度、言葉を交わしてみませんか」
黒の黎明トップを名乗る男からの対話の申し出に、ルシルは胡乱な眼差しを細める。
そして同じような反応を見せた声を荒げたのは、血を流して床に横たわるジャクリーンだった。
「馬鹿じゃねぇのか主宰。気軽に出てくるんじゃねぇ、こいつら敵だぞ。何考えてやがる」
そんな乱暴な物言いに苦笑する気配と共に幼い子供へ言い含めるような口調のパトモス。
「ジャッキー、君は後ろへ下がっていなさい。君のおもてなしはお客様への敬意に欠ける。折角このような機会を頂いたのですから、誠心誠意をもって応じねば不義理というもの」
反駁を諦めたのかジャクリーンは押し黙る。
代わりに口を開いたのはルシルだった。
「黒の黎明の主宰とやらは、おかしなことを言う。命を狙った相手と言葉を交わす? 今更何を話すというのかしら。あなた達の蛮行によって、既に賽は投げられた」
「それは事実誤認です。神は賽など振りません。運命には必然しかないからです。六合全てが同じ数字を示しているのが世界というもの。貴女の仰る僕達の蛮行とは、貴女が不条理だと思った事を都合よく僕達へ転嫁しているに過ぎない」
「中身の無い話をさもあるように見せかけ話すのがお得意なのね。そうやってお仲間をたくさん集めたのかしら? どれだけ言葉を取り繕っても、パーティ会場で無辜の国民を殺めることが、国家の転覆を謀ることが、正当化されるわけがないでしょう」
「見解の相違ですね。僕達は今を生きる事を定められた人間として、最低限の役割を果たしているだけです。歪んだ世界を正そうとしているに過ぎない。そして、歪めているのは貴女方だ」
淡々と罪状を読み上げ断罪する裁判官のような物言いで、パトモスは続ける。
穏やかに、されども確固たる芯に支えられた声で。
「運命を受け入れず抗おうとする貴女方によって世の中は少しずつ歪められ、未だ世界中でこの連合王国のみが救済されずにいる。ようやく審判の日を迎えようという時に、この国がその足を引き留めている。これは実に由々しき事態です」
「……だからこの国を滅ぼす為に、ガーデンパーティとルシル団長を狙ったのですね」
不意に口を開いたアイラの言葉に頷くパトモス。
「ええ、その通りです。しかし誤りでもあります。確かにこの国は滅びの時を迎えることになるかもしれませんが、それは人類全体へもたらされる救いでもあるのですから。忌避する理由など、どこにもありはしないのですよ」
「理由なら、あります。私は、団長に死んでほしくなどありません。そして団長が愛する国にも滅びてもらっては困ります。あなた達の言う救いなど、私にとっては大きなお世話以外の何物でもありません」
肩で抱くルシルの体温を感じながらはっきりと断言するアイラ。
その言葉にパトモスは小首を傾げた。
「……わかりませんね。狂っているとさえ感じます。貴女方は今のこの世界に、満足しているのですか? 常時ネフィリムの脅威に晒され、身を守る為の煙に肺を冒され、愛する者との別れを突きつけられる。そんな日々に満ち足りているとでも?」
「満足などしていません。だから足掻いているのです。あらゆる犠牲を、無駄にしない為に。今日の不幸を少しでも、明日の幸福に繋げる為に」
こんな世の中だ。
辛く苦しい思いなど掃いて捨てるほどに味わってきた。
生きることに絶望し、死に価値を見出したこともある。
しかし、それでも。
遠き昔日、一人の少女にかけられた言葉は、今やアイラの信念になっていた。
――あらゆる物事は、いつか過去になる。
例え今がどれだけ辛く苦しくとも。過去に積み上げた全てを失ってしまったとしても。
未来を差す光だけは、残っている。
「あなた達の考え方の全てを否定する気はありません。しかし私の信念とは異なります。私は、生きている以上は最後まで諦めるべきではないと考えています。他人の目にどれだけみっともなく映ったとしても、足掻き貫くことこそが、私の信じる道なのです。昨日の挫折を今日の力へ変え明日に笑う。それを諦めた者に、輝かしい未来など訪れません」
「その未来を見届けられる保証など無いでしょう。むしろ世界では道半ばに死んでいく者の方が遥かに多い。未練や心残りを残したまま死んでいくのは悲しいことです。報われない足掻きなど、不幸以外の何と言えるでしょうか。そんなものは必要ありません。そも、人は生まれた時から死ぬことを運命付けられています。ただただ大いなる流れに身を任せればよいのです」
「……あなたは、人は死んだ時点で終わりだと思っているようですね。死んでしまえば、後はもう救いを待つだけなのだと……。私は、そうは思いません。何故なら、その人が死んだ後も、世界は続いていくからです。その人が遺した想いを乗せて、動き続けていくからです。その想いが誰かの胸の片隅にでも遺り続けている限り、何も終わってなどいません」
今の世の中、別れを経験したことのない人間などいない。
アイラも、ルシルも、他の白鳩の面々も、防衛隊の兵士も、皆がそれぞれの別れを経て今もなお懸命に国を守るべく戦っている。
それは絶望を知っているのと同時に、世界がそれだけではないことを知っているからだ。
「私は例え自分が死んでも、私の想いを誰かが繋いでくれることを望みます。だから懸命に生きるのです。誰かが私を受け取ってくれるように。誰かを勇気付けられる人間で在れるように」
決意のこもったアイラの台詞。
ぶつけられたパトモスではなく、傍らのルシルがため息を溢す。
「私は、そういう自らの死を前提にした考え方も嫌いなのだけれど……。最優先は自分自身が生き残ることだというのが、私の考え。結局のところ国とはそこに生きる民一人一人によって作られるのだから、一人の死は国にとっての痛手になる……」
厳かな声色でそう言って、正面のパトモスに向き直る。
「けれど世の中の誰もが同じように生きているわけではない。私の考えがこの子の考えと異なるように、あなたにとっての正義が他の誰しもに幸福をもたらすとは限らない。要は、それだけの話よ。――そして少なくとも私にとっては、あなたの教えよりもアイラの言葉の方が受け入れられるわ」
「――訣別、ですか……。しかしそれも必定なのでしょう。つまりはこれが、世界の流れということ」
深く息を吐いた後、パトモスは二人に向かって大仰な所作で両手を広げる。
「僕達と貴女方では、目指す理想も正しさの形も、決定的に違うようだ。それが明確になっただけでも、今日のこの時間は有意義でした」
「……あなた達の思想を、私達は受け入れるわけにはいかない。そして既に、お互いが共存できる範疇は超えてしまっている」
「そうですね……。古来から、異なる正義がぶつかった際の解決法など一つだけです」
そして彼は布告する。
その意味を理解していながら、そこに躊躇いは無い。
「――戦争をしましょう、白鳩騎士団。どこまでいっても、僕達は野蛮であることから逃れられない」
その声はどこか悲しげであり、どこかに諦念が漂っており、そしてどこかに決意の炎が灯っていた。
「貴女方に響かずとも構わない。世界が終わってくれさえすればいい。僕達はただ、メギドの丘に登りたいだけなのだから」
それは黒の黎明からの宣戦布告。
国家を、人類を。
そして一人一人の想いの行方を賭けた闘争の幕開け。
火蓋は切られ、戦いが始まる。
人と人の争いは、果たして神の目にどう映るのか。