ジャクリーン・ザ・リッパー。
通称、ロンドンの切り裂き魔。
ロンドンの街を震撼させている連続婦女殺人事件の実行犯と目される謎多き存在。
わかっていることは、被害者は皆魔法適性を持つ女性でありジャクリーンはそんな彼女らを上回る力を持った、魔女であるということのみであった。
「退いてな、氷の魔女。今日の目的はあんたじゃない」
「意外ですね、魔女ばかり狙ってきた連続殺人犯が私を見逃してくださるとは。――わざわざこのパーティを襲ったということは、狙いは女王陛下ですか?」
これまで暗い真夜中に犯行を行っていたが故に目撃者は少なく、詳細が闇に包まれていた犯罪者。
それが白昼堂々と大勢が集まるガーデンパーティに現れたのは、意外というよりも異常であった。
わざわざこのパーティを狙わねばならぬ理由があったのだとすれば、それは――
「――いいや、それよりもっと大きな餌だ。鳩のお頭、ルシル・シルバ」
しかしジャクリーンが口にした標的の名は、女王陛下ではなくルシルであった。
そしてそれを聞いたアイラの纏う雰囲気が、ガラリと変わる。
「……そうか。なら殺す。それ以上口を開くな。冰華繚乱の戦いを見せてやる」
「落ち着きなさい、アイラ少尉」
剣呑な光を宿した眼差しで睨む彼女を、制止したのはルシルだ。
肩に手を置いて、囁くように語りかける。
「こんな所でやり合えば、辺り一面血塗れよ。出席者の退避が完了するまでは、二人で奴を抑えましょう。力加減に気を配りながらね」
ジャクリーンの登場により、既に会場は混乱の渦。
悲鳴と怒号で阿鼻叫喚の様相を呈す。
そんな中で魔女同士が戦闘を始めれば、その余波で一体どれだけの死人が出ることか。歴史に残るような大惨事になることは想像に難くない。
よって如何にして被害を抑えながら立ち回るかに思考を割り振るルシルだったが――
「そんな気配りは御無用に願うぜ。何しろこっちは、血塗れダンスパーティへの招待状を、律儀に人数分持ってきてやったんだ!」
直後、両手を掲げて天を見上げたジャクリーンの懐、ローブの裾から、夥しい数の刃物が飛び出す。
それは一つひとつが複雑な軌道を描きながら、四方八方へと飛来する。
周囲の全てを、斬り刻むべく。
「くっ――」
「こいつッ!」
何の躊躇いもなく、強大な力を自分以外の全てへ向ける敵。
視界を覆うほどの鋭利な奔流の中で、ルシルは即座に理解し、判断する。
この場の全員は助けられない。
ならば、誰を救うのか。
「――
彼女とアイラと女王陛下を内側に入れた円状の領域を境に、猛烈な上向きの風が吹き荒れる。
料理や紅茶ごとテーブルや椅子を巻き上げる程の暴風は空気の障壁となりジャクリーンによって放たれた短剣を弾き飛ばす。
しかしその外側からは招待客らの悲痛な叫び声が連続する。
「ぎゃああああああああッ!?」
「嫌だ、いやだァァァアアアアアアッ!!」
「死にたくない、助けてくれぇ!!」
「はーっはっはっはーッ! なんて豪華な演奏なんだ! 昂るッ! 素晴らしい! まるで審判の日を思わせる光景じゃあないか!」
無限に続くかのような地獄の時間。
やがてジャクリーンの魔法による破壊は収まり、辺りは水を打ったように静まり返る。
刃の嵐が去った後、もうそこには悲鳴を上げられる状態の人間など、残っていなかった。
伽藍のような静寂に落ちていく錯覚。
「…………」
「貴様……」
「ああ、なんて酷い……」
真っ赤に染まった庭園。
無惨に引き裂かれ打ち捨てられた肉塊。
その光景に、ルシル達は言葉を失った。
そんな彼女達に向き直り、ジャクリーンは歪んだ笑みを浮かべる。
「どうした、もっと喜んでくれよ。あんたらが煩わしそうにしてたから、気を利かして手っ取り早くお片付けしてやったんだぜ?」
「…………」
「それともなんだ? 自分のせいで、人が死んでいくのは耐えられないか? そうだよなぁ、あんたを狙って私が来たから、ここの客達は死んだんだ。あんたがここに来なければ、少なくとも彼ら彼女らは死ななかった」
ジャクリーンから浴びせられる嘲笑。
ルシルはそれを黙って聞いていた。
口を開く気にならなかった。
辺りに広がった光景が、忌々しい記憶を想起する。
血の海に横たわる人だったもの。
魔鎧騎の中で血塗れになった少女。
ああ、またか……と。
狭窄し、グラつく視界。
そんな彼女の意識を呼び戻したのは、アイラの鬼気迫った一声だった。
「それ以上口を開くなと、さっき言ったはずだな」
それは普段の彼女からは想像もつかないような、怒気を孕んだ声。
それでいて冷徹であり冷淡であり冷酷な響きを伴った、冷ややかな声色。
瞳に灯る光も、底冷えのする鋭さだった。
そして実際、辺りに冷気が立ち込める。
それは彼女の異様な雰囲気が醸し出す錯覚などではなく、紛れもない物理的な現象として。
パキパキと細く鋭い音を立て、庭園を濡らした鮮血が、凍っていく。
「……おっとっと。これは悪手だったか……」
「由来に関わらず水分ならなんでも、私の領域だ」
歪んだ笑みを引きつらせるジャクリーンに、アイラは静かに死を宣告する。
「
「
地面から伸びた無数の紅い氷槍が、ジャクリーンを襲う――それと同時に、ジャクリーンの操る短剣がルシルと女王陛下目掛けて飛んでいく。
アイラは瞬時に魔法の目標をジャクリーンへの攻撃から短剣の迎撃へと変更する。
短剣は全て槍に落とされ、地面に深々と突き刺さる。
しかしその隙にジャクリーンは身を翻し、ロンドンの空へ舞い上がる。
「一旦出直すことにしよう! ここは少し冷える!」
「易々と逃げられるとでも?」
「思えないよなぁ。だって目が怖い。だから――」
直後、先程まで血の海に沈んでいた骸達が。
斬り離された四肢が。
溢れ落ちた臓物が。
ジャクリーンへの追跡を阻むように浮遊し、そして襲ってくる。
「死体共に踊ってもらうとするさ。私が招待したのは、血塗れダンスパーティだからな!」
「っ……! この外道がッ!」
そうして、後にバッキンガム事変と呼ばれるこの嵐のような騒乱は、多数の死傷者を出す形で終わりを迎えた。
事変の詳細については公表されなかったが、犠牲となった者達の遺体は、そのほとんどが原型を留めていなかったという。
◇◇◇
「まるで悪夢を見ているかのようです……。私が開いたパーティのせいで、まさかこんなことになってしまうだなんて……」
ルシルとアイラが死体の群れを鎮圧した後。
女王陛下は悲痛な面持ちで口を開いた。
「陛下のせいではありません! 無論、ルシル団長のせいでも……」
「いいえ少尉。これは私の責任よ。奴は私を狙っていたと、そう言っていた」
「このように卑劣で人倫にもとった蛮行を働く奸佞邪知な人間の言葉など、真に受けてはなりません。そしてあなたを狙っての行いであったとしても、狙われただけのあなたに、何の責任もあるはずがありません」
重苦しく、噛んで含めるようにそう言って、女王陛下は続ける。
「この国で起こったことは、私の責任です。この国に不満を持ち光を見失った者達が集まり徒党を組んで、あのような邪悪を生み出してしまった。それらは全て、彼らに正しき寄る辺を与えられなかった私の責任なのです」
「彼ら……、というのはつまり……」
アイラの言葉に、女王陛下は頷く。
「黒の黎明。彼らは自らをそう名乗っていると聞きました。黒の黎明もそこに所属するジャクリーン・ザ・リッパーも、王属近衛騎士団が存在を掴んではいたのです。ですがその蠢動を許し、今回の凶行を止められなかった……。対応は遅きに失しました。彼らは私達の想定よりもずっと強かで、そして大胆なようです。……恐らくこれは、始まりに過ぎないのでしょう」
暗澹とした雲の下で。
煤にまみれた空を見上げ、その昏き世を嘆く。
回り出した歯車は止まらない。その役割を終えるまで。