その日の朝ほど目覚めに労力を要した朝もなかったかもしれない。
前日の無茶が祟ったのか、酷い頭痛で意識は朦朧とするし、身体に力も入らない。
というか今が朝なのか夜なのかもわからないし、何なら昨日だと思っているのが本当に昨日なのかもわからない。しれっと数日経っていても不思議ではない。
自分がどれだけ意識を失っていたのかもあやふやだ。
ただ確からしいことは、自分はどうやらまだ生きているということだった。
「う、うぅん……?」
「あ、アイラ少尉! よかった、お目覚めになられましたか!」
うっすらと目を開けると、そこにはほっとしたような笑顔の少女。
「あなたは……。たしか、マルファ准尉……」
「はい、マルファ・シャラーモフです」
ノエミに白鳩の団員を一通り紹介してもらった際に挨拶をした傍付きの少女。
使い手の少ない治癒魔法への適性の持ち主。
戦闘要員ではなく、衛生担当の魔女という話で……なるほど。
アイラはゆっくりと身体を起こして、俄かに回転し始めた頭を振る。
「すみません、着任早々から迷惑をかけてしまったようですね」
「いえいえ、迷惑だなんてそんな、ご無事で何よりです。どこか違和感はありませんか?」
そう言われ、アイラは自分の身体を眺め見回す。
どうやら目立った外傷は無さそうだ。
ネフィリムとの決着がついた後、恐らくリベレータごと落下したはずだが……、誰かが食い止めてくれたのだろうか。
「頭が痛い以外は、特段問題無さそうです。ちょっと怠いですけれど」
「完全な魔力欠乏症ですね……。結構危ないところでしたが、意識が戻ったならもう安心でしょう。ゆっくり安静にしていればじきによくなりますよ」
「ああ、まあ、慣れています、元から魔力量がそれほど多くないので……。ここまで酷いのは、久し振りですが」
実際、コンディションはすこぶる悪いが、気分自体は悪くない。
気を失って尚も冷めやらぬ、興奮のようなものが胸中を満たしていた。
憧れのルシルと共に空を駆けネフィリムと戦ったという出来事が無事終わってようやく、感慨に耽る余裕を得られたのだ。
改めて振り返ると、その栄誉に身が打ち震える。
「……いやぁ、良い経験したなぁ……」
「……えぇっと、少尉は独特な感性をお持ちですね?」
何やらマルファが若干引きつったような笑顔を浮かべているが、それも気にならない。
何しろ、長年の夢がようやく叶ったようなものなのだから。
「――そういえば、団長は?」
「ああ、そうですね。私、ちょっと報告してきます」
「それには及ばないわよ、マルファ准尉」
不意に、医務室の入口からそんな声が聞こえた。
「団長!」
立っていたのは、出撃前と変わらない様子のルシル・シルバ。
いや、少しだけ表情に疲れのようなものが見えるだろうか? 目の下にうっすらとくまができている。
ともあれ、こうして無事な団長の姿を認められただけで、アイラとしては一安心だ。
「たまたま様子を見に来てみたら、ちょうどいいタイミングだったわ」
「わ、割と頻繁に来られていたような――」
「――マルファ准尉。彼女の状態は?」
「は、はい! 魔力欠乏症の影響が残っているものの、異常は無さそうです。この調子なら、数日で軍務にも復帰できるでしょう」
「そう。ありがとう」
そんなやり取りを交わしつつ近付いてきたルシルはベッドの傍らで立ち止まり、アイラへ向き直る。
慌てて立ち上がろうとした彼女の頭部を無言で抑えつけ片手でベッドへ押し戻す。
「はぅあっ!」
「……いいから寝てなさい」
俄かに剣呑な光を宿した瞳に凄まれ、アイラはすごすごと引き下がってルシルを見上げ、言葉を待つ。
ルシルはそんな彼女の姿をしばらく無言で見つめていた。
「……。あれだけ派手にぶっ倒れておいてたった半日で目を覚ますとは、大した回復力ね」
「ね、寝起きは良い方なので」
「そう。羨ましい限りだわ」
それだけ言って、ルシルは小さく吐息を溢す。
「あなたには色々と言いたいことがあるけれど、取り敢えず説教は回復してからにしましょう。……一応、約束は守ってくれたわけだしね」
「は、はっ! お気遣いいただきありがとうございます! シルバ団長殿!」
「……一日に三体のネフィリム出現。不測の事態も重なる中でそれらを尽く撃墜できたのには、あなたの功績が大きい、ということを認めざるを得ない。……着任早々災難だったでしょうけれど、助かったわ、アイラ少尉」
「身に余るお言葉です、団長殿! これからも一層奮励努力し――あれ?」
ルシルの言葉に敬礼で応えながら、アイラは気付く。
「――団長、今、
「……? なに? それがどうかした? あなたの名前でしょう」
怪訝な眼差しで訊き返してくるルシル。
アイラは自然と顔が綻んでいくのを感じた。
――お堅そうな団長ですら、団員のことは名前で読んでますしね。
――私まだ、団長から名前で呼ばれてないです……。
――私まだ、団員と認められていないんですね……。
――やっぱり私、団長に嫌われちゃったんですね……。
ノエミと交わした会話が記憶の中で駆け巡る。
――助かったわ、アイラ少尉。
そして先程のルシルの声を反芻し、噛み締める。
それは今のアイラにとって、どんな賞賛の言葉よりも嬉しい一声であった。
「あ、はは……! あはは! ルシル団長! ルシル団長!」
「……。……どうしよう、部下が壊れた……。マルファ准尉、どういうこと、彼女に異常は無いのでは?」
「え、えぇっと、そ、そのはずだったんですが……あれ?」
「あはは! あはは! あはは!」
「――マルファ准尉ッ!?」
「し、しっかりしてくださいアイラ少尉! ち、鎮静術式っ!」
狼狽えるルシルとマルファの姿も、気にならない。
今ならどんな空でも飛べそうな、最高の気分だ。
かくして少女は白鳩騎士団の一員へと加わった。
異形の魔の手から王国を守る最前線。
救国の栄誉と引き換えに与えられるのは縹渺たる日々と艱難辛苦。
いつ終わるとも知れぬ戦い。
明日を迎えられる保証も無く。
煙に薄汚れた空の下。
しかし、少女はそれを幸福と捉える。
彼女と連れ立って飛ぶ空ならば、それはどんな青空よりも美しい。
あらゆる物事はいつか過去になる。
未来で今を想った時に、笑って昔話ができるよう生きるのだ。
白鳩は羽ばたく。
その羽音はやがて福音となり、この国の空を満たすだろう。