「以上が、俺が調査を行って得た事実だ」
全てを語り終えた真介は魁に告げた。
アメリカ合衆国ニューヨーク市郊外にある高級住宅街の一角に、弓嶋家の人々の住む家はあった。魁の部屋は両親が定期的に掃除をしているらしく、床や家具に埃は積もっておらず、調度品も整頓されていた。しかし当の部屋の主である魁は物言わずベッドに横たわっている。約一年前、この部屋で魁は首吊りによる自死を図った。幸い、母親によって早期に発見されたため、彼は何とか一命を取り留めたものの、大脳に重度の後遺症が残り、植物状態となったのだった。両親の強い希望により自宅で療養しているものの、今日に至るまで一度も、誰の呼びかけにも反応していない。
「週刊誌の記者の元に、お前の手記と俺の調査結果を持って行って見せたら、是非こちらで取り扱わせてほしいと言われた。これで世間の連中も事件の真相を知り、お前に対する悪感情も少しは払拭されるだろう。だが――」
真介はいったん言葉を切った。年下の友人は相変わらず言葉を発さず、ガラス玉のような瞳を宙へとむけたままだ。
「手記の中で内容を変えなければならない箇所は正させてもらった。何せ、お前は明らかな嘘を書いてある箇所があったからな」
魁の身体が微かに動いたような気がした。
弓嶋魁と小森真理花。二人の性格とその差異をよく知る真介からしてみればその嘘は最初から明白だった。妹は一人で祖父母の元や異国にいる兄の元へ行く等、良くも悪くも行動力に溢れていた。それに対して友人は、誘われれば外に出るものの、基本的に家で本ばかり読んでいるような性格だ。
「本当は逆だった。そうだろ? スキー旅行の話を出したのも、事件の捜査をしようと言い出したのも、本当は
手記の【始めに】で本人が述べている通り、魁は嘘が苦手だ。嘘は吐けど、前後の統合性が全く取れていない。
本当に魁がアメリカにいる時点で両親や真介に発覚しないよう、スキー旅行へ行く計画を立てていたならば、かさばるスキー板はともかく、ウェアぐらいは持って行くだろう。二人が行った捜査に関しては特に顕著だ。魁は自分で事件を解決する等と勇んでおきながら、いざ現場へ赴けば死体を視界に入れようともせず、やたら消極的だった。むしろ付き合わされた真理花の方が積極的に動き、その上真相にも辿り着いた。
魁が真理花を説得する場面の台詞を、実際には真理花が言っていたのだとするならば、その整合性が取れてくる。
「お前が手記に、自分が真理花を旅行や捜査に付き合わせたと書いたのは、猿渡の戯言があったからだろ。だからお前は手記に嘘を書いて自ら命を絶とうとした。真理花に責任という名の業を負わせないためにな」
真介は手を伸ばし魁の頭を撫でる。母親が毎日欠かさずに手入れするその黒髪は、触れているのかいないのか分からぬほど、さらさらとしていて、真介の指から抵抗もなく零れ落ちていく。
真介は追想する。
アメリカの法律の学習と人生経験蓄積のため、アメリカに留学したのは良かったが、異国での、日本人たった一人の生活は非常に心細い物だった。金はあるので衣食住には困らなかったものの、英語も片言しか喋れず、コミュニケーションもままならなかったため、友人もできなかった。アジア人は同じクラスに幾数名いたが、いずれも中国人や韓国人ばかりで、苦悩を共有できる日本人は一人もいなかった。
そんな中で出会ったのが魁だった。
食堂で度々見かける小さな黒髪の存在は気にはなっていたが、ある日彼が日本語で書かれた本、それも真介の好きな推理小説を読んでいたので、声を掛けてみることにしたのだった。その時の魁の、瞳を見開いて驚いた表情は、今も脳裏に刻まれている。
弓嶋魁は貿易商に勤める日本人の父と、アメリカ人の母の間に生まれた子どもだった。やや社交性の乏しい所はあったが高い知性を誇り、勉学においては年上である真介を遥かに凌いでいた。
友人と言うよりも弟ができた感じだったが、異国の地での孤独は解消された。
そんな友人がある日突然自死を図り、廃人となった。
「だがな、さっき俺が話したようにあのペンションには卑怯で下劣な連中しかいなかった。それでも連中も、お前に責任がないことぐらい分かってるよ。お前が負わなきゃならない責任なんてどこにもない。いくら聡くて飛び級で大学に入っていようとも、
真介の目の前には白い顔の少年が横たわっている。彼と同い年の子ども達は、ランドセルを背負って走り回っている。眠り続けなければならない咎は一体、どこにあると言うのか。
金と権力に護られた性犯罪者。
引き籠りの息子の存在を客に知られたくないばかりに外部への連絡を怠ったオーナー。
無能と学歴コンプレックスの権化であった元警察官の探偵。
いじめの存在を隠蔽し事件の遠因を作り出した教師。
自分の身に絶対に危険がないと分かり、殺人事件を楽しんだ医師。
犯人の少年少女を含め、子ども達が無責任な大人達の犠牲になった。それこそがペンション、スケープゴートで起こった事件の全てだった。
「……以前にも話した通り、親父とお袋は俺に対しては放任主義だったが、真理花に関しては異常なまでに過保護でな。欲しがる物は何でも買い与えてやった反面、あいつの心臓を心配して、体を使う遠足や運動会といった行事の参加は一切許さなかった」
真理花が魁と同様、室内での遊びの方が好きな子どもであったならばまだ良かったのかもしれない。しかしそうでなかった彼女は常に欲求不満であった。その欲求不満の爆発が沖縄の祖父母宅への出奔、夏休みの兄の元への渡米、そして魁を伴ったスキー旅行だった。
「当然スキーも例外じゃなかった。スキーへ行く度にあいつ、「私も一緒に滑りたいと」喚いてな……。スキーをするのが、あいつのずっと抱いていた夢だったんだよ。妹の我儘に付き合わせて済まなかった。そして、夢を叶えさせてくれてありがとう」
反応は返ってこないと分かっていながらも、真介は告げた。
自分と両親は真理花を可愛がり、大切にしてきたつもりでいた。しかし、肝心の彼女の心を満たすことはできなかった。自分達家族に満たせなかったそんな彼女の心を、この小さな友人は満たしてみせた。感謝以外に、どんな言葉を掛ければ良いだろう。
真介は椅子から立ち、窓に寄ると、露で濡れたガラスを服の袖で軽く拭いた。雨や雪こそ降ってはいないものの、冷たい灰色が空全体を覆い、街を暗く包んでいる。本格的な冬の訪れが近いことを予感させた。
「もうすぐまた、ウィンタースポーツの季節がやってくる。去年は俺と親父さんがダウンして残念だったが、今度こそ皆でスキーに行こうぜ。俺達が毎年利用するペンションは、スケープゴートよりも広くて、飯も美味いからさ。だから――」
急に息苦しさを感じ、反射的に窓の鍵を外して解放する。
「だから頼む。眼を覚ましてくれ」
窓の桟を強く握ったまま、膝から崩れ落ち、肩を震わせ、幾たびも嗚咽を漏らす。
外から流れ込む冷気が、部屋の暖気を徐々に搔き消していった。
了