そのカフェテリアの窓は一面が大開口窓となっており、天然の光を店内へ取り入れられるよう設計されていた。この自然の温もりが気に入り、真介は調査を通じて長野を訪れる度に利用していた。そして今回、話をする人物の生活圏内でもあったため、この店を対面の場に指定したのだった。
窓の外から店内を伺うと、他に類を見ない巨大な背中が見えたため、一瞬でその人物が既にきていることが分かった。
「お待たせいたしました。ご足労頂き感謝します」
店に入ると足早にその人物が座るテーブルに近づき、できる限りにこやかに挨拶をした。
篠原佳子は貪っていた山盛りのナポリタンから視線を外し、小さな眼で真介を睨みつけた。篠原は頬も、腕も、胴も、足も、異常なまでに肥えた女だった。例え太った人間でも性格さえ良ければ愛嬌や親しみを感じるものであるが、この女はただただ陰険さに満ち満ちていた。その醜悪さで周囲の空気を淀ませているようにも感じられ、息をするのも辛い。まるで、如何なる種にも該当しない生物がそこに存在しているかのようだった。
「……自分から呼び出しておいて遅いじゃない。いつまで待たせる気だったのよ」
口に含めたナポリタンで頬を膨らませた篠原は怨嗟の言葉を投げる。真介は眼を微かに動かし、壁に掛かった振り子時計で時刻を確認したが、まだ指定した時間までかなりの余裕があった。
手記を読んである程度は想像していたが、この女は稀に役所や飲食店で見る悪質なクレーマーと同じだ。自分のことしか考えていない。考えられない。しかし、これ以上機嫌を損ねて帰られても困るため、とりあえず平謝りをしながら真介は篠原の向かい側の席に腰を降ろし、持ってきた鞄を脇の床へと置いた。
「話って何よ。あのペンションの事件のことを知りたいなら、あんたが送りつけてきたあの弓嶋ってガキの手記をまた読めばいいでしょ」
篠原は前足に持ったフォークでナポリタンを絡め取り、大口を開けてずるずるとすすり込む。ただそれだけなのだが、この女がするとなぜか、一挙手一投足の全てが下品に感じられる。ある意味才能である。
「確かに事件発覚後、部屋に籠りっぱなしであったあなたには、手記に書かれている以上の情報は持ち合わせてはいないでしょうね。ですが今回、私があなたにお越し頂いたのは、あの事件の話をするためではありません。あの事件の犯人である隅野卯月を庇うため、様々な工作を行った彼女の義兄、隅野岳飛についてお話がしたいのです」
その少年の名を出した瞬間、口の中のナポリタンを咀嚼していた篠原の顎の動きが止まった。
「やはり彼に対して何か思う所があるようですね。篠原先生」
……この女と隅野岳飛は、スケープゴートでの出会いが初対面ではない。
「私は少し前、猿渡氏ともこうしてお話をしました。彼も指摘していましたが、卯月の行為は正当防衛といえます。例え捕まったとしても法の裁きを受けることはなかったはず。ですが、どうして岳飛は義妹を庇う真似をしたのでしょう。単なる身内可愛さ? 確かにそれもあるでしょうが、どうもそれだけではなさそうです」
話しながら、先の調査で知った岳飛や篠原に関する情報を脳内に引き出し、溢れさせる。
隅野岳飛の境遇や受けた仕打ちは、深い同情に値するものであった。
「岳飛には同級生を殺害した容疑で三年間、少年院に服役した過去があります。あなたのご友人である牛尼先生が真理花と弓嶋に語って聞かせた、約三年……いや、四年前に中学校で起こった生徒同士の殺人事件です。あなたは誰よりもこの事件が印象に残っているはずだ。何せ、あなたは岳飛を始めとする当事者達の担任であったのだから」
篠原は相変わらず押し黙ったままだったが、それでも凄まじい圧で真介を睨みつける。周囲の空気が更に淀み、痛くなるのを感じたが、臆して引き下がる訳にはいかない。
「周囲にいた被害者の友人達の「岳飛がいきなりナイフを取り出して、友人の首を切りつけた」、そして担任教師であったあなたの「加害生徒は日ごろから問題行動があった」等の証言が決め手となり、審理で無罪を訴えていた岳飛には有罪の判決が言い渡され、貴重な十代の三年間を少年院で過ごす羽目となりました。ところで、岳飛がどのような内容で無罪を訴えていたかはご存知ですか?」
「……知らない」
「ならお教えしましょう。あれは事故、正当防衛であるというのです。岳飛は以前から被害者をリーダーとするグループからいじめを受けており、あの日も人気のない校舎裏に呼び出された彼は、凶器となったナイフを突きつけられたそうです。命の危険を察知した岳飛は懸命に抵抗した結果、ナイフ滑り、不幸にもその刃が被害者の首を切ってしまったそうですよ」
「そんなのデタラメに決まってるでしょ!」
篠原はいきなりテーブルを叩きつけて席を立つ。周囲にいたマスターや、わずかにいた他の客の視線が篠原へと集中した。
「いじめを受けていた? 相手にナイフを突きつけられた? そんな戯言を疑いもなく信じるって訳なの? 馬鹿じゃないあんた」
堰を切ったように唾を撒き散らしながらまくし立てる相手に、真介は冷静に告げる。
「私は何の根拠もなく彼の主張を信じた訳ではありません。今や高校生となったあなたの元教え子達や、元同僚達が色々と話を聞かせてくれましたよ。皆口を揃えてこう言ってました。「岳飛は非常に温厚で真面目な生徒だった。むしろ被害者やその友人達の方が飲酒や喫煙、いじめといった問題行動があった」と。ついでに先生、あなたのお世辞にも真面目とはいえない勤務態度もね。あなた方の証言と真向から食い違っていますが、どういうことでしょうか?」
篠原はふてぶてしく言葉を返した。
「……いじめがあったのなら、じゃあそのいじめの報復に家から持ってきたナイフで相手の首を切りつけたのよ」
「それも考えられません。こちらをご覧下さい」
真介は鞄から、クリアファイルに入った一枚の紙を取り出した。そのA4サイズの用紙には、中学生が喜びそうな形状、色合いをした、実用性からは程遠そうなナイフの画像が印刷されていた。
「こちらは事件に使用された凶器と同種のナイフです。これを扱っているのはごく一部のインターネット通販しかなく、素人の私でもすぐにこれを販売したサイトと店を特定することができました。事件発生日から数日前にこのナイフを注文し購入した者がいたそうですが、発送先の住所からして購入したのは岳飛ではなく、被害者の少年でした」
「向こうがナイフを出してきた」と互いに主張し、どちらかが確実に嘘を吐いている状況にも関わらず、なぜ警察はその証言の裏取りを行わなかったのだろうか。少し捜査をすれば正しい証言をしているのはどちらか分かったはずだ。岳飛の実父が反社会的勢力に所属している人間であり、その先入観があったせいなのかもしれないが、杜撰過ぎるとしか言いようがない。
篠原は力なく椅子に尻を沈めた。これ以上の反論はもうないであろう。
「私は四年前の学校での事件、隅野岳飛は罪に問われるべきでなかったと考えます。どのような事情があったのかは存知ませんが、あなた方が吐いた嘘により彼の主張が退けられ、有罪の判決を受けた岳飛が司法に、人に不信を抱き、同じく事故で人を殺めた義妹を庇うといった行動をとったと考えられます。
教師として生徒を守るという責任を果たさなかったあなたもまた、スケープゴートの事件の元凶の一人であるといえるのではありませんか?」
当初、真介は篠原佳子に対する調査をするつもりはなかった。真介が手記を読んだ際に抱いた篠原に対する大まかな印象は、食に卑しいが、それ以外は特に記憶にも残らない、牛尼のおまけだった。しかし、この女の岳飛に対する反応や、岳飛が女を快く思っていないような描写が真介の頭に微かに残り、疑問が湧いた。
――本当はお互い、以前から互いのことを知っていたのではないか?
そこで鑑別所にいる岳飛に対してその疑問を記した手紙を送った所、驚くべき返信があったため、急遽追加の調査を行い、篠原への対面を申し込んだのだった。
「……仕方ないじゃないの」
茫然自失の篠原は、喉から言葉を絞りだす。
「事件が起こった時……あいつがいじめを受けていただの、向こうがナイフを出してきただの言い出したから……ゴミ校長の指示でそれをなかったことにしろって……」
「そんなことで一人の少年の人生を狂わせた訳ですか。良心の呵責はなかったのですか」
「だから仕方がなかったって言ってるでしょうが!」
篠原の両手がテーブルの端を掴んだ瞬間、危機を察知した真介は素早く椅子を引き距離を取った。この判断は正しかった。テーブルはひっくり返り、載っていた皿やグラスが床に打ち付けられ、破片と化す。
「人生を狂わせられたって? だから何だって言うのよ。あいつはたった三年でムショから出られて自由になれた。わたしの方はクソ親に公務員になることを強要されて、今日までやりたくもないガキ共のお守りを強要されているのよ。人生そのものが牢獄なの。あの事件だって、結局私は監督不行き届きってことで三ヶ月も停職処分を受けた。可哀そうなのはわたしの方よ!」
この女には教師としての責任感も、大人としての沽券もありはしない。泣き喚き、肩で息をするその姿はまさに、駄々を捏ねる幼い子どものそれであった。
「……あんたと比べれば、まだ真理花や魁の方が大人だ」
真介の言葉に篠原の動きは止まり、口を少し開けて彼を凝視した。
「親に公務員になることを強要されたからやりたくもない教師の仕事を続けてる? 三十にもなって何寝ぼけたことをほざいてるんだ。みっともない」
恐らく、この女は無実の岳飛を少年院送りにしたことに対し罪悪感を抱いている。本気で自分の行いや考えが正しいと信じているのならば、彼と再会した瞬間、彼に罵声を浴びせ、スケープゴートで起こった事件の犯人であったことを素直に納得したはずだ。「知らない」と無視したり、「あいつが犯人だったとは」と驚いたりはしないだろう。しかしこの女が今しているのは、上司や親を盾にした幼稚な正当化でしかない。
みっともない。これに尽きる。
「俺が話を伺いに行ったあんたの元同僚は、岳飛からいじめについての相談を受けていたそうだ。解決策を見出せないまま事件が起きてしまい、岳飛を救えなかったと自責の念に駆られたその人は、周囲の人々の反対を押し切って教職を辞す選択をとった。
僅かにでも羞恥心があれば、是非はともかく、人はその責任を取ろうと何らかの行動を起こすものなんだよ。それに比べてあんたは何だ。少し恥を知れよ」
篠原の目から涙が止まり、呆けた表情をして押し黙った。そしてほんのしばらくの後に、赤いソースで汚れた口から鼓膜を劈くような絶叫を狭い店内に響かせたのだった。
そこにはもう、むせかえるような邪気はなかった。