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無能

 そこにいる人々はマスクを着けておらず、周囲はパンデミック発生以前の光景が広がっていた。――食事をする場所であるから当然ではある。昼のファミリーレストランにはスーツ姿の会社員や制服姿のOL、学生が多くおり、食事以外にもノートパソコンを開いて業務に勤めていたり、会話に花を咲かせていたり、勉学に励んでいたりと、各々の時間を過ごしていた。


 そこへ男がやってきたのは約束の時間から数十分が過ぎたころだった。真介は席を立ち、片手を挙げて、皺だらけのワイシャツとスラックスを身に着けたその男に自身の存在を伝える。


 やってきた男は口元を覆う黒いマスクを外した。


「お前が小森真介か?」


「お待ちしておりました。この暑い中ご足労頂きありがとうございます、猿渡さん。さあどうぞ」


 真介は席を勧めたが、猿渡はすぐに座ろうとはせず、瞳孔の開いた瞳で訝しげに真介の両脇に座る二人の人物に視線を向けた。それに気が付いた真介は二人を猿渡に紹介した。


「こっちは永末、そしてこっちは杉山といいまして、私の高校時代の友人です。永末はレスリングで県大会優勝、杉山は空手で全国のベスト4に入った経験のある逸材です。二人とも警察官志望でして、元警察官であるあなたのご立派なお姿が良い刺激なるだろうと考え連れてきました。同席させてもかまいませんよね?」


 二人は猿渡に目礼したが、その四つの眼に愛想は欠片もなかった。


「……良い心掛けだ。あっ、おい」


 猿渡は通りがかったウェイトレスにジョッキのビールを注文すると、ようやく椅子を引いて席に着いた。男の額には数多の汗が浮かび、テーブルの上に出している手も、小刻みに震えていた。


「さっそくですが猿渡さん。私が送らせて頂いた手記をお読みになられましたか?」


「ああ、読んでやったよ。あのガキの書いた紙束をな」


 猿渡は苦痛だった。もう二度と読みたくないといった様子だった。おそらくはもうずっと、活字の文章を読んでいないのだろう。


「それで、やはりあなたは今でも弓嶋に、スケープゴートでの事件における責任があるとお考えですか。事件に対する、全ての責任が」


「さすがに全てとは言わねえさ。一番責任があるのは最初に隅野卯月に仕掛けた中田の野郎だろう。そもそも、あいつが大人しく過ごしてりゃ皆平和に過ごせたんだ。二番手、三番手は卯月って小娘と、その犯行を隠蔽しようとした岳飛ってガキだろう。本当に馬鹿な奴等さ。さっさと自白するかさせてれば、手前も死ぬことはなく、変に罪を重ねることはなかっただろうに。何たって、あの殺人は完全に正当防衛だからな」


「……あなたご自身の責任につきましては、どうお考えですか」


 真介に問われると、猿渡は鼻を鳴らした。


「事件に関する俺の責任なら、あの女教師が指摘したことぐらいだろ。前者の連中に比べたら微々たるものさ。それ以外であるとすれば確かに、俺も少し弓嶋に言い過ぎた所はあったと思うよ。あそこまで追い込んだのは可愛そうなことをした。だが、あいつのせいで事件が更に凄惨な状況となったのも事実。多少きつく絞っておく必要はあっただろ。大人としての責任を果たしただけさ。……あんただって内心、弓嶋のことを憎んでいるんじゃないのか? あの紙束によると、奴は嫌がるあんたの妹を強引に旅行へ連れ出したそうじゃないか。そんなことしなけりゃ、あんたの妹はあんな所で最期を迎えることはなかったかもしれねえんだからよ」


 ――自分の責任は棚に上げるのか。人を自死へ追いやっておいて「可愛そうなことをした」で済ませるのか。挙句、妹を引き合いに俺の憎悪を魁へ向けさせようとするのか。


 苦悩や反省が見られない猿渡の言動に怒りが湧き上がるも、懸命にそれを抑えながら真介は話を続けた。


「……なるほど、あなたの意見はよく分かりました。あの事件に責任があるのは中田、卯月、岳飛、そして弓嶋。この四名にあると」


「そうだ。それで? 俺に聞きたいことはこれだけなのか」


「いいえ、私があなたに伺いたいのはもう一つあります。むしろ、こちらが本題です。

 まず被害者の中田一太郎について。奴が一体どのような人間であったのか、あなたは初めから分かっていたでしょう」


「……そういえば、お前は探偵志望って書いてあったな。どうせ、ある程度の調べは付けてるだろ? どれ、結果を先輩に聞かせておくれ」


 やはり、中田一太郎の名に反応した。口角を釣り上げて笑みを浮かべる猿渡であったが、その眼は笑っておらず、笑みも引きつっている。


「分かりました。私が調べた情報をお話しして差し上げましょう」


 その男の確認できうる限りの最初の凶行は、保育園に通っていた女児に対する拉致と暴行であった。祖父母の家から自宅へ帰る途上の女児を、腕力でもって人気のない繁みへと連れ込み、暴行に及んだ。早期に発見されたため、女児は奇跡的に一命を取り留めたものの、その幼い身で子宮の全摘手術を受けなければならなくなるほどの深い傷を負わされた。代議士である男の父親が女児の両親に多額の示談金を押し付けたために、男は何の罰も受けることはなかった。それに味を占めたのか、男の凶行は際限なく加速していった。一年間に二人から三人。中学、高校、大学、社会人と駒を進めていくにつれ犠牲者の数は膨らんでいった。いずれも自身よりも年下の女性が犠牲となった。犠牲者の中には鬱病となり、自死を選んだ者も一人や二人ではない。それでも父親が被害者達やその家族に、金と権力をちらつかせて示談に持ち込んでいったために、男は刑に服す所か、前科さえも付かなかった。


 金と力に護られた中田一太郎という怪物を、誰も止めなかった。止められなかった。


「一年に二、三人で、トータルの被害者は軽く三十人以上。俺も過去、警官として色んなクズと対峙してきたが、こいつを知った時はとんでもねえ悪党がこの世にいたもんだとビビったもんだよ」


「代議士の父親の圧力のせいか、これらの話は新聞にもテレビにもネットにも一度として掲載されておりません。ではどうして、なぜ、あなたはそんな中田一太郎についての情報を得るに到ったのか? 手記にあった話をしましょう。中田が結婚する予定で、その婚約者の両親が中田のことを、快く思っていなかったようにあると記されていたのを覚えていますか? 私はその中田の婚約者の女性を探し出し、彼女の両親と実際に会って話をしました。彼等曰く、娘が婚約者として紹介してきた中田一太郎という男の雰囲気や言動に不信を抱いたため、密かに中田の素性の調査を依頼したそうです。猿渡善人という探偵に」


 隅野卯月は不思議がっていた。なぜ予約を取っていない猿渡が、スケープゴートを訪れたのか。あのペンションは立地が悪く、飛び込みの客は望めない。その答えは、中田一太郎の動向の調査。仕事のためであった。


 猿渡探偵事務所所長、猿渡善人は真介に向かって音を鳴らさない程度に拍手をした。


「お前、なかなか優秀な探偵だな。どうだ、俺の事務所にこねえか。給料もそれなりにはずんでやるぜ」


「お断りします。あなたの人間性は元より、探偵としての力量にも大いに疑問がありますから。スケープゴートの事件での推理以外にも」


 真介の即答に猿渡の引きつった笑みが揺らぐ。先ほど真介は「こちらが本題」と言ったが、あれは軽い嘘だ。本当はここからが本題だった。これこそが、この男をここへ呼び出した理由だった。


「空想の名探偵がするような推理がまるきり駄目なのはこの際認めてやるが、現実の人探しや浮気調査に関しちゃ、それなりに腕はあると自負しているんだがな。そこまで言うなら教えてくれよ。俺の駄目な所を」


「あなたは仕事で中田一太郎を尾行し、ペンションスケープゴートを訪れた。そこに間違いはありませんね?」


「そうだ。俺はあの時、奴を尾行していた。それが俺の探偵としての力量と、どう関係があるんだ」


 この男は認めた。中田一太郎の動向を探るため尾行をしていたことを。この言質が欲しかった。


「スケープゴートでの事件発生から数時間前。弓嶋達が行ったKスキー場でも、長野県内の女子大生が殺された事件が起きたのはご存知ですよね。この件も手記で軽く触れられていましたから」


「後で報道で知った。可愛そうに。生きてりゃきっと、官僚にでもなったんだろうな」


「その更に後、現場に残されていた犯人のDNAから警察は、その女子大生を暴行の末に殺害したのは、中田一太郎であると突き止めました。……おかしな話だとは思いませんか?」


「生まれながらの鬼畜がとうとう人を殺した。別におかしな話じゃないだろ」


「問題はそこではありません。そもそもスケープゴートの事件にしろKスキー場の事件にしろ、本来なら起こるはずがないんですよ。元警察官の探偵がちゃんと中田を監視さえしていればね」


 魁はスキー場のレストランにて、中田と猿渡(と、おそらくは中田の手に掛かった女子大生)の姿を見かけている。中田は獲物の物色を。猿渡は眼を離した隙にいなくなった中田を探していたに違いない。――後の事件とはあまり関係のない話であろうと手記には書いてあったが、大いに関係があったのだ。


「……久々の都外の仕事で俺も半ば旅行気分だったから、ちょっと飲み過ぎてな。便所で用を足している少しの間、奴から眼を離しちまった。ペンションの時は睡魔に勝てなかった。……俺が中田の蛮行の数々を知ったのはスケープゴートでの事件の後だ。そりゃ俺だって、あの野郎の正体が分かってりゃもっと警戒したさ。むしろ、多少眼を離したとはいえ、あんな辺鄙なペンションまで尾行を続けた俺を少しは評価してくれてもいいんじゃねえか?」


 そう言って猿渡はまた口元にニタニタと笑みを浮かべる。その眼には光なく、虚ろであったが、真介の堪忍袋の緒を切れさせるには充分であった。


「お前、何が評価をしてくれてもいいだ。この体たらくでよく腕があると自負できるよ。スキー場とペンション、奴の犯行を止めるチャンスを全部無駄にしやがって。探偵を、仕事を軽く見てるだろ? そうだよ、だからお前の人生は躓いてばかりなんだ」


 猿渡の手が伸び、真介の胸倉を掴んだ。


「貴様に何が分かる……苦労知らずの金持ち小僧がよ」


 猿渡は顔を紅潮させ、真介の顔面を自身に引き寄せる。まだ酒を飲んでいないにも関わらず、酷いアルコールの臭いがした。永末が身を乗り出し、万力の握力で猿渡から真介を引き剝がす。


「魁への態度や牛尼の煽りに対しての反応から、あんたは高学歴の人間に対して多大なコンプレックスを抱いている。……貴様に何が分かるだって? 全てだ。俺は中田だけでなくお前の経歴も調べた」


 真介は掴まれた箇所のシャツの皺を伸ばすのに夢中で気が付かなかったが、猿渡の顔の色がなくなっていく。


「当時は裕福な家庭の長男として生を受けたお前は小、中、高と私立の学校に通い、優秀な成績を修め、有名大学への進学が決まっていた。しかし、高校三年生の時に父親が事業に失敗して蒸発。母親や下の弟達を養うべく大学への進学を諦め、高校卒業後は就職せざるを得なかった。

 確かに、自分に責任のない家庭の事情で希望していた大学進学の道が絶たれたことについては同情するが、せっかく就職した警察を初めとするこれまで就いた仕事も、無断欠席や暴力沙汰と、様々な問題を起こして免職になっているじゃないか。責務を何一つ果たさない無能以下、社会不適合者のお前に、事件解決のため奔走していた魁のことをとやかく言う資格はない。仮に父親の破産がなく大学に行けたとしても、お前の人生はきっと今と大して変わらなかっただろうよ」


 猿渡は腰を浮かせたが、真介の両脇に控える二人の巨漢の威圧と眼光がそれ以上の行動を許さなかった。しばらく両者は睨みあったが、間もなくその膠着状態は解かれることとなった。


「お待たせ致しました。ご注文のビールです」


 ウェイトレスが注文されたビールを持ってきた。すると猿渡は、灼熱の砂漠地帯で水を求めるかのように素早くそれを盆からひったくると、一気にあおって空にした。そして空になったジョッキをテーブルに叩きつけ席を立つと、フラフラと出入り口へと歩いて行った。顔はまるで、表情筋が切れてしまったかのようだった。


「おい待て、逃げるな!」


「いや、もういいんだ」


 吠える永末を真介は制した。そのあっさりとした態度を、杉山は訝しむ。


「ほったらかしにしていいのか? あいつ、お前のダチの仇の一人だろ」


「聞きたいことは全部聞けた。もう奴がどうなろうと、俺の知ったことじゃない」


 周囲から悲鳴が上り、その場が凍り付いた。猿渡が体勢を崩し、両膝両手を床につき、赤黒い、大量の吐瀉物を吐き出していた。そんな猿渡に真介は一瞥もくれることなく席を立ち、ドリンクバーへと向かった。

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