小森真介は山道を行くタクシーの車窓から、外界の景色を眺めていた。そこから見える首夏の長野は豊かな緑に覆われ、毎年のように見てきた季冬の白とはまた違った趣があった。
「この道を俺はあの二人を乗せて走ったんだ。二人とも仲良さげでさ、心から旅行を楽しんでいるみたいで、絵になっていたよ」
タクシーを運転する原田氏が懐かしむかのように、そして哀しむかのように語る。
「原田さん、もう一度伺いますが本当に運賃の方はよろしいのですか? 往復の金ぐらい俺、持ってますよ」
「気にするなって! 俺、今制服なんて着てないだろ? 会社から車だけ借りて、後はプライベートでやってるんだ。それに……」
原田氏の顔から笑顔が消える。
「向こうから頼んできたとはいえ、あんたの妹と友達をあんな所へ連れて行ったのはこの俺なんだ。多少の責任はあるってもんさ」
「……ありがとうございます」
「よせよ水臭い……って、ほら、着いたぞ」
原田氏はタクシーを停車させて二階建ての木造建築を指した。山奥の木々に囲まれたその建造物は厳かさ、そして平穏さがあり、例の手記に書いてある通り確かに、雪の中でのその姿はさぞ美しかったことだろう。
「俺はここで待っておくよ。どうせ大した時間いたりはしないだろ」
「はい、原田さん。それでは行ってきます」
「おう。……頑張ってこいよ」
真介はタクシーから降りると、その二階建ての木造建築……ペンション、スケープゴートに向かって歩き出した。
――去年の十二月。
当時真介は冬休みを前にし、里帰りのついでに友人の弓嶋魁とその家族を誘い、実家の家族と共にスキー旅行へ行く計画を立てていた。だが、里帰りをする直前に自身と魁の父親が高熱を出してしまったことと、会社を経営する両親に急遽仕事が入り、家をしばらく空けなくてはならなくなってしまったことで、旅行の計画は頓挫してしまったのだった。
「お兄ちゃん帰ってこれないの? わたし、魁くんに会えないの?」
電話越しで表情は見えなかったものの、妹の真理花の嘆きが伝わってきた。彼女は夏休みに親しくなった少年との再会を切に待ち望んでいた。真介は妹の望みを叶えるべく、無理を百も承知で魁に、一人で東京へ行き、真理花としばらく過ごしてくれるよう頼んだ。そして年下の友人は、笑顔でその頼みを引き受けてくれたのだった。
事態の急変を真介が知ったのは、魁が東京へ発って二日経ったころに掛かってきた電話からだった。
「真理花がいなくなった」
ろくな挨拶もなく開口一番、父は息子にそう告げた。
出張にあたって両親は真理花と息子の友人の世話をさせるべく、臨時で雇った家政婦を自宅へ派遣した。しかし自宅に着いたその家政婦が電話を寄越して言うには、家には真理花と魁の姿はおろか、人影一つないとのことであったらしい。報告を受けた両親が真理花が行きそうな場所や、彼女自身に直接電話を入れても一向に足取りを掴めなかったため、今度は彼女と共にいるであろう魁の連絡先を聞きに息子へ電話をした次第だった。
動揺する父のため、魁の連絡先を教えて電話を切ったが、真介は二人の安否を大して気にしていなかった。自身が高熱に苛まれていたせいで真理花達のことを考える余裕がなかったのと、過去にも同じようなことが何度もあれど、いつも彼女が無事に帰ってきたからだ。
しかし、それから数日が経ったころに再び掛かってきた父からの電話で、長野のとあるペンションで起こった殺人事件と、そこでの真理花の訃報を聞かされたのだった。このころには平熱に戻っていた真介はすぐに東京へ帰り、警察の検死を終えて自宅に帰されていた真理花の遺体と対面した。そして悲嘆に暮れる両親から、ペンションでの事件の内容と、妹の死の詳細を聞かされたのだった。
真理花と共にいた魁の口からも、長野のペンションで起こった事件について語ってもらおうと、入れ違いとなった彼に連絡を入れた。だが、どれだけ電話を掛けても魁が出ることはなかった。仕方なしに彼の両親に掛けたのだが、出てきた母親が言うには、帰ってきてからというもの、自分達とほとんど口も聞かず、部屋に籠もりっきりのまま出てこないのだという。
そしてその翌日、真理花の法事の準備をしている最中に掛かってきた電話で、半狂乱状態の彼の母親から、息子が自殺を図ったと聞かされたのだった。
呼び鈴を鳴らす前に鼻あてをつまんで、口に着けたマスクにずれが生じていないかを確認する。昨年の末に発生したウイルスは瞬く間に全世界へと蔓延し、人々は息苦しく不愉快な感冒マスクで顔の下半分を覆う生活を強いられていた。魁の予感が的中した訳だが、本人としても的中してほしくはなかった予感であったことだろう。
ボタンを押して呼び鈴を鳴らすと、軽快なメロディが辺りに響いた。それが鳴り止まぬ内に玄関の扉が開き、見ているこちらが心配になるくらいに痩せこけた初老の男性が出てきた。
「どうも初めまして、連絡をさせて頂いた小森真介です。柳沢太志オーナーですよね」
「はい、柳沢でございます。よくぞおいでになりました小森様」
柳沢オーナーも口元をマスクで覆っており、表情はよく伺えなかったが、人懐っこそうに顔をほころばせたようだった。
オーナーに促されて真介は建物に入る。内装はペールオレンジを基調とした明るさと暖かみのあるものだったが、自分達以外の人間が建物内にいる気配が無かったため、少しだけ寒々しさも覚えた。
「あの事件以降、お客さんの入りはどんな感じでしょう」
オーナーに連れられて廊下を歩いている時、多少の無礼を承知で真介は尋ねた。殺人事件が発生した上、ウイルスの蔓延を抑えるために人々が旅行等の遠出を自粛する中で、ペンションの経営は苦しいのではないかと思ったのだ。
「……正直に申しますと、酷いものです。ウイルスの影響もありますが、やはり人の悪意というものが一番つらいですよ」
柳沢オーナーはこちらに振り向きもせずに答えた。
「掛かってくる電話のほとんどがいたずらや誹謗中傷。たまにこられる方々も、殺人現場を見せてくれといった感じで……。ですが、ここであんな大事件が起こり、あまつさえ犯人がここの従業員だったとなれば、世間様のこの反応も当然なのでしょうがね」
溜息交じりのオーナーの言葉には、ある種諦めの念が孕んでいた。
真介は巨大なテーブルが中央に一つ置かれた大部屋へ案内された。ここがあの食堂なのだろう。
「どうぞ、適当にお掛けになって下さい。今、何かお飲み物をお持ち致します」
「お気になさらず。それよりも、私が送らせて頂いた弓嶋の手記はお読みになられましたか?」
真介は素早く近くの椅子に腰を掛けると、すぐさま本題を切り出した。
魁自殺の報から数日後、弓嶋夫妻から一束の手記が真介の元に送られてきた。魁が自殺を図る前、主に真介相手に向けて書いた物だという。読むのに難儀したものの、その全てを読み終えた真介は、手記を訳してコピーし、当時ペンションにいた者達へ送った。「この手記の内容について、いずれ直接お話をしたい」という言葉も添えて。
柳沢オーナーはテーブルを挟むことなく、真介の隣の椅子に腰を降ろした。
「拝読させて頂きました。お亡くなりになったのですね、弓嶋様は。しかも自ら……誠に残念です」
「柳沢さん、あなたは四ヵ月前にここで起こった事件の当事者です。当事者として、あの手記を読んだ感想も踏まえ、あの事件をどう見ますか。特に、弓嶋のことについてはどうお考えになられます。……彼の責任について」
長野県の小さなペンションで起こった殺人事件を、すぐに各報道機関は『現実に起こったクローズドサークル』、『推理小説のような事件』等と、センセーショナルに取り上げた。そんな中で某週刊誌のとある記事が世間の注目を集めた。事件の当事者を名乗るS氏という人物の証言をまとめた記事で、その記事の中でS氏は、事件を助長させたのはその当時、ペンションに宿泊していた大学生であると証言した。曰く、その大学生は捜査と称して事件現場に浸入し現場を荒らしまわり、犯人ではない別の人物を真犯人に仕立て上げて地下室へ監禁し、良心の呵責に耐えかねた真犯人を自殺へと追い込んだ。そして当の本人は何の罰も受けていない……。そのような内容の証言をまとめた記事であった。
この記事の影響により世間の人々はその大学生……弓嶋魁こそが事件の元凶であると認識し、憎悪を彼に向けたのだった。
柳沢オーナーは膝の上で指を組み、低い声で言った。
「……確かに、事件現場に入ったりと一部不適切な行動はあったそうですが、それが事件の元凶や助長とされるのは違うと私は考えます。岳飛の失言を指摘したせいで卯月が自死をしたというのも結果論でしかありません。……こんなことを言いたくはありませんが、あえて事件の元凶を挙げるとするならば、最初に卯月に乱暴を働こうとした中田氏。すでに亡くなった方とはいえ、彼こそ糾弾されて然るべき存在であるはずです。どう考えても弓嶋様を元凶呼ばわりするのは筋違いでしょう。世間の方々や、猿渡様がおっしゃられるように」
真介は話に相槌を打ちながらも、オーナーの話が終わるとすぐに口を開いた。
「私もそう思います。弓嶋は何も悪くはない。あいつが負うべき責任は何一つありはしない。ですが、本当にそれだけなのでしょうか。本当に責められて然るべき存在は、中田一太郎だけなのでしょうか」
柳沢オーナーが僅かに反応したのを真介は見逃さなかった。
真介は切り出す。
「手記に記されている、妹と弓嶋がタクシーでこのペンションに向かう場面。運転手の話によれば、去年の一月にここを訪れた男女の二人組の宿泊客がここの従業員と揉め事を起こしたそうですが、間違いありませんか?」
柳沢オーナーは黙って俯いた。マスクで覆われた表情はさらに伺えなくなかったが、真介は話を続ける。
「魁はその従業員を、性格の荒い岳飛ではないかと考えていたようですが、それは違うでしょう。卯月の話によれば、彼は事件のあった年の四月からここで働き始めたそうじゃないですか。一月に揉め事なんて起こせるはずがない。冬休みの期間中だったようなので、卯月もここにいたかと思いますが、手記での彼女の性格を鑑みるに、客と揉め事を起こすことはないでしょう。オーナー、あなたも然り。では、この従業員とは一体何者だったのか? 私はその従業員の素性を調べました」
まず真介は手記に記述されていた魁と真理花を乗せたタクシー運転手、原田氏を探し出し、そこから氏を通してタクシー会社の記録から去年の一月に会社へスケープゴートへの送迎を依頼したカップルの男の方の住所と電話番号を得て、連絡を入れたのだった。その男はスケープゴートでの一件以来、恋人との折り合いが悪くなり、それからひと月もしない内に破局してしまったらしい。
「その男性が言うには「ペンションでインターネットを使いたいから、ここにあるWi-Fiのパスワードを教えてほしい」と従業員に頼んだものの、その従業員は「俺が引いた回線を他人に使われたくはない。使わせない」と怒り出したそうです。オーナー、あなたが自分の息子だと紹介したその従業員は」
柳沢オーナーは肩を落とし、そして長い溜息を吐いた。まるで、身体中の毒気を全て吐き出すかのように。
手記には、ペンションには六人の宿泊客と三人の従業員がいたと記されていたが、筆者の魁が見落としていた十人目が存在していたのだ。篠原が手洗いを出た際に見かけた不審者の正体も、宿泊客の眼をはばかって潜んでいたその息子だったのだろう。
「当時、電話が壊れてしまったそうですが、それでもこのペンションは完全に孤立してしまっていた訳ではなかった。通信手段としてWi-Fiの回線がまだ残っていた訳ですからね。……私が思うに、弓嶋が真理花の死体を発見する直前に聞いた、あなたの言い争いの相手は息子さんで、救助を呼ぶためにWi-Fiの回線を使わせてほしい、パスワードを教えてほしいと、息子さんと交渉をしていたのではないですか? ですが結局、猿渡が直接警察を呼びに行った辺り、その交渉は決裂したようですがね。
あなたは何としてでも息子さんを説得して救助を要請し、宿泊客の安全を確保するべきでした。恥を忍んで息子さんの存在を宿泊客に明かし、相談するといった手もあったはずです。柳沢さん、あなたはペンションのオーナーとしての、そして父親としての責任を果たさなかった。違いますか」
天候が絶望的であったとはいえ、通報が早まり、その分早く警察がペンションに到着することができたのならば、隅野卯月の遺書にも書いてあったように、卯月の自首が早まり、彼女が自殺する結末を防げたかもしれない。
事件を増長させたという点で言うならば、この人にも当てはまるはずだ。
二人の間にしばらくの沈黙があった。
……まさか、いきなり逆上して襲ってきやしないだろうか?
ふとそんな思考が脳裏を掠り、真介の身体に僅かな緊張が走ったが、それは杞憂だった。
「……誠にお恥ずかしい話です。あなたの調査、推測、そしてご指摘は全て的確でございます。あの事件を増長させた責任は、この私にもございます」
「認めるのですね。自分の落ち度を」
「はい」
柳沢オーナーはマスクを外し、顔を上げた。その表情には痛みもあれど、どこかしら晴れやかさもあった。もしかすると彼は事件の後、一人悔恨の日々を送っていたのではないか。厳しい世間の批判や邪な人間がペンションにやってくるのを、己に課せられた罰なのだと受け入れて。
「小森様……少し、私事を話させて頂いてもよろしいでしょうか」
オーナーは澄んだ眼差しで真介を見据えた。真介も自身の落ち度も認めたこの人物を、これ以上責める気はなかった。むしろ、私事でも話を聴こうという気さえ起こった。
「かまいません。話して下さい、聴かせて下さい」
真介が促すと、柳沢太志は語り始めた。
――真介の推測通り、事件当時ペンションには魁達の他にもう一人、人間がいた。
三十年前に生まれた柳沢氏の息子、雄太である。
柳沢氏の元妻で雄太を産んだ女は熱心な教育ママ――の皮を被った異常者であった。学校が終われば数多の塾に通うことを強制し、勉強の妨げになるからと言ってテレビ等の娯楽、果ては友人を作ることさえ禁じ、雄太から勉学以外の全てを奪った。そして何か自分の気に障るようなこと――息子が満点以外の答案を持ち帰る、食事を食べるのが遅い等すると、一体何処で手に入れてきたのか、警棒で激しく彼を打ち据えた。回数、時間はその日その時で異なったが、決まって服で傷が隠れる箇所に限られた。
柳沢氏は最初の内こそ元妻の雄太に対する仕打ちを諫め咎めたが、元妻はその度に逆上し、終いには柳沢氏に包丁を突きつけたため、柳沢氏は仕事の多忙を言い訳にして家族から距離を取った。
柳沢氏は、母親の虐待から息子を見捨てたのだった。
破綻がきたのは雄太が高校生の時だった。中学までは学年でトップクラスの成績を納めてはいたものの、高校に進学してからはテストの点数が振るわず、成績も下から数えた方が早い順位にまで落ち込んでいた。また学校生活でも、学級委員等の責任ある役職に就いていたものの、それは彼に人望があったからという訳ではなく、面倒事を周囲から押し付けられていたからで、その面でも相当の精神的負担を抱えていたらしい。
成績の件で母親から罵倒され、例によって警棒で打たれそうになった時、雄太は遂に壊れた。男の腕力で母親の手から警棒を奪い取ると、それが折れて使い物にならなくなるまで、母親を叩きのめした。母親は一命を取り留めたが、教育という名の支配が失敗したことを悟ったのか、単に命の危機を感じたのか、退院してすぐに離婚届を置いて家を去ったのだった。
母親の重圧から解放され、騒がしい相手は力によって黙らせられることを知り、味を占めた雄太はそれまでの鬱憤を晴らすかのように、様々な娯楽にのめり込んでいき、遂には学校を辞め、家にこもってインターネットのオンラインゲーム三昧の日々を送るようになった。柳沢氏は何とか息子を外に連れ出そうとしたものの、その度に激しく抵抗しされ、時には暴力を振るわれた。
元妻同様に逃げ出したくはなかったのと、かつて一度息子を見捨てた負い目もあった柳沢氏は、今度こそは息子を救いたいと思った。そこで、以前から漠然と脳裏に描いていた自分の夢こそ、雄太の更生に良いであろうと考え、定年退職を機にそれまで住んでいた家を払い、それで得た金と退職金を使って長野の山奥に売りに出されていた土地を購入し、建物を建て、ペンションを開いた。電波も届かない自然豊かな山奥で心機一転、やってくる様々な客との触れ合いを通して息子の心、そして離れてしまった親子の仲をやり直そうと思ったのだった。――息子がペンションの名を『スケープゴート』等といった不吉なものにしたのは、様々な難事を押し付けられてきた自身の人生を反映させたのではないか。そう父は考察している。
ところがこれは、意味がない所か逆効果だった。幼少のころから勉強ばかりやらされていた雄太に人と、まして他人とまともな対話ができるはずもなく、客と顔を合わせる度にトラブルを起こした。当然、オーナーの柳沢氏の元には相当数のクレームが寄せられた。「一体、どんな教育をしたらあんなのが育つんだ?」、「あれを人前に出すなんて、あなたは何を考えているんだ?」。そして労働意欲にも乏しく、気に入らないことがあればすぐ居住区内の自室に引きこもり、父親に相談もせず勝手に引いたWi-Fiの回線を用いてオンラインゲームに興じた。特に去年の四月に入った従業員の岳飛との折り合いも最悪で、根は生真面目な岳飛は雄太のことを厄災の如く忌み嫌った。事件があった時にペンション内の電話が壊れていたのも、雄太が岳飛と大喧嘩をし、雄太が近くにあったそれの親機を岳飛に投げつけた結果だった。
ある時、雄太が部屋に籠もって最後まで客の前にその姿を見せず、そのまま客が帰ったことがあった。その客は帰り際にオーナーに対して言った。「このペンションは本当に素晴らしかった。お料理も、サービスも。またスキー旅行で長野を訪れる時は、是非またこのペンションを利用させてほしい」……その言葉を聞いたオーナーは、心に大きな穴が空いたような感覚がした。息子が自室から出てこない方が客も、そして自分自身も、穏やかな時間を過ごせるということに気が付いてしまったのだ。ペンションの経営者となり、そこで客から寄せられるクレームの数々によって皮肉にも柳沢氏は、初めて世間体というものを意識し始めていたのだった。
その後、ペンションの評判はそれなりに良い物となったが、当初の『親子の仲を修復する』という目標を達成することは永遠にできなくなった。
殺人事件が発生し、一刻も早く救助を要請しなければならない状況になっても、息子を説得してインターネットの回線を使うことが阻まれた。先ほど真介に指摘された通り、客に頼んで自分の代わりに雄太を説得してもらうこともできただろう。だがオーナーにとっては、姿の見えない殺人犯の存在よりも、人前に息子を出すことの方が遥かに恐ろしかった。
「……あなた様の妹様を、死に至らしめた責任も私にあります。事件が発覚した時点で迅速に救助を呼べていたのならば……詫び申し上げます。
私はオーナーとしても、父親としても失格です。子どもを母親からの虐待から見捨て、暴君となったその子どもを恐れた結果、あなたの妹様、ご友人、そして親友の娘を死なせました。
改めて申させて頂きます。弓嶋様には何の落ち度はありません。全ては、私の自分可愛さが招いた結果です」
――柳沢オーナーの懺悔が終わった。
真介は自分の首に、腰に、両足に何か重りでも着けられたような感覚がしたが、それでも何とか口を動かした。
「それで……雄太氏は今どうしているのですか。現在も、今もこのペンションに?」
「年が明けてから間もなく、自らここを去りました。事件で赤子のころから知っている卯月ちゃんが亡くなってしまい、あの子もあの子なりに思う所があったのでしょう」
柳沢オーナーは口元に悲しげな微笑を浮かべると、窓の方を向いた。外では豊かな緑の木々の葉が穏やかな風に揺られてカサカサと心地よい音を立てていた。
「小森様、あなた様のお陰で決心がつきました。私はこのペンションをたたみます」
「そんな、俺はただ……」
思わず真介は叫んだ。そこまでさせるため、ここへきた訳では無かった。まして、心からの反省の色を見せている人物に。
しかし柳沢氏は真介に向き直ると、ゆっくり首を横に振った。
「私には、卯月ちゃんや弓嶋様のように自らの過ちを命をもって償うほどの気骨はございません。何か責任を取ろうと思えば、このぐらいのことしかできないのです。ご容赦下さい。
それに、あなた様がご指摘した通り、私はお客様の安全を保証するオーナーとしての責任を放棄しました。もうオーナーをする資格などなかったのですよ。ですが本日、あなた様のお陰でようやく眼を覚ますことができました。感謝致します」
柳沢氏に深々と頭を下げられた真介に、返す言葉はなかった。
スケープゴートを去る前、真介は柳沢氏にペンション二階の一室を開けてもらった。
三号室。妹が友人とともに泊り、そして最期を迎えた部屋。一応死人が出た部屋であるため、事件から今日まで誰も泊らせてはいないそうだが、内装は整頓され、床にも埃は積もっていなかった。
「わざわざ開けて下さりありがとうございます。用事が済んだら鍵はちゃんとそちらへ持って行きますので。それで、妹が使っていたのはどちらのベッドですか」
真介に問われた柳沢氏は二つあるベッドの内、奥の窓際の方のベッドを指した。
柳沢氏から鍵を受け取って彼を下がらせると、真介は指し示されたベッドへ歩み寄り、その上に横たわる。
クリーム色をした珪藻土の天井が見えた。
――これが、あいつが最後に見た景色か。
性別が異なり、歳も大きく離れて色々と手が掛かったが、それでも可愛い、愛おしい妹であることには変わりはなかった。それは真介や両親以外の人々にも共通した認識であったようで、彼女の通夜、葬儀は年末であったにも関わらず、多くの同級生、教員、近所の人々が集まり、その早すぎる死を惜しんだのだった。
「真理花……」
目頭が熱くなり、そこから溢れた生暖かい液体がこめかみを伝った。布団を汚してはいけないと理性を働かせ、あわてて腕で涙を拭い、身体を起こしてベッドに腰を掛ける。
――柳沢太志はまだ良識を備えた人物であった。しかし手記の描写を見る限り、これから会おうと考えている残りの連中は、彼のようにそのような物は欠片も持ち合わせていない曲者ばかりだ。
しかしここで終えてしまう訳にはいかない。亡き妹の友人のために。
真介はベッドから立ち上がった。