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【第五章 推理なき解決】3

 何かを何度もけたたましく叩く音がして、ぼくは眼を覚ました。顔を上げて音のする方を向くと、部屋の扉が激しく揺れていた。


 時刻は朝の六時ごろだった。


 寝息の一つ立てない真理花を一瞥すると、ぼくは扉へ向かった。扉の前に立って鍵を開けようとした時、ふと頭の中を事件のことが過ったものの、あえて気にせずそのまま開けることにした。


 ――犯人の岳飛さんは地下に閉じ込められているんだ。別にこのまま扉を開けても何の問題はないはず……


 だが鍵を開錠した瞬間、素早く伸びた一本の黒く太い腕に胸倉を掴まれ、部屋の外に引きずり出された。


「こい」


 突然のできごとでぼくは声も上げられなかった。猿渡さんに引きずられて、一階の開け放たれた扉の中に連れ込まれた。その扉は『STAFF ONLY』のプレートが貼られたオーナー達従業員の居住区に繋がる扉だった。しばらく居住区の廊下を進んだ所で、ようやく猿渡さんはぼくの胸倉から手を離した。


「何をなさるんですか!」


「そこに入って、中のモノを見ろ」


 ぼくの抗議を意に介さず、猿渡さんは一つの扉を指した。この時の猿渡さんはなるべく平静を保とうと努めている様子だったが、それでも隠し切れない怒気を醸し出している。


 そんな猿渡さんに恐れをなしたぼくは、言われるがままにその扉を開けた。


 そこはバスルーム前の洗面所兼脱衣所だったが、すぐに湿った金属のような臭いが鼻腔を突き刺した。思わず後ろを振り返ったが、仁王立ちをした猿渡さんに気圧され、仕方なく中へ歩を進めるしかなかった。


 バスルームの戸は濃い曇りガラスが嵌め込まれていたが、そこから朧げに見える内部の光景は完全に緋に染まり切っており、戸の向こうに何が待ち受けているのかを容易に想像することができた。


「どうした、さっさと入れ」


 尻込みするぼくの脇腹を猿渡さんが小突く。背筋が冷たくなる。喉が乾いてきた。それでも何とか引手に震える手を伸ばすも、そこから横にスライドさせて戸を開けることはできなかった。


「腰抜けが」


 いつまでも戸を開けないぼくに、業を煮やした猿渡さんは引手を持つぼくの手を激しく払いのけると、自ら引手を掴み、叩きつけるかのように戸を開けた。戸が開け放たれたことで中に籠っていた臭いが一気に放出されて、思わず腕で鼻と口を覆ったものの、ぼくはその中の惨状をはっきりと、その眼で見てしまった。


 どうしても一番最初に視界に飛び込んだのは、毒々しい真っ赤な水の張ったバスタブだった。濡れた金属のような異臭は、ここから発されていたものだった。


 そして足元に眼を向けると、その血液の持ち主が横たわっていた。身体の殆どの血液が流れ出てしまったせいか、その人の肌は完全に色を失い、パックリ開いた左手首からは太いものや細いもの、様々な血管が無残に露出していた。


「卯月さん」


 粗暴な言動の目立つ兄に対し、穏やかで礼儀正しいしっかり者の妹。そんな隅野卯月さんが遺体となっていた。


 一体どういうことだ? 犯人の岳飛さんは猿渡さんとオーナーの手でしっかりと地下に閉じ込められているはずではなかったか。例え、何らかの方法でそこから抜け出したとしても、自らの妹を手に掛けたというのか。


「俺が数十分前にオーナーから叩き起こされて連れてこられたら、すでにこの有様だった。オーナーが言うには、起きて顔を洗おうとここへきたら、この小娘が湯船に左腕を突っ込んでいたそうだ」


 猿渡さんは数枚の紙を取り出すと、ぼくに押し付けた。その紙は便箋で、繊細な文字で文章が綴られていた。


「洗面台の上にあった。この小娘が死ぬ前に書いたものらしい」


「猿渡さんそれって」


「とにかく読め。そして自分のしたことを思い知れ」


 水気の多い洗面台の上に置かれていたせいなのか、それともこれを書いた当人の流した涙のせいなのか、便箋は所々よれていた。


 猿渡さんの「自分のしたこと」という言葉を訝しみながらも、ぼくはその便箋の文章……もとい、卯月さんの遺書を読み始めた。

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