部屋の中は踏み込んだ時と何も変わっていなかった。それはベッドの上に横たわる真理花も例外ではなく、彼女の瞼は固く閉じられたままだった。
「真理花、岳飛さんは地下へ閉じ込められたよ」
声を掛けるも、当然返事はない。
どうした訳か、真理花を殺した岳飛さんに対して何も怒り等の感情を抱くことはなかった。捜査攪乱の目的もあったのだろうが、何かとぼく達に気を遣ってくれた彼を、恨むことができなかった。彼にも何かしらの事情があったような気がしてならないのだ。
頭から流れ、その可愛らしい顔を汚している一筋の血が眼に付いた。バスルームへ行き、少し水で湿らせたタオルを持ってくると、すでに凝固したその血を丁寧に拭き取った。……今思えば、これは後の警察の捜査の妨げになったかもしれない。だがその時、脳裏にそれがよぎったとしても、ぼくはこの行動を止めなかっただろう。
血を拭き取っていくその中でふと、以前真介から語られた真理花の破天荒なエピソードを思い出した。
真理花が保育園に通っていたころの話。ある日突然、真理花が行き先も何も言わずに行方をくらました。一日掛けて彼女を探し回るも、とうとう見つけることができなかった。
事故か? ……まさか誘拐?
両親が警察に捜索願を出そうとした矢先、父方の祖父母から電話が入り、真理花が東京から飛行機を用いて、たった一人で沖縄の自分達の家へやってきたと告げられた。遠足に行くことを許可してくれなかった両親に対する当てつけであったらしい。真理花はしばらく祖父母宅で過ごすこととなったが、そこでも精力的に活動し、現地の人間ですら滅多に見ることのできない動植物をいくつも探し出して、人々の度肝を抜いたという。
真理花が羨ましかった。例え、どれだけ両親に反発心を抱いたとしても、ぼくにはこんな度胸も行動力も持ち合わせていない。
だがもう、そんな強情で破天荒な女の子はぼくの前で亡骸となっている。
血を拭き終えて、真理花の顔を改めて見た。短い付き合いではあったものの、その関係は兄の真介と同様、本物のきょうだいのように濃密なものだった。おそらく彼女もそう思ってくれていただろう。
もっと彼女と一緒に過ごしたかった。真介も交えてスキーもしたかった。
時計を見ると、すでに十時を回っていた。手足が重く、相当の疲労を身体が感じているにも関わらず、不思議と少しも眠くはなかった。
「真理花」
布団をめくった。真理花は両手を胸の上に乗せていた。その姿はまるで、すでに棺に納められているかのようだった。
……話があるの……
倒れる直前の真理花の言葉を思い出した。一体、彼女は最後にぼくに何を言おうとしていたのだろうか。当然事件の話ではあろうが、事件が解決した今更、考えても仕方がないだろう。
ぼくは膝を付いて生前以上に青白くなった真理花の横顔を眺めている内に、いつしか彼女の横たわるベッドに顔を埋めて眠りに落ちていた。
――ぼくはこの事件に対して様々な後悔がある。
強引に真理花を旅行へ連れて行ったこと。
通信手段が乏しく、吹雪になれば孤立するようなペンションを宿泊先に選んだこと。
嫌がる真理花を誘って殺人事件を捜査したこと。
そして、全てが終わったのだと思い込み、事件について少しも考察をしなかったこと。
岳飛さんのあの発言。もしかするとあの後、気が変わって現場を覗き、凶器が花瓶であると知ったのかもしれない。決定打となった中田さんの財布にしても、誰かが岳飛さんに罪を着せるため、彼がいない隙に部屋に忍び込んで置いたものだったのかもしれない。
少し考えれば、いずれも決定的な証拠にはなり得ないのだ。
――後に今述べた考察は全て間違いであるのが分かるのだが、それでもこうして考察を……推理を重ねていくべきだった。もしかするとそうしていく内に真相まで辿り着き、最後の悲劇を未然に防ぐことができたのかもしれないのだから……