「先生、真理花の容態はどうですか」
牛尼先生が談話室に入ってくると、ぼくはソファから立ち、彼女の元へ駆け寄った。
真理花は食堂で倒れた後、柳沢オーナーと岳飛さんの手で三号室に運ばれた。ぼくは真理花についていたかったのだが「服を着替えさせる」と牛尼先生と卯月さんから許可されず、こうして談話室で待つしかなかったのだ。
「何とか今は安定して眠っているわ。ところで魁くん、以前にも小森さんがさっきみたいに倒れたことがあるのはご存知かしら」
「えっ?」
初耳だった。真理花も真介も全然そのような話をぼくにしてくれなかった。……二人のことだからきっと、ぼくに気を遣ってくれたのだろう。
「今年に入って、最近のものだと十月の下旬に倒れてね。彼女、生まれつき身体が弱いの。低くない頻度で、ほとんど突発的に発作を起こしてはああして気を失っているのよ。ただ、ほとんどの場合は救急搬送して処置しなければならないような大事には至らず、一時的な発熱だけで済むけどね」
そう牛尼先生は言うが、彼女は朝からたびたび汗を流していた。微かではあるが予兆はあった。そんな体調の優れない真理花をぼくは捜査に付き合わせ、凄惨な遺体を見せるなどして負担を掛け続けたのだ。
ぼくは深い後悔に沈んだ。
「そうだったんですね。ぼくがもう少し、彼女に気を配っていれば……」
牛尼先生はぼくの脇を通り抜けていき、先ほどまでぼくが座っていたソファに腰を降ろすと、静かにぼくを見据えた。
「それで? パートナーの小森さんは倒れちゃったけど、どうするの捜査の方は」
「それは……」
正直、真理花が倒れたことで捜査のことなど、どうでも良くなっていた。その時のぼくはただ、真理花の一刻も早い回復を願っていた。
牛尼先生は軽く俯いて溜息を吐いた。
「いくら有名大学に通っているエリートとはいえ、殺人事件の捜査は一人じゃできない……か。確かに殺人事件といえば警察でも、何十人という単位で経験豊富な警察官が捜査に当たるというのに。やっぱり小説に出てくる探偵みたいに一人で真実を暴くなんて不可能な話だったわね」
故意に牛尼先生は、ぼくの精神を逆撫でしようとしているのが分かった。
「きっと小森さんは今、失意の中にいるでしょうね。せっかく現場に赴いて、人から話を聞いて、色々と推理もしたのに発作を起こしてダウン。おまけにパートナーのやる気はもう無いときた。悔しいでしょうね、ここまでやってきたというのに」
あえて挑発的なことを言ってぼくを奮起させようという狙いなのだろう。だが確かに先生の言っていることは一理ある。ぼくは真理花を想い、牛尼先生のこの挑発に乗った。
「……そうですね。ぼくまでここで立ち止まってしまったら、今までの捜査が無駄になってしまいますよね」
牛尼先生は満足げに微笑を浮かべた。
「そうだ、犯人が開けたと思しきペンションの裏口を見ていませんでしたから、見てきます。何か犯人に繋がる痕跡が残されているかもしれません。捜査再開です」
そしてぼくは談話室を後にした。
裏口の正確な場所がよく分からなかったぼくは、しばらくペンションの一階を探索した後、最後に『STAFF ONLY』と書かれたプレートが貼り付けてある扉の前に立った。探索の結果、裏口の扉らしき物はどこにもなかったので、裏口がありそうな残りの場所といえば、この関係者以外立入禁止の従業員の居住区の中しかないと思ったのだ。
鍵は掛かっていなかったが、仮に発覚しなかったとしても、『STAFF ONLY』の場所に断りもなく侵入するのは抵抗があった。
……また岳飛さん辺りに頼んで入れてもらおうか。
そう考えていた時、扉の向こうから声が漏れてきた。好奇心に突き動かされたぼくは、入るのはともかく開けるのはセーフだろうと、少しだけ扉を開けて聞き耳を立てた。
途切れ途切れではあったものの、聞こえてきたのは怒号だった。どうやら二人の人物が言い争いをしているらしい。
「この期に及んでまだ――使わせてくれないのか」
言い争いをしている一人は柳沢オーナーだ。彼はいつもの平身低頭で穏やかな口調をしていたが、今の彼の声には明かな『恐れ』が伺えた。
そんなオーナーに対してもう一人の人物が言い返す……言い返していたのだと思う。声の太さからして、相手も男性であるらしかったが、何を言っているのか、その内容を聞き取ることはできなかった。もはやあれは理性、知性のある人間の言語を用いた反論ではなく、どちらかといえば、パニック映画にでも出てくる得体の知れない怪物の咆哮だった。
ぼくは瞬時に消去法を用いてオーナーと言い争っている相手を考察した。ぼく自身と一方のオーナー、亡くなった中田さんを除けば、このペンションにいる男性は岳飛さんと猿渡さんの二人だが、猿渡さんはずっと部屋に引き籠っているため、残る口論の相手は岳飛さんとなる。しかし、あの人はどんなに激昂した状態になろうとも、あんな怪物めいた声は出さないだろう。
岳飛さんでもないとしたら、オーナーが言い争っている相手は一体誰なのだろうか?
「……弓嶋様」
「うわっ!」
考えを巡らせていると突然、誰かがぼくに覆いかぶさり、床へ押し倒してきた。背中を強打したのと、一緒にもつれるようにして倒れてたその人物の身体が、そのままぼくの胸部を圧迫したせいで息が詰まり、ろくに声も上げられなかった。
誰だ? 中田さんを殺した犯人か? まさかぼくを殺そうと?
ぼくはパニックに陥り、瞼を固く閉じて手足をばたつかせたが、ぼくの軟弱な力ではその人物を押しのけることはできなかった。しかし、特に何もされることなく、間もなくその人物自らぼくの上から退いた。胸部の圧迫が無くなり、まともに息ができるようになって多少パニックから立ち直ったぼくは、瞼を開けてその人物の顔を見ることができた。
「……卯月さん?」
ぼくを床に押し倒したのは隅野卯月さんだった。
「いきなり何をなさるんですか」
ぼくは立ち上がったが、卯月さんの方は弱々しく床にへたり込んだままだった。彼女のその顔は蒼白だった。何かショッキングなことがあり、それを急いでぼくに知らせようとしたのだと察した。
そしてその時、なぜか真理花の顔が脳裏に浮かんだ。
「どうしたんですか。何があったんです」
膝を曲げて床に膝をつけ、卯月さんと同じ目線にする。
「……どうしてこんなことに……」
卯月さんの顔が歪んで、次々と眼から涙が溢れ出す。埒が明かない。
「何があったんです。……答えろ」
ぼくは卯月さんの肩を掴んで激しく揺すった。やがて彼女はか細い声を喉から絞りだした。
「……小森様が」
それだけ聞ければ十分だった。卯月さんの肩から手を離すと廊下を走り、階段を駆け上がり、三号室へ急いだ。
三号室に鍵は掛かっていなかった。部屋に飛び込んで視線をあらゆる方向に向けて真理花の姿を探した。
床にばら撒かれた造花と黄色い花瓶が転がっているのが眼に入り、その後すぐに真理花の姿を捉えた。真理花は布団を被ってベッドに横たわっていた。遠目で見れば眠っているように見えた。
「真理花」
しかし、そうでないことは近くに寄ればすぐに分かった。彼女の額から一筋の血が流れていた。反射的に頬へ手を伸ばしたが、その白い肌に手が触れると、まだ微かに温かみはあったものの、数年前の母方の祖母が亡くなり、埋葬直前にその手に触れた時のあの、名状しがたい死の冷たさが呼び起された。
真理花が死んだ。
彼女にはもう、学校に行って勉強に精を出したり、友人達と笑い合うことはできない。父親に欲しいものをねだったり、母親に今日の夕飯が何かを尋ねたり、兄やぼくと遊びに行くこともできないない。
それらを理解するのとほぼ同時に、ぼくは意識を失ったのだった。