目次
ブックマーク
応援する
1
コメント
シェア
通報

【第三章 吹雪の山荘】2

 朝食の始まる八時まで、まだ時間はあったけれど、ぼくと牛尼先生、篠原先生の三人は一足早く食堂に入った。テーブルの上の食器類を並べていた卯月さんが顔を上げ、笑顔をぼく達に向ける。


「おはようございます牛尼様、篠原様、弓嶋様。何かお飲み物をお入れ致しましょうか」


 声こそは張っていたが、先ほどの岳飛さんと同様、どこかしら疲れているような印象を受けた。やはりペンションの従業員というのは激務なのだろう。色々な雑務もあるだろうし、何より常に赤の他人の宿泊客と接さなければならない。気が短くて細い人が続けるのは、非常に困難だろう。


「それじゃあ、コーヒーを頂こうかしら」


「ぼくもコーヒーをお願いします」


「私は紅茶で」


「かしこまりました。少々お待ち下さい」


 卯月さんが厨房に引っ込むと、ぼく達は昨日と同じ席に座った。


「しかし、酷い天気になりましたね」


 窓から吹雪を眺めながらぼくは先生達に言った。


「一応、こうなることは昨日の内から覚悟していましたが、やはりこうして現実のものとなると残念です」


「滑ることを楽しみにきている人達にとってはそうでしょうね」


 牛尼先生の顔はどこか安心したような印象を受けた。


「先生は楽しみじゃなかったのですか、スキーは」


「正直に言うと、屋外で身体を動かすことよりも屋内で本を読んでる方が好きなの。あなただって本当はそうなんじゃない? 佳子にしても、料理目当てでここにきたみたいなものだし」


「失礼ね。わたし、スキーも好きよ」


「食べることには劣るでしょ。……でも確かに、外の空気を吸えないのは気持ちが萎えてくるわね。早く止んでくれないものかしら」


「お待たせ致しました」


 卯月さんが各々が頼んだ飲み物や、砂糖とミルクの入った容器を盆に載せて持ってきた。恰好をつけてブラックコーヒーに挑戦してみたぼくだったが、結局一口飲んだ所で大量の砂糖とミルクをカップに投入した。甘党のぼくの舌が大人になるのは、まだまだ先のことなのだと痛感した。


 飽和状態一歩手前のコーヒーを半分ほど飲んだ時、猿渡さんが食堂に入ってきた。


「おはようございます、猿渡さん」


 猿渡さんはぼくの挨拶を無視すると、昨日とは異なるぼくと離れた席に座った。……もう、この人と仲良くなるのは諦めた方が良さそうだ。


 朝食の始まる八時が近づいてきた。厨房から上品でおいしそうな香りが漂ってくる。


「真理花ちゃんと中田さんがまだね。一体どうしたのかしら」


 牛尼先生が心配そうに言った。


 昨日から推理小説の話ばかりしているせいか、ぼくの胸中に不安が込み上げてきた。


「少し、様子を見てきましょうか」


 腰を上げようとした時、食堂の扉の向こうから騒々しい足音が近づいてきた。そして勢い良く扉が開かれる。


「申し訳ありません、寝過ごしました!」


 真理花だった。胸中の不安が消える。


 彼女は小走りでぼく達と同様、昨日と同じ席に向かい、腰を降ろした。


「おはよう真理花ちゃん。心配しなくてもいいわよ、まだ時間になってないから。それより大丈夫? 完全に息が上がってるけど」


「日頃の運動不足がこんな所で祟るとは思いませんでした……」


 真理花の額には玉のような汗がいくつも浮かんでいた。今度は何だか申し訳ない気分になる。


「ごめん真理花。アラームが鳴った時点で起こせば良かったね。水でも貰ってこようか」


「ありがとう、大丈夫。心配いらないから」


 そう微笑むと真理花はセーターの袖で汗を拭う。上った彼女の息が整うまで少し時間が掛かった。


 岳飛さん、卯月さんが食事を運んできた。


「おおっ! 今度は和食ですか」


 卯月さんに尋ねると、彼女は誇らしげに答える。


「はい、当ペンションではお客様に飽きがこないよう、お食事は洋食と和食を交互に出すようにしているのです」


 雑穀米の炊き込みご飯に根菜の味噌汁、鰈の煮付け、漬物のたくわん。小鉢には茶色い豆が沢山盛られていた。いつもシリアルやオートミールを朝食にしているぼくにとって、これは新鮮だった。


「……申し訳ございません。これ、食べられる方はいらっしゃいますか?」


 真理花が小鉢を持ち、ぼく達の眼前に軽く掲げた。小鉢を持つ真理花の手は親指、人差し指、中指の三本で、その先端しか使っておらず、まるで汚物でも持っているかのようで、更に眉間に皺を寄せて歪めたその表情は、心の奥底から不快を訴えている。


「あら真理花ちゃん、あなた納豆が嫌いなの?」


「存在自体、認めたくないです……」


 牛尼先生の問いに、真理花は溜息交じりで答える。昨日のにんじんとは異なり、百年経ってもそれは克服できそうになさそうだった。


 ――納豆。これがそうなのか。


 ぼくは改めて自分の手元にある、小鉢に盛られた茶色い豆を見た。大豆を用いた発酵食品であるが、その独特な見た目や味から、日本人ですら好き嫌いの別れる食べ物であるという。その存在は小説等から得た情報で知識として知ってはいたが、こうして実物を見るのは初めてだった。よく見ると、細かな糸を数多に引いているのが分かった。確かに好き嫌いの別れそうな食べ物であるというのは頷けたが、真理花がここまで嫌悪するその姿で、返って興味をそそられた。


「嫌いなものを無理に食べる必要はないわ。佳子、代わりに食べてあげなさい」


 牛尼先生は納豆の入った小鉢を真理花から受け取ると、それを篠原先生のランチョンマットの上へ置いた。


 八時になった。


 厨房から柳沢オーナーが出てくる。


「皆様、おはようございます。……中田様は、いらっしゃらないのですね……」


 オーナーは一瞬だけ、げんなりとした表情を見せた。昨日の篠原先生の一件が尾を引いているのだろう。その篠原先生を横目で窺ってみると、数多の青筋が額に走っていた。


「オーナー、おれ、ちょっと様子見に行きましょうか」


 岳飛さんの申し出をオーナーは制す。


「ありがとう。だが私が行こう。……皆様、申し訳ございませんが、今しばらくお待ち下さい」


 オーナーが食堂から出ていくと同時に大きな舌打ちがぼくの右隣の席から発せられ、食堂に響いた。視線が岳飛さんと合うと、「だから言っただろ」と言わんばかりに肩をすくめてみせた。……確かに、篠原先生とは距離を置いた方が良いかもしれない。


 そして一、二分ほどが経ったころ、再び外から慌ただしい足音が聞こえてきたかと思えば、オーナーが食堂に飛び込んできた。


「大変だ!」


 オーナーは飛び込んでくるなり叫んだ。


「外から声を掛けても返事がないから、鍵を開けて中を見たら……」


 先ほどの真理花と同様にオーナーも息が上っていた。しかし彼女と異なる点は、彼が完全なパニック状態に陥っていたという点だろう。ぼく達はそんなオーナーの様子から、何かただならぬ事態が起こったことを悟った。


「どうしたんですオーナー。何があったんです」


 岳飛さんと卯月さんがオーナーに駆け寄る。二人の若者に心配されて多少は落ち着きを取り戻したのか、オーナーは息を整えると、ぼく達に告げた。


「中田様が亡くなっております」

この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?