食堂の中央には大きな長方形のテーブルが一つ置いてあり、そこに座って宿泊客全員が一緒に食事をする形式だった。そのテーブルには三つ、凝った彫刻の施された燭台の上に置かれた蝋燭が灯りを発していた。LEDか何かを用いており、本物の蝋燭ではなかったが、それでもそのオレンジ色の灯りが、暖かで幻想的な雰囲気を食堂に醸し出していた。
適当な席に腰を降ろすと、間もなく料理の品々が柳沢オーナー、岳飛さんの手によって運ばれ、眼の前に敷かれたランチョンマットの上に並べられる。主食には小ぶりな丸いパンが二つ。副菜に色とりどりの野菜のサラダ。チーズが掛けられたハンバーグにフライドポテト、にんじん。緑の葉の浮いた黄色のスープ。小さなガラスの小鉢にはデザートのフルーツポンチが入っていた。
七時になった。
柳沢オーナーが申し訳なさそうに告げる。
「定刻となりましたが、まだ二人のお客様がこられておりませんので、もうしばらくお待ち頂けないでしょうか」
「はあ?」
露骨に不服の声を上げたのは、ぼくの右隣に座る篠原先生だった。
「どういうことなの。こっちは何より食事を楽しみにこんな僻地まできたっていうのに」
「誠に申し訳ございません篠原様。お客様全員が輪となり、共に食事をして頂くのが当ペンションの方針でございますので……」
「遅れてる奴なんて置いていけばいいじゃない!」
篠原先生が吠える。彼女は激昂していた。先ほどのまでの寡黙と陰気さが嘘のようだ。
オーナーはほとほと困った様子で眼を泳がせる。岳飛さんは冷めた眼差しを篠原先生に向け、友人の牛尼先生は眼を閉じて素知らぬ顔だ。ぼく自身はと言うと、そんな彼等の様子をただ、おどおどと見ることしかできなかった。
そんな場を破ったのは彼女だった。
「篠原先生」
ぼくの真正面に座る真理花は、穏やかな笑みをたたえながら篠原先生に語りかける。
「その人達がペンションにきてるのは確かなようですから、もう少し待ちましょう。ですが、あまり待っているとせっかくの料理も冷めてしまいますから、オーナーさん、もう後五分経ってもそのお二方がこなければ、食事を始めてもよろしいですか」
「かしこまりました、そのように致しましょう。篠原様、よろしいでしょうか」
「……五分ね。これ以上は待たないから」
女の子に諭されて多少頭も冷えたのか、篠原先生は再び椅子に腰を降ろした。……しかし、楽しみにしていた食事をお預けにされたとはいえ、年甲斐もなく激昂するような人が担任ならば、きっと教え子達の気苦労は絶えないであろう。
真理花の方を見ると、眼を閉じて大きく息を吐いていた。大の大人に意見するというのは、見た以上に辛労だったのかもしれない。
それから一分と経たない内に、卯月さんが二人の男性を連れて食堂に入ってきた。二人とも背が高くて色の黒い人達だったが、共通点はそのぐらいで他は対照的だった。
一人は金髪の線の細い身体の若者で、スポーツサングラスを掛けて耳のいたる所に金銀のピアスを付けていて岳飛さんと似た雰囲気をしていたが、こちらの方が様になっている(レストランで女性を口説こうとしていた人だ)。
もう一人は四十ぐらいの年齢で、黒髪を短く切り揃えた強面のがっちりとした体格の男性。大きな眼に対して、異様に小さな黒目が印象的だった(トイレの前でぼくと鉢合わせた人だ)。
「いやあ、遅れちゃってすみません皆さん。……先に食べちゃってても良かったんですがねえ」
強烈な眼光で睨みつける篠原先生には眼もくれず、若い男性はそう声を張りながら真理花の隣の空いた席に座る。もう一人の強面の男性も黙って空いた席……ぼくの左隣に腰を降ろす。どうやら二人は偶然、同じ時に食堂へきただけで、一緒にペンションにやってきた知人同士という訳ではないらしい。
岳飛さんと卯月さんが皆の希望するお酒やジュースの種類を聞き、それをグラスに注いで回る。当然お酒の飲めないぼくと真理花、体質的に受け付けないのか牛尼先生はオレンジジュースを頼み、それ以外の人達はワインやビール等のお酒を頼んだ。
「それでは全員揃いましたので……」
自身も赤ワインの入ったグラスを手に取ったオーナーの意図を察して、ぼく達も各々のグラスを手に取る。
「乾杯!」
オーナーの音頭で乾杯がされて、夕食が始まった。
「おいしい!」
切り取ったハンバーグを一口食べると、そんな感想が自然と口から漏れた。慣れ親しんだ洋食ではあったものの、作った人の腕が良いのか、それともこのような特別な場所で食べているせいか、いつもよりおいしく感じられた。
そんなぼくの様子を見て真理花が笑う。
「魁くんは和食の方が良かったかなと思ったけど、嬉しそうで何よりね」
「真理花ちゃん、素敵な彼氏を手に入れたみたいだけれど、彼とはどんな経緯で出会ったのだっけ?」
からかうように牛尼先生に問われ、真理花が答える。
「元は兄の友達で、今年の夏休みに兄の所へ遊びに行った際に出会ったんです。普段は彼、兄と同じN大学に通っている大学生でして……確か、学部は文学部だっけ?」
「大学生!?」
真理花の言葉に場が驚きで湧いたが、一番反応したのは隣に座るがっちりとした体格の男性だった。
「お前、大学生なのか」
顔を向けられるとほのかにアルコールの臭いがした。先ほどの乾杯の一杯だけではなく、ここへくる前にも相当量の酒を飲んできたのだろう。
「はい。楽しい勉学の日々を送らせて頂いてます」
「そうかあ……大学か。大卒か。いいものだな」
「あなたのお名前は?」
「猿渡だ」
「猿渡さんもスキーをするためにこちらへ?」
「何しにきたって別にいいだろ。お前には関係ない」
そう言うと猿渡さんは視線を片手に持ったビールの入ったグラスに戻し、まだ半分以上残っているそれを一気に呷った。そして、卯月さんに対しお代わりを注文する。
猿渡さんは、ぼくと仲良くするつもりはないらしい。
「オーナーさん、わたし、気になっていることがあるのですが」
真理花がふと、柳沢オーナーに声を掛けた。
「はい、何でしょう」
「このペンション、当初から変わった名前だなと思っていたものでして……何か由来があるのですか?」
このペンション、スケープゴートに泊まることを決めたのは小森邸で真理花に語ったように、あまり有名ではなく、山奥にあるようなペンションという条件に、ここが合致していたからであったが、何よりも人に不吉な印象を与えるその名前を、推理小説好きのぼく達が気に入ったからだった。だが、考えてもみれば確かに、訪れる人々に温かみを感じてもらえるよう外観や内装に配慮している反面、なぜ責任転嫁等を意味する言葉をペンションの名前にしたのだろう。ぼく達のような物好きはともかく、これでは普通の感性をした人は泊まることを忌避するのではなかろうか?
「やはりそう思われますか。そう思われますよね」
問われた柳沢オーナーは顔を強張らせるも、すぐに苦笑した。
「ペンションを始めるにあたり、名前を何にするか息子に相談したところ、これが良いと強く言われましてね……そのまま押し切られてしまいました」
六十ぐらいと思われる柳沢オーナーの年齢を鑑みれば、おそらくその息子さんは成人だろう。
その胸中には一体どのような想いがあったのだろうか?
「息子さん、なかなか面白い感性の持ち主のようですね。もしも知り合えたのなら、良いお友達になれそうです。……そういえば、その息子さんは一緒には働いていないのですか?」
「ええ、まあ……。息子にも息子の人生がありますからね」
「それじゃあ、なんのお仕事? 収入はいいのかしら」
「止めなさい、露骨過ぎるわ」
遠慮なく尋ねる篠原先生を、牛尼先生が制止する。オーナーも苦笑いしていた。
ふと真理花のハンバーグプレートを覗くと、ハンバーグやフライドポテトは既に平らげてしまっているのに対し、にんじんだけがぽつんと残されていた。
「どうしたんだい真理花。にんじん、食べないのかい」
「うん……。わたしね、にんじんのような甘味のある野菜は好きじゃないの。普通の甘いお菓子は大好きなんだけど」
食事の手を止め、少し恥ずかしそうに真理花は答えた。
「それじゃあ、ぼくが食べてあげるよ。その代わり、ぼくのポテトを食べてくれないかな」
「じゃがいも嫌いなの?」
「……どうも、ボソボソとした触感が好きになれないんだ」
「へえ、魁くんにも食べ物の好き嫌いがあるんだ」
「そっちこそ。でも、いつかは食べられるようにならなくちゃね」
「百年くらい経ったらね」
こうしてぼく達は楽しく夕食の席を囲んだ。
――思い返せば、これが六人の宿泊客と三人の従業員が一同に集まり、穏やかに過ごした最初で最後の時だった。