翌日、ぼくと真理花は早起きをして新幹線を用い、長野県のKスキー場に向かった。
今シーズンは例年よりも温暖な気候であり、積雪量が心配だったがそれも杞憂で、辺り一面を美しい純白の雪が覆いつくしていた。
ぼく達はウェアを含めてスキー用具を一式レンタルすると、すぐに滑り始めた。
生まれて初めてのスキーに真理花は上機嫌だった。体力の乏しい彼女は少し滑れば息を切らして休憩を入れたものの、筋自体は並外れており、一時間も練習すれば完璧にパラレルスタンスをすっかりマスターしてしまっていた。
楽しそうに、美しく、そして大胆にスキーを楽しむ真理花の姿に、ぼくの心に僅かにあった、彼女を強引に連れ出したことに対する罪悪感は、すっかり消え失せてしまっていた。
――後の事件とはあまり関係のない話であろうが、このスキー場にて、ペンションで出会う二人の人物の姿を見たので、一応記していくこととする。
昼時となったので、ぼく達はいったんスキーを打ち切り、スキー場のレストランで食事をする事にした。頼んだ料理を待っていると、一人の若い男性が、真理花の後ろの席で一人食事を摂っていた、茶髪でやや化粧が濃い女性の向かい側の椅子を引いて座った。親し気に言葉を発する男性に対し、女性の方は顔が強張っていた。やや強引ではあるが、彼は好みのその女性を口説こうとしていたのかもしれない。しばらくすると、女性はまだ料理が残っているにも関わらず、席を立って逃げるように足早にレストランから出て行った。男性もさっと席を立つと、その後を追った。
そして昼食を終えた直後。スキーを再開する前に、ぼくはトイレに行きたくなったため、レストラン内の男子トイレに向かった。すると、ちょうどトイレから出てきた体格の良い男性と鉢合わせになった。彼は素早くぼくの脇を通り抜けると、しばらくの間店内を見渡した後に、やや慌てた様子でレストランから出て行った。
その姿はまるで何かを、誰かを探しているかのようだった。
少し気になる二人ではあったが、その時は生理現象の解消が最優先であったため、ぼくは今日まですっかりこのことを忘れてしまっていた。
日が暮れだしたころ、ぼく達はスキーを終えた。予約を入れたペンションへ向かうべく、近くを通り掛かったタクシーを呼び止めて乗り込んだ。
「おや、これは可愛らしいお客さん達だ。恋人同士かい」
ぼく達が乗ったタクシーの運転手さんは、そんな冗談を言ってくる陽気な人だった。
ぼくは運転手さんにスマートフォンの画面に表示した地図を見せて、行き先を伝えた。目的地のペンションは人里から相当離れた山奥にあったものの、運転手さんは以前にも行ったことがあると、快く引き受けてくれた。
ぼく達を乗せたタクシーは人里を離れ、どんどん寂しげな道へ入っていく。まるで外界からの人間を寄せ付けない、異世界に入っていくような感覚だった。
「スケープゴートって、一体どんなペンションなんだろう。楽しみだなあ」
真理花の言葉に、運転手さんが答える。先ほどとは異なり、少し暗い声だった。
「……お楽しみの所、水を差すようで悪いけどさ、あまり期待しない方がいいかもだよ。スケープゴートでしょ?」
「何か、問題でもあるのですか?」
「俺さ、今年の初めにお客さんの依頼で、そのスケープゴートへの送迎をやったんだよね。その時のお客さんは明るくて仲良さげなカップルだったんだけど、帰りの時は二人とも、不機嫌にムスッと黙り込んじゃってさ」
「喧嘩でもしてしまったのではないでしょうか?」
「ポツポツと聞こえてくる会話を聞く限りだと確か、ネットがどうだとか、従業員がこうだとか言っていたな……。おそらく、スマホの電波が悪かったからクレーム入れて従業員と揉めたとか、そんな所だろう。最近の若い連中は皆インターネットが大好きだからな。それを奪われちゃ不機嫌にもなる」
「あ……本当だ」
スマートフォンを取り出して真理花が呟く。見ると、画面の左上に小さく『圏外』の二文字が出ていた。人里から離れている場所をあえて選んだとはいえ、まさか電波の届かない場所だとは思わなかった。
それから数十分後、タクシーはその建物の前で停まった。
「わあ……」
運賃を払い、タクシーを降りてそれを見上げた瞬間、雪明りに照らされた、二階建てのログキャビン風の建物が眼に飛び込んできた。木材がふんだんに使われたそれはまるで、無骨な人の手による人工物ではなく、大いなる自然による自然物のように感じられる。分厚い雪に覆われたその姿が壮麗で、思わず声が漏れた。
「素敵……」
彼女もぼくと同じ感想を抱いたのだろう。口から白い息を吐きながら真理花が呟く。
「お二人さん、明日はどうするんだ。良かったら俺が迎えにきてやろうか?」
運転手さんが車窓を開け、そこから首を出し、こちらへ問い掛ける。ぼくが答えるよりも先に、真理花が名残惜しそうにかぶりを振った。
「お心遣いには感謝致しますが、ご遠慮させて頂きます。……ほら」
真理花が手をかざすと、フワフワと小さな綿毛のような雪がその小さな手に舞い落ちた。
「もしかすると、今晩から明日に掛けて吹雪くかもしれませんので」
「おっとこいつはいけねえ、早く戻らねえと。ありがとうな、お嬢ちゃん」
空模様を確認した運転手さんは車窓を閉め、再び車のエンジンを入れる。タクシーが走り去るのを見届けると、ぼく達はチェックインするべく玄関へ向かった。その僅かの道中、真理花がぼくに言った。
「あの原田って運転手さん、朗らかでいい人だったね。ペンションにいる人達も皆、あの人みたいだといいね」
ぼく達はペンションでのまだ見ぬ人達との出会いに心を躍らせたのだった。