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第31話

 東京都内、とある路地裏の暗がりを男は一人で歩いていた。

 覚束ない足取りでふらふらと右へ左へ彷徨いながら、やがて力尽きたようにその場へ崩れる。

 男の名前は柊木亜心。

 株式会社安泰世界の専務取締役であり秘密結社アンチ・ワールドの幹部である男だった。

 立ち上がることを諦めて路地裏の薄汚れた壁にもたれ掛かった彼は胸ポケットからスマートフォンを取り出し、通話をかける。

 彼の荒い息と発信音だけがその場にある音。

 通話は三コール目ぴったりで繋がった。


『柊木さん災難でしたねオフィスは完全に崩壊ですけれどあなたが無事で何よりでした』


 スマホのスピーカーから発せられる男と女の声を行ったり来たりするように変調する耳障りの悪い機械音声が、一定の抑揚で矢継ぎ早にそう言った。


「無事とは言い難い有り様ですがね……。お恥ずかしい話、逃げ出すことで精一杯でした」


 すっかり憔悴しきった声でそう返す柊木の声には、言葉ほどの悔恨や後悔は無いようだった。


「……破壊子ちゃんの方はどうなったか、状況は分かりますか?」

『あちらも失敗に終わったようです鈴桐咲良も近くにいた報道陣も生徒達も誰一人死傷者は出なかったようです破壊子ちゃんはその場を脱したようですが今どこにいるのかは分かりません』

「そうですか……。計画は失敗ですね、言い訳のしようも無く。申し訳ありません」


 大して申し訳無さそうには見えない様子で謝罪の言葉を口にする柊木。

 それはまだ彼が再起を諦めていないということの表れでもあったかもしれない。

 負けは負け、失敗は失敗だ。

 しかし一度の敗北で何もかもがお終いになるほどアンチ・ワールドは脆弱な組織ではない。

 だから彼は焦っていなかった。そもそも、彼にとってこの仕事は死ぬまでの単なる暇潰しでしかない。ただアクションゲームでやりごたえのある困難なステージに出会ったというくらいの感覚だった。


『柊木さんしばらく地下へ潜りましょう今後社会は幸福会にとって風当たりの良い方向に変わっていくと思われますつまり私達にとっては雌伏の時です』


 ヒーローが表舞台に上がり活躍したことで社会はまた一段と盛り上がるだろう。そして大勢は彼らを歓迎するムードで固まるはずだ。

 結局、なんだかんだ言っても人はヒーローを求めるものだ。

 しかしそれは裏を返せば、人が常日頃から絶望に苛まれていることの証左でもある。

 本人がそれと自覚していないほど小さなものであっても、日常に潜む小さな不安が、将来への漠然とした危機感が、正義のヒーローという分かりやすい英雄を求める心を作る。

 よってヒーローが望まれる社会は常に、安泰世界にとって商機に溢れているのである。


『心配することはありません人は絶望から逃げられないようにできています人が人として存在する限り』


 崩壊左衛門の言葉に、柊木は無言のまま同意した。


 ◇◇◇


 咲良が運び込まれた病院――最近ちょくちょくお世話になっている病院――の屋上で、僕はスマホを耳に当ててバイト先のボスと会話していた。


「というわけで、咲良に幸福会を辞めさせたいんですけど、どうすればいいと思いますか?」

『それを聞くか、我に、幸福会の代表である』


 男のものとも女のものとも言えない、抑揚の乏しい合成音声との会話に一抹の不自由さを感じながら、僕は話を進めた。


「保護者としては、切実な問題ですよ。今回だって酷い目に遭ってたんですから」


 身体的な負傷は僕がK3システムを利用して治療したものの、精神的な疲れもあって咲良は病室のベッドで寝ている。彼女の友人二人に病室のことはお任せして、僕は一人で屋上にいた。


『度々連絡してくるな、お前は。似たような内容で、咲良に関する』


 感情が介在しないはずのその機械音声が少し呆れているように感じられて、業腹な気分になる。


『その度に出ているだろう、同じ結論が。奴は変わらない、うちでバイトをしていようがいなかろうが』

「……まったく、どうしてあんな子に育ってしまったのやら」

『それはお前の責任だ、保護者である。我のせいではない』


 そんな台詞に僕はため息をつくしかない。

 僕のせいだと言われてしまえば、それは完全にその通りだ。否定のしようが無い。

 けれどかと言って、今更何かを変えられるかというと何も変えることなどできない。


『精々気を配ってやることだ、これまで通り』


 結局現状維持が一番なのかと思い至った僕に対して、わざわざ言われずとも分かっているようなことを幸福丸が言う。


『宇宙の未来には必要だ、お前達の健やかな幸福も』


 そんなスケールの大き過ぎる言葉を残して、通話は向こうから勝手に切れた。


「……僕は別に、宇宙の未来とかどうでもいいんですけど」


 必要なのは精々、僕らが笑って生きて笑って死ぬ間くらいのひと時でいい。

 宇宙の寿命から見れば一瞬にも満たない取るに足らない時間だ。ビッグクランチだかビッグリップだかビッグフリーズだか知らないけれど、僕には一切の関係が無い。

 宇宙がどんな終焉を迎えようが、僕達は瞬きのような時間を自分らしく生きるだけだ。


「咲良の人生は、咲良のやりたいように生きればいい、か……」

「私がどうかしたの?」


 屋上の手すりに肘をつき夕日に向かって独りごちていた僕は、後ろから不意に投げかけられたその一言で虚を突かれた。


「どしたの、そんなに慌てて。何か恥ずかしい一言でも口走ってたの?」

「いや……。ただ咲良の人生は咲良がやりたいように生きればいいと、思っていただけだよ」

「……恥ずかしい男だね、弥生」


 そう思うけれど、面と向かって言わなくてもいいと思う。


「ところで、どうしたんだいこんな所まで来て。友達二人はどうしたのさ」

「そろそろ遅い時間だし、帰ってもらったよ。私も特に身体の不調とか無いしね」


 そう言いながら彼女は僕の隣にやってきて、先程まで僕がやっていたのと同じように手すりへ肘をついた。

 しばらくの無言。

 やがて真っ直ぐ夕焼けに目を向けたまま口を開く。


「……弥生、いつもありがとね」

「どうしたんだい急に」

「たまには言っておかないといけないような気がして」

「お礼なら普段からそこそこもらっていると思うけれど」

「全然足りてないよ。弥生の隠れた思いやりに対しては」


 そんな言葉に、僕は隣の彼女を見やる。

 頬が朱に染まって見えるのは夕日のせいか、果たして。


「私がこうして自分らしく生きていられるのは、弥生のお陰だ」

「……夕焼けには、恥ずかしいことを口走らせる力でもあるのかな」


 だとすると困ったものだ、本当に。


「やっぱり弥生は、今も昔も私にとってのヒーローだね」

「……おかげで、今日も赤字だよ」


 二人で見る夕焼けの赤は、それでもとても綺麗だった。

 心地良い温かさと映えるような煌めきを世界に残し、太陽は沈む。

 かけがえのないような時間の中で、今日も一日が終わっていく。

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