二人の友人とは川原で別れ、救急車で念の為に病院へと運ばれた咲良は「濡れた服のままでは良くないから」と与えられた検査着に着替え、病院の屋上に設置されたベンチへ一人腰掛けていた。
検査の結果は全て異常無し。検査入院の必要も無しと認められ、今は事情を掻い摘んで説明し着替えを持ってくるよう頼んだ弥生が到着するのを待っているだけだ。
わざわざ誰もいない屋上に上がって来たのは、院内だとスマートフォンによる音声通話に気が引けたからだった。いつの間にか着信履歴に名前のあった相手に折り返しの通話を発信する。
薄手の検査着で夕方の屋上は結構冷える。相手がどんな用件で電話を寄越したのかは知らないが、さっさと話を終えて中に戻ろうと彼女は思った。
通話は三コール目ぴったりで繋がった。
スマホの画面に相手の登録名が表示される。
幸福丸。
正式名称は長いので呼び名も登録名も短縮形の幸福丸で通しているが、正しくは大宇宙救済解放幸福丸。
彼女が働くバイト先のボス。特定非営利活動法人幸福会の代表理事――ということになっている、異次元生命体だった。
『――したようだな、無茶を。随分と、今回は』
通話が繋がるや否や、お互いの名乗りも行わず幸福丸は単刀直入にそう話し出した。
その声は男のものとも女のものとも言えない合成音声で、抑揚にも乏しい。今の世の中はもっと流暢に喋る機会音声などいくらでもあるのだが、その不自然な声は彼が好んで使用する、一昔前に作られた非人間的な音声だった。
「ご心配をおかけしましたか? すみません。ちょっと手持ちのお金――K3ポイントが乏しかったもので、システムを使う余裕がありませんでした」
対する咲良は淡々とした口調でそう答える。
通称K3ポイント、正式名称を救済解放幸福ポイント。
それは幸福丸が司るK3システムを利用する為に必要なポイントで、彼が発行し、彼がその仕事の報酬として支払っているものだった。
幸福丸が代表を務める幸福会と雇用契約を結んだ者はK3システムの使用権を得て、報酬として支払われるK3ポイントを消費することで超常の現象を制御できる。
それは例えば、不特定多数の瞬間移動であったり、物体の空中浮遊であったり、特注スーツへの変身であったりする。
『悪いということだ、立ち回り方が。枯渇するということは、ポイントが』
「そうは言われましても。もう少し報酬の歩合率を上げてもらえるとありがたいんですが。或いはシステムの使用に必要なポイントを下げていただくとか」
幸福会の活動内容は悩める人々に救済の手を差し伸べ、精神を幸福へと導くこと。職員にはその出来高に応じてポイントが提供される。要は人を救った分だけ報酬のポイントが増える。
三パターン想定される宇宙終焉シナリオの内で唯一宇宙の新生に繋がる可能性がある【ビッグクランチ】。宇宙全体が一つの特異点にまで収縮し消滅する結末。そんなビッグクランチを望んでいる幸福丸はダークエネルギー――宇宙へ広がるダークマターによって生まれる重力に対し、反発する負の圧力――を吸収する為、地球人類の精神総和を幸福へと傾けることを目指している。
しかしそんな理屈は、咲良にとってはどうでもいいことだった。
幸福丸も法人の職員に対して自身が目指す宇宙の未来へ同調することなど求めていない。ビッグクランチが実現するにしても、それは最短でも今から約二十八億年後の未来の話。現代の地球人類にとってはどうでもよすぎることだ。
彼女はただ自らの望む生き方を実現する為に幸福会を利用しているだけ。
そして幸福丸もまた、自らの目的の為に彼女を利用しているだけに過ぎないのだった。
「実は弥生からお小遣いを止められてしまいまして……。今の私は、本当に一文無しのすっからかんなんですよ」
K3ポイントは日本国内で使用可能な幾つかの電子マネーに変換可能で――無論非正規の方法で実現されており、幸福丸が勝手にやっていることだ――逆もまた同様に可能だ。
その為咲良はポイントを使いすぎて活動に足りなくなった際には、弥生からもらったお小遣いを変換することで補填していた。
幸福会の活動における報酬として入ってくるポイントよりも支出するポイントの方が多いというのは咲良の活動方法に無駄が多いということなのだが、生憎と彼女にはこの活動で利益を得ようという意識が皆無であった。
『支払われるが、固定給も。正規雇用を選べば、アソシエイト職員ではなく、
「あはは、私はまだ高校生なので。バイトで満足ですよ」
幸福丸からの勧誘を軽く笑って受け流した後、咲良は言う。
「それで、幸福丸さん。こんな世間話をする為にわざわざ電話をかけてきてくださったんですか?」
『無論違う。タワーマンション崩壊の件だ、昨晩起こった』
その話題に、咲良の眉がぴくりと動く。
『気を付けろ、咲良。超常の手によるものだ、我らと同じ。火災と崩落は、マンションに起こった』
「……幸福会のメンバーがあの事件を引き起こしたということですか?」
昨晩の事件が普通ではないということは、彼女自身も気が付いていた。それが自分の使っているものと同じような、常識外の手段による力で引き起こされていたということにも。
『そうではない。手を引いている、異次元生命体が、我とは別の』
「なるほど……。まあそういうことも、あるんでしょうね」
そもそも幸福丸という存在自体が常識外れなものだ。
彼とは目的の異なる彼の同類が新たに現れて自分達の邪魔をしていると言われても、今更驚く理由は無かった。
「分かりました、気を付けます。……とは言っても、私のやることは変わりませんが」
『それでいい。我らの使命だ、救済こそが』
感情の無い合成音声でそんな決まり文句を述べた後、取って付けたように幸福丸は続けた。
『それと言っておけ、弥生に一つ。たまには仕事を受けろと、我からの』
「ああ、はい、わかりました。覚えていたらですけど」
そんな咲良の気のない返事を聞き届けるよりも早く、幸福丸の方から音声通話が切断された。
沈黙したスマホに不満げな表情を向ける咲良。
その直後、病院屋上の扉が音を立てて開いた。
「咲良、ここにいたのか。捜したよ」
聞き馴染んだ声に呼ばれ、咲良は表情を穏やかなものへと戻しそちらに向き直って駆け寄る。
「あっ、ごめん弥生。わざわざ着替え持ってきてもらっちゃって」
「それはいいけどさぁ……」
ため息混じりにそう返して――弥生は駆け寄ってきた咲良の頭を平手で叩いた。
「痛っ!? えっ、痛っ!? なにすんのさ弥生!」
それほど力の込められた平手ではない。むしろ威力としては軽く小突く程度だ。にも関わらず大げさなまでのリアクションを見せる咲良。
彼女にとっては「弥生に手を上げられた」という事実が物理的衝撃よりも精神的衝撃をより強いものにさせた。
「でぃ、DVだ! 弥生はDV男だったんだ!」
愕然とした表情でそう騒ぎ立てる彼女に、弥生は息を吐き出しながら首を横に振った。
「本当ならもっと怒ってもいいくらいだと思うけどね。橋から飛び降りた女性と一緒になって川へ落ちたって聞いたよ、咲良」
ぎくり、という擬音が聞こえてきそうな様子で咲良が硬直する。
彼女は病院に運ばれて着替えが必要になった事情を、川岸で足を滑らせて川に落ち頭を打ったと説明していた。随分間抜けな言い訳だが、それでも本当のことを話すよりかは小言の量が少なくなるだろうと踏んでのことだった。
しかしどういうわけか――恐らく下で看護師や医者から話を聞いたのだろうが――弥生は事情を詳しく把握してしまったらしかった。咲良の様子が急にしおらしいものに変わる。決して誇れることではないのだが、彼女は弥生から怒られることに関しては一家言ある少女だった。
「ええと、その……。ごめんなさい」
「謝られたって仕方がないよ。どうせ咲良は何も悪いと思っていないし、反省していないんだろう」
腕を組んで呆れたような表情を見せる弥生。残念ながら彼もまた、彼女に対する説教には慣れているのだ。
「そ、その言い方は不本意だよ。私だって悪いと思ってるし、反省もしてる。ただ、もう一度同じ状況に出会っても同じ選択をするというだけで」
「じゃあやっぱり、謝られたって仕方が無いよ」
再度大きな吐息を溢して、弥生はゆっくりと腕組みを解く。
そして正面から咲良を見つめてこう言った。
「僕は君にあんまり無茶をして欲しくなかったから、K3システムが使えないようにお小遣いを抜きにしたんだけどね」
言いながら彼女を見つめる目は困ったようで悲しげな瞳。
咲良としても、いつもの小言に対してするのと同じようには反論できなかった。
「けれど、僕が甘かったようだ。いや、軽く見積もっていた。君はK3システムを使えようと使えなかろうと、生き方は変わらないんだよね」
そんな諦念のこもった声に咲良は黙って頷く。
彼女が人を救うような活動を続けているのは、救済を目的とする幸福会でバイトをしているから――ではない。
どちらかというと、人を助ける為には幸福会で働いている方が便利だったから籍を置いている――というに過ぎない。
弥生が言うように、K3システムを使えようが使えなかろうが生き方は変わらない。
彼女にとって人助けは、生きることに等しい。
決して仕事ではない。
かつて同じように人から救われた彼女は、ただただ誰かに伝えたいのだ。
この世界には、絶望の淵からでも救われる程の奇跡と温もりが存在するのだということを。
「だから、お金を取り上げたところで意味は無い。どちらにせよ危ないことをされるのなら、十分な金額を持たせておいたほうがむしろ安全というものだ」
「……つまり?」
「今月のお小遣いを抜きにするという決定は、撤回するよ。苦渋の決断ではあるけどね」
「……やっぱり弥生ってさ、私に対して甘過ぎるよね」
そんな咲良の指摘が面映ゆかったのか、弥生は彼女にくるりと背を向けて、屋上の扉へと足を向ける。
「とはいえ、僕の本音は「こんな割に合わないバイトはさっさと辞めて欲しい」だ。それは忘れないでくれよ」
せめてもの抵抗とばかりに声を張り上げた彼の背中を、咲良は満面の笑みを浮かべて追いかけた。