今朝の一件なんてまさしく彼女らしいという一言で表せるようなものだった。
咲良は何故奈留が突然家へ遊びに行くと言い出したのか、その理由が今ひとつ分かっていない様子だったが、私としては察しが付いた。楽勝だ。奈留とは中学からの付き合いだし、大体その思考パターンも想像できるというものだ。
大方、毎月毎月金欠に喘ぐ咲良のことを疑問に思い、弥生とかいう保護者代わりの男から搾取されているのではないかと心配したのだろう。
些か思考が飛躍しているのではないかと言いたくなるが、奈留の心配自体は分からないわけでもない。単純に賛同もできないが、明確に否定もできない。故に「分からないわけでもない」という二重否定表現が丁度良いくらいの心持ちだった。
咲良の家庭がどうにも訳ありだということは、高校に入ってからの短い付き合いしかない私達にも容易く察せられていた。咲良の金がどこへ消えているのか分からないという疑問ももっともなものだった。
ただ、だからといって、咲良がその弥生という男に寄生されているのではという想像が受け入れられるかというと、話は難しい。
私は弥生という男のことをよく知らない。
けれど咲良という友達のことは多少なりとも知っている。
咲良は楽観的で間の抜けた奴だが、決して馬鹿ではない。胸の内に自分なりの信念を持っていて、いつだってそれに基づいて行動する――そんな一本芯の通った奴だ。
そんな咲良が歳上の男程度に良いように扱われているとは、私には思えなかった。
咲良はそんな馬鹿じゃない。
「ほんとさぁ、腹立つよね。自分の分の食事は最低限でいいとかほざいて食費を抑えるよう口うるさく言ってくるのに、奮発した牛肉で好物のハンバーグ作ったら、目に見えて上機嫌なんだよ。美味しい物で喜ぶ癖に強がるなって話だよね」
「うんうん、そうだねぇ」
「マジで信じられないくらいドケチなんだよ。服とかも全然新しいの買わないし。昔私があげた靴下未だに補修しながら使ってるし!」
「うんうん、ケチだねぇ」
「家だって私と再会するまではせっまい風呂無しに住んでたし! でも一緒に住むことになったらオートロック付きの2LDKに引っ越すし! 別に同じ部屋で寝起きすればいいのに!」
「うんうん、よくないねぇ」
「普段ケチな癖に私がお小遣い欲しいって言ったら頭おかしいような額送り付けてくるし! けどそれを一晩で遣っちゃって謝ったら「お金を持っていたらいつまでも危ないことを辞めないから」とかいうわけわかんない理由でお小遣い抜きにされるし!」
「うんうん……。何の話だっけ?」
咲良はそんな馬鹿じゃない――と思っていたのだが。
学校からの帰り道、奈留から弥生という男の人となりについて聞かれて語り始めた咲良は、なんだかすごく馬鹿っぽかった。
これって惚気聞かされてるだけなんじゃないの?
うんうんと相槌を打っている奈留も笑顔の奥で「目論見が外れたなぁ」という感情を隠しているようだった。
「まあとにかく、弥生はそんなケチで腹立つ男だから、わざわざ会いに来るほどの価値は無いよ」
それは次の土曜日に私と奈留が家へ遊びに行くという約束を踏まえた咲良の台詞。
これまでの話、聞いているこちらとしては惚気られている以外の何ものでも無かったのだが、本人としては弥生という男のネガキャンをしていたつもりらしかった。
どうやら私達とその男を引き合わせるのは本意じゃないらしい。
「――いや、俄然興味が湧いてきたな」
「紅歌!?」
これまで相槌を奈留に任せていた私が急に強い興味を示したことで、咲良は虚を突かれた様子だった。
「お前がそこまで言う相手だ。これは、実際に会ってみないわけにはいかないだろ」
咲良の家への訪問を奈留が言い出した時、私は別に乗り気じゃなかった。ただ単に今の奈留を解き放てば暴走して人様に迷惑をかけかねないという危惧から同行する気になっただけだった。
けれどこれまでの咲良の話を聞いて、私は奈留とは別の理由で、咲良の家に行ってみないわけにはいかないという気分になっていた。
行って、直接会ってみたい。
咲良が気を許す、弥生という人物に。
咲良は普通の女子じゃない。
誤解を恐れずに言えば、人としてもどこか歪だ。
言動、立ち居振る舞い、端々に見え隠れする精神性。
それらから私は、咲良に対して単なる友人に抱くには相応しくない印象を抱いていた。
楽観的で間の抜けた少女。
けれどそれはあくまでも表の顔であると感じていた。咲良という少女は、その一面だけではない。
正義感が強いのかと思えば、そうとも言えない一面もある。他人に対して甘いのかと思えば、時折聞いているこちらの気が引けるような強烈な一言をぶつける時もある。けれどいずれの場合にも、彼女には彼女にしか分からない一本の芯が通っているようだった。
私達は、高校生になってからの数ヶ月間しか彼女のことを知らない。それまで彼女がどういう人生を歩んできたのかを知らない。
知りたいという思いと同時に、知ってはいけないという予感もある。
直感に過ぎないけれど、それは彼女の深淵に繋がる要素である気がするから。
私達が知らない彼女は、彼女が私達に見せない自分だ。単なる友人には見せられないような自己。
けれどそれを、彼女は弥生という人物に対しては隠すこそなくさらけ出しているように見受けられる。
弥生という男に対するそれ程の信頼感が、彼について語る言葉や声色に滲み出ていた。
だから気になる、会ってみたい。
この鈴桐咲良という私では計り知れない少女が気を許す弥生という人物に。
「――紅歌、救急車!」
不意に傍らから駆け出した咲良に短くそう声をかけられて、私ははっと、何事かと目を見張る。
そして彼女が走って向かう先に目を向けると――今まさに、橋の欄干から一人の女性が飛び降りるところだった。
黒い女性用のスーツを纏った、所謂OL然とした服装の女性が宙に身を投げ出し、頭の後ろで結わえられた髪の毛がふわりと上向く。
その一連の流れが、私には不自然なくらいゆっくりとした動きに見えた。
けれど実際の時間は通常の早さで進んでいる。
危ない! と思っても、身体は自由に動かない。
しかしそんな中で咲良は、学生鞄を路上へ投げ捨て猛然と女性に向かって走っていく。
そのまま跳び上がって欄干を越え、落下を始めた女性の身体に空中で抱きつくようにして飛びかかる。
そして二人の身体はそのまま、橋の下へと落ちていった。
途端に体感していた時間の早さが元へと戻る。
橋の陰に隠れて二人の姿が見えなくなる。
「〜~ッ!」
「きゃ――ッ!」
切羽詰まった思考の中で、直前に咲良から投げかけられていた言葉を覚えていた私はほとんど反射的に鞄からスマートフォンを取り出して、橋へと駆け寄る。
ほぼ同時に聞こえてくる、どぼんという鈍い水音。
橋から身を乗り出して下を見ると、ちょうど肩に女性の腕を担いだ咲良が川面から顔を出したところだった。
そう言えばこの橋の下は川だったな――という思考が遅れてきて、どうやら無事な様子の友人の姿にほっと息が漏れる。
それは隣の奈留も同じだったようで、隣から気の抜けた声なのか吐息なのか分からないものが聞こえてきた。
「こ、こらっ、ちょっ、暴れないで! 落ち着いて下さい!」
「いやっ! 離して! 死なせて! 構わないで!」
気が抜けたのも束の間、橋の下からばしゃばしゃという水音と共に咲良と女性の言い合う声が聞こえてくる。
事態はまだ解決したというわけではない――咲良から言われていたように、即座にスマートフォンで119番にダイヤルした。
数度のコール音を聞きながら、咲良について、やはり到底計り知れない奴だなと私は認識を新たにしていた。