今日はおかしなことばかりだ。普通では考えられないようなことばかり起きる。
日頃の疲れが祟って自分だけが変なものを見てしまっているのだろうかと真っ先に疑ったけれど、消防隊の仲間も警察の人達も、どうやら同じ光景を見ているらしいからこの世は狂っている。
冷静に、目の前で起こった出来事を振り返ってみよう。
私達に残っていた使命は、住民の全員が救出済みのマンションで続いている火災を消し止めるだけだった。上層階にまで火の手が回ってしまっていたので鎮火するのは容易じゃなかったけれど、住民が既に残っていないという情報は幸いだった。
第一、レスキュー隊の一員として現場に赴いていた私の主任務は人命救助であり、消火活動ではない。なので救助対象全員の安全を確認できたこの現場は、不謹慎ながら気が楽なものであった。その住民の救出についても常識では到底納得できない現象を伴うものだったけれど、今はそれについては考えないでおこう。どうせ私に答えは出せないし、更に混乱するだけだ。
なにより今は、目の前の出来事で精一杯だ。
消火作業中のマンションが突然倒壊を始め、この私、吉祥寺蒼花(きちじょうじそうか)は大して長くもない人生の終焉を悟った。
今になって状況を振り返ればその倒壊もまた理屈を無視したおかしなものだったけれど、その瞬間はとにかく、差し迫った命の危機だけを感じていた。
ばらばらに崩壊し降り注いでくる瓦礫の数々。私だけじゃない、この現場にいる誰しもが危険な状況だった。
父と母と妹の顔が順に脳裏を過ぎっていわゆる走馬燈が駆け巡るくらいには、私は死という概念を直感していた。
しかし実際に訪れたのは、建物の倒壊による無秩序な破壊ではなかった。
降り注ぐ瓦礫は途中でぴたりと落下を止め、その場で浮遊し、一つひとつ順序よく地上へ降りてくる。現場の人間に危害が及ばない距離を保っているかのように、ふわりふわりと瓦礫の山が整理されていく。
まるで現実とは思えない。私はその光景に釘付けだった。いや、この場にいる人間全員が食い入るようにその一部始終を見つめていた。
声を発することも、吐息を漏らすこともできない。息をすることも忘れていた。
誰も彼もが何も言わずにただ同じものを見つめる、そんな異様な空間。
そこで私はふと、少女の声を耳にした。
「はぁ……。弥生からもらったお小遣い、早速全部遣っちゃったなぁ……。どうしよう、流石にこれは怒られる……」
諦念に満ちた、そんな呟き。
どこか間の抜けた、この場には不釣り合いなその声に私は自然と顔を向けた。
そこにいたのは、奇抜という一言では片付けられない服装をした謎の人物。
フルフェイスのヘルメットと身体に張り付くような素材の白いスーツは特撮戦隊ものに出てくるヒーロースーツを彷彿とさせるけれど、それだけじゃない。関節部や背中などには軍用の高機動パワードスーツを思わせるフレームやモーターが目立ち、単なるコスプレじゃないということが分かる。
そんな謎の少女に――ヘルメットのバイザーで顔は隠れていたが、その体つきと声から少女であるのは確実だった――私は思わず声をかけた。
「これは――あなたがやっているのですか? あなたは、一体……」
普通であれば、こんな常識も理屈も無視した現象を一人の人間が意図して引き起こしているとは考えられない。
けれど目の前の異様な少女には、何故だかその荒唐無稽を納得させるような雰囲気があった。
ただ者ではない。この直感は、恐らく確かなものだろうと思う。
私の問いかけで少女は初めてこちらに顔を向けた。ヘルメットのせいで視線はどこへ向いているのか分からなかったけれど、真っ直ぐに見つめられたと私は感じた。
「すみません、その質問にはお答えできません。実はあまり目立たないように言い含められていまして……。詮索しないでいただけると助かります。私のことは、通りすがりの一般人ということでお願いします」
質問には答えられないと言っておきながら、訳ありであることを隠そうともしない返答だった。
「……目立たないようにと言っても、この場にそんな格好じゃあ、注目を避けるのは無理じゃないかしら。きっと報道陣のテレビカメラとかにも捉えられていると思うけれど」
「あちゃあ、参りましたね。……まあ今回はちゃんと変身してるし、状況が状況だったから仕方が無いと開き直れるか……」
後半は恐らくただの独り言なのだろう。
参りましたねと言いながらそれほど参った雰囲気を感じさせない声色。バイザーの奥では笑っているのではないかと感じさせるくらいに気安い声。案外、彼女自身は人目に付くことについてそれほど頓着していないのかもしれない。
「取り敢えず、レスキュー隊のお姉さん。後はこの場をお任せしちゃっても大丈夫ですか?」
そんな彼女からの問いかけに私ははっと我に返る。
気がつけば、彼女との問答の間で瓦礫の整理整頓は終わっていたらしい。タワーマンションの跡地にコンクリートの山が積み上がっていた。
そして瓦礫の浮遊という超常現象が終わったからなのか、周囲が再びざわめき始めていた。不可思議な光景に目を奪われていた人々も少しずつ辺りを窺い始め、不思議な格好をした彼女の存在を意識に捉える者も出てきているようだった。
「だ、大丈夫です。ご協力、ありがとうございました」
喧噪を取り戻してきた現場で、私は気が付けばそんな答えを返していた。
立場的に本来であれば、彼女には今回の事件における重要参考人として留まってもらうことを依頼するべきだったのだろうけれど、そんな常識的な思考は残念ながらどこかへ行ってしまっていた。恐らく、立て続けに非常識な出来事にばかり遭遇してしまったせいだろう。健全な感覚が麻痺してしまっていた。
そんなわけで。
私の返答を受けて小さく頷いたかと思えば颯爽と上空へ跳び上がった彼女は、夜の闇へ溶けるようにして消えていった。
もうそれくらいのことでは、私の心は乱されなくなっていた。