東京都のとあるタワーマンションで発生した火災は住民こそ謎の転移現象により救出されたものの、その炎の勢いは未だ衰えを知らず、暗い夜空を煌々と照らしていた。
地上には消火活動を続ける消防隊と、現場の交通整理に当たる警察、そしてその警察の周りを取り囲むようにしてマンションや救出された住民達へカメラを向ける報道陣の姿があった。
瞬間移動という超常現象の理屈はともかく、既にマンション住民全員の安否が確認できた状況ということもあってだろうか。
大規模な火災現場にしては、消防隊や警察の間にある雰囲気からは緊張感が幾分か抜けているようだった。
無論職務に手を抜いているというわけではない。人命に関わる緊迫感から解放され、むしろ伸び伸びと仕事ができているように見受けられる。救助対象がいないおかげで消防も炎の中に突入するような危険を伴う救助活動を行う必要も無く、堅実な消火活動に専念できているのだろう。
「なぁんていうか、落ち着いちゃったねぇ、専務。せっかく気合い入れて燃やしたっていうのにさ」
どこか間延びした、つまらなさそうな少女の声。
それは火災現場にほど近い、何の変哲も無い雑居ビルの屋上。
現場を見下ろす二つの人影、その片方が発したものだった。
「住民全員助かっちゃうしさぁ。瞬間移動って何それ、ボク達じゃあるまいし。ウケるよねぇ」
「確かに予想外だった。今晩と翌朝くらいまでは、死傷者多数の大規模火災でニュースを彩れると思っていたのだが。とんだ邪魔が入ったようだ」
少女の声に応えるのは若い男の声。
夜の闇に沈むような印象の声色で、地上を見下ろしながら続ける。
「邪魔をしてくれた何者かの正体は別途調査するとして……。これで終わっては、収支はマイナスだろう。社長の期待を裏切ることになるな」
「じゃあどうするぅ? あいつら全員燃やしちゃう? なんなら、ここら一帯全部まとめてさぁ」
「それも一興ではあるが、流石に事態を拡大させすぎだ。今はまだ、我々は目立つべきでない。これも社長のご意向だ」
淡々とした口調でそう告げて、そして落ち着いたその声のまま、男は続けた。
「しかし、あのマンションを一棟倒壊させる程度なら、構わないだろう。地上には人間が大勢群がっていることだし、丁度良い」
そんな男の台詞に、少女は喜色満面といった様子で溌剌とした声を上げる。
「あはっ、それってさぁ専務――やっちゃっていいってことだよね?」
「物を燃やすよりこちらの方が得意だろう、破壊子ちゃん」
「もっちろん」
およそ人間の名前とは思えないような呼び名で指示を受けた少女は、楽しげな雰囲気を隠そうともせず振りまきながら、炎上を続けるタワーマンションへと向き直る。両の手の平をそのマンションへと向け、無邪気な子供が玩具で遊ぶような調子のまま、叫ぶ。
「破綻・必滅・崩壊! 形あるものをあるべき姿へ!」
その台詞は、本来発する必要の無いもの。ただ気分がノるからという理由で行っているに過ぎない詠唱。
必要なのは明確なイメージ。そして代償となるエネルギー。
時間は要らない。一瞬で結果が訪れる。
――次の瞬間、紅蓮の炎で夜空を照らしていたタワーマンションはその火炎を纏ったまま、彼女が念じた通りばらばらに崩壊した。
粉々というほど細かくはない。百八十メートル程の高さを誇っていたマンションは、それぞれ数メートル立方程度の大きさの瓦礫と化し、地上へと真っ逆さまに降り注ぐ。
それは通常の物理現象で引き起こされたのではないと、誰の目にも明らかである異質な破壊だった。
「あっははははははははっ! すごい! きれい! 美しい! 最高の景色だよっ!!」
自らの手による破滅を前に、歓喜に打ち震える少女。
しかし彼女は同時に耳にした。
彼女にとっては酷く耳障りな、自分の玩具を台無しにされるような予感を伴った、瑞々しく張りのある声を。
「へ~んし☆ん」
ほんの一瞬夜闇の中で放たれた眩い光に思わず目をつむる少女。
そして彼女が目を開けた頃には、眼前の光景は信じられないものへと変質していた。
重力に引かれるまま地上へと降り注いでいたはずの瓦礫の群れが、一様に空中を浮遊し、ゆっくりとした挙動で秩序だって地上に積み重なっていく。周囲の人々には一切の危険が及ばないよう配慮された、一つの意思の下に統率され無駄が無い精密な動き。
「な、な、なんだよそれぇ!」
思わず声を荒げる少女。彼女が望んだ破滅的な光景の実現は、突如現れた謎の存在によって阻止された。
瞬間的に理解する。
きっとあの何者かが、燃え盛るマンションから超常の手段で住民を避難させた人物であると。
一度ならず二度までも邪魔をされたという苛立ちが彼女の頭を沸騰させる。
「――ぶっ壊す」
けれどそんな彼女の肩に手を置き制止する者が居た。
「やめておけ、破壊子ちゃん。この場では目立ちすぎる。残念だが今日はここまでだ」
「なにすんのさ専務ッ! このままじゃ赤字でしょ!? 第一、絶対あいつだよ! 今日だけで二回もボク達の邪魔をしてくれたのは!」
「物事には引き際というものがある。それを誤れば、損失が重なるだけだ。ここは大人しく、上司の判断に従いなさい」
声色と口調は相変わらず穏やかながら、そこには有無を言わさぬ雰囲気があった。逸る少女を言葉で押さえつける程度の強さがあった。
渋々と反駁を諦めた少女に背を向け歩き出す男。
「あれに発見されることは避けたい。今のうちに引き上げよう――なに、今日一日が全くの無駄だったというわけではないさ。あのヒーローに出会えたのだから」
そうして、雑居ビルの屋上に居た二つの人影は忽然と姿を消したのだった。