ご主人様がいなくとも、カネリアの日々は目まぐるしく動いていく。
特にここ数日は色々とあったせいで領主としての執務に遅れが出ていて、カネリアは目の回るような思いで日々の仕事に向き合っていた。
しかし、忙しい時には面倒事が舞い込むもので、大変な時にはより困難な出来事が起こるものなのだ。
もっとも彼女の場合は、例え平穏なひと時があったとしても次の瞬間には何か事件に巻き込まれていたりするので、単にトラブルの神から愛されているだけなのかもしれない。
そして今回も、彼女を悩ませる問題は何の前触れも無くやってきた。
――不意に、屋敷を震わす程の轟音が外から響いた。
実際に地面が少し揺れたらしく、棚の中で茶器がカチャカチャと音を立てている。
突然の出来事に驚いてびくんと身体を震わせたカネリア。
丁度手に取っていたカップの中身が机の上に溢れてしまう。大事な書類を駄目にしてしまって、彼女は陰鬱な気分になった。
「な、何事だ!?」
「何が起こった!? 敵襲か!?」
「空から何か降ってきたぞ!」
窓の外から、屋敷に詰めている防衛隊兵士達の慌てた声が聞こえてくる。
最初の轟音が聞こえてきた方向や兵士達の声の移ろいから判断するに、どうやら騒ぎの中心は屋敷の中庭辺りらしい。
そんなことを考えながら、カネリアは椅子から立ち上がる。
書類を駄目にしてしまったことで落ち込んでいる場合ではない。
屋敷の中で何か事件が起きたというのなら、様子を見に行かなければならない。
まともに振れもしない聖剣を箔付けの為に腰へ差し、彼女は執務室の外に出る。
幸いにも、今屋敷にはウィンアットがいる。
何が起こっているにしても、街中の様子を見に行くよりかは遥かに気が楽だった。
それに、スフィネルが屋敷に施しているセキュリティシステムが警報を発していないということは、恐らくは――
「――やっぱりですか」
カネリアが二階の執務室を出て中庭へと降りると、様子を見に来た兵士や使用人達が遠巻きに庭の様子を眺めていた。そこでは空から降ってきたのであろう何かのせいで地面がめくり上がって陥没し、木々が二、三本倒れてしまっていた。
そしてそんな破壊の中心には、土煙の奥でゆらりと立ち上がる人影。
その人影にカネリアは思わずため息を漏らす。
「はあ……。ベリドートさん、おかえりなさい。まったく、何事かと思いました」
「――いやあ、悪い悪い。いつまで経ってもテレポートは苦手でな。うっかり座標の計算を間違えて、三十秒ほど自由落下する羽目になっちまった」
カネリアの呆れたような声を受けながら土煙から姿を現した彼――勇者パーティの一員にしてあらゆる〝術法〟に精通する導師、ベリドート・ユー・クレースは悪びれもせずそう言った。
高所から地面へ落下した直後だというのに、その白いローブには汚れ一つ着いていない。
彼自身もダメージなど一切負っていない足取りで歩いていた。
「……帰ってきて下さって嬉しく思いますが、それはそれとして、余りお庭を荒らさないで欲しいです」
無事な様子の彼の姿に僅かに安堵しつつ、カネリアは言った。
仕事の気分転換も兼ねて手入れしていたささやかなハーブ畑が目茶苦茶だ。そろそろ収穫できそうな頃合いだったので茶葉へ加工するのを密かに楽しみにしていたというのに。
そんな彼女の非難がましい視線に気付いたのか、ベリドートは自らが引き起こした破壊の跡を振り返って、肩を竦めた。
「おっとっと、あんたが珍しく怒っていると思ったら……。悪かったな――これで一つ、許してくれよ」
言って彼が何かの魔法を発動すると、吹き飛びめくれ上がり変わり果てていた庭の状態が時間を巻き戻すかのようにして復元されていく。
一体何の魔法が発動されているのか――そもそもこれが魔法なのかもカネリアには判別できないが、導師ベリドートの手で屋敷の中庭は一見して何事もなかったと思える状態にまで復元された。
「よし、こんなもんかな。上出来上出来――どうだいカネリア、これで許してくれるかい?」
「……ベリドートさん、戻し過ぎです。元気に育っていたハーブ達が、発芽直後にまで戻ってしまっています……」
「あ、あれぇ!? ま、まぁ、それくらいは誤差の範囲ということで、許しておくれよ……」
ベリドートは魔法だけでなく占星術、や呪法、陰陽術など様々な術法のエキスパートだ。
しかし割と大雑把というか、細かい制御が必要な術は苦手としていた。
突然空から降ってきたのも、瞬間移動で屋敷へ戻ろうとしたら上空に出てしまったのだろう。
「ちなみに、戻りすぎたハーブを元の状態まで育てる魔法はないんですか?」
「できないこともないが、ちょっと張り切りすぎて森になるかもしれん。屋敷がハーブに飲み込まれるかもしれん」
「それはそれである種本望ではありますが……。わかりました、これで十分です」
日頃から理不尽な事態に振り回されているカネリアはこの程度の事でへこたれたりしない。むしろまた育てる楽しみができたと心を切り替えることにした。彼女は健気なのだ。
「改めまして、お久し振りです、ベリドートさん」
「ああ、久し振りだな、カネリア。色々と話したいことが一杯あるぜ――だがまぁ、ここじゃあなんだ。久し振りにお前の淹れたハーブティーを飲ませてくれよ」
「ええ、よろこんで」
カネリアはにっこりと笑って返す。
ベリドートは大雑把なところこそあれ気さくな性格の男性で、勇者パーティの中でも最も接しやすい人物だと彼女は思っていた。
けれどまさかそんな彼の帰還をきっかけに、かつてない面倒事の渦中へ放り込まれることになるとは。
今の彼女には思ってもみないことだった。
◇◇◇
中庭に集まっていた兵士や使用人達へ気にせず仕事に戻るよう言い含めてから執務室へ戻ったカネリアは、ベリドートを応接用のソファに座らせて、慣れた手つきでお茶の準備をしていた。
用意されたティーカップは三つ。丁度のその準備が終わるタイミングと合わせたように、カネリアとベリドートの二人しかいない執務室の扉がノックされる。
「カネリア様、お菓子をお持ちいたしました」
「はい、ありがとうございます」
クッキーやマドレーヌ、タルトなどを乗せたトレーを持った使用人が、カネリアの返答を受けて入室する。応接用のテーブルに持っていたトレーからそれぞれの皿を淑やかな所作で配置していく彼女の姿を、ベリドートは横目で窺う。
「……あんた、はじめましてのメイドだな。どう? 今度一緒にお茶しない?」
そんな彼の提案に使用人は控えめな笑みを向けた。
「申し訳ございません、ベリドート様――そうやって女相手に見境なく声をかけるのはやめろ。【
途中から温度の感じられない口調へと変わって詰る彼女に、ベリドートは顔を引きつらせる。
「げ、その感じ、ウィンアットかよ! なんだってメイドの変装なんてしてるんだ! ふざけんなよ! せっかくいい感じの美人見つけたと思ったのに!」
そんな彼の悲鳴を受けて、使用人の姿が、中性的な顔立ちで華奢な印象の小柄なものへと変わった。
屋敷の兵士や使用人達には決して見せないその姿。
ウィンアット・マーリシ・ナイトは、サイズの合わなくなった袖を軽くまくって、ベリドートの斜め向かいにどかりと腰を下ろした。先程までの淑やかな所作は変身と共にやめたらしい。
「それにオレと茶が飲みたいなら、今度と言わず今から付き合ってやる。感謝しろ」
「なんだよぉ嫌だよぉ、せめてさっきの女の子に戻ってくれよぉ……。ていうか、お前もこっちに帰ってたんだな」
「ああ、先日な」
「はぁ……。にしても今のは酷いぜ。俺の純情を弄びやがって。なんでお前がわざわざ変装してまでメイドとして働いてるんだよ。キャラじゃないだろ」
「ウィンアットさんは、この方が屋敷の中で動きやすいからということで、最近はよくメイドさんとして私の手助けをしてくださるんですよ」
三人分のティーセットを乗せたトレーを持ってやって来たカネリアが会話に加わる。ベリドートの向かいが空いていたので、そこに座る。
「変身後もですが、今のお姿も可愛らしいですよね。ウィンアットさんもこの服が気に入られたようでよかったです」
「……オレはただ、便利だからこの格好をしているだけだ」
僅かに不貞腐れたような様子で、ウィンアットはティーカップに口を付ける。そんな様子を眺めながら、カネリアはくすくすと笑った。
「――ねぇ、なんかお前達、距離縮まってない? 前からそんなに仲良かったっけ?」
二人の様子を正面から見ていたベリドートはそこで、納得いかないという顔で声を上げた。
「……なあウィンアット。もしかしてカネリアのき――」
「――ちょっと色々あっただけだ、ベリドート。馬鹿なことを言うなよ」
鋭い視線で刺すように睨むウィンアットに、彼は降参とばかりに両手を上げた。
「わかったわかった、悪かったよ、俺が悪かった。だからあんまり本気で睨まないでくれ、俺は小心者なんだから」
力無く笑う彼に再度ちらりと目線を投げて、それっきりウィンアットは口を閉ざした。
そうして生まれた沈黙を居心地悪く思ったのか、カネリアが代わりに口を開く。
「えっと……。それじゃあ、本題に入りましょうか……? ベリドートさん、私に何かお話があるということでしたが」
カネリアから水を向けられ、彼はにこやかな表情を浮かべて答える。
「ああ、そうなんだ。ちょっとウチの勇者に頼み事があってな」
「頼み事、ですか?」
怪訝な顔で首を傾げるカネリア。自分に頼み事とは珍しい話だなと、彼女は思った。
勇者の名を騙っているだけの自分にできることは少ない。というか、ほとんど何もできないと言っていい。そしてそんなことはベリドートもわかっているはずだ。
にも関わらず、そんな自分に頼み事とは?
釈然としないまま、彼女は頷く。
「私にできることなら、もちろん承ります」
「助かるよ。王都でちょっと面倒な事になっててね」
「王都……?」
話を聞くカネリアの眉間に、更なる皺が寄る。
ベリドートの発言にはウィンアットも無言で興味を示していた。
「ああ、王都だ。あそこにもこの街と同じ、カネリアが施した加護の炎があるだろう?」
「ええ、そう聞いています……。私は王都へは行ったことがないので、ご主人様から聞いた話ですが」
加護の炎。ベリルの街の中心にも灯るそれは、勇者カネリアが遺した破邪の光。魔を退け奇跡をもたらすとされる勇者の異能【黄金】が、具現化したもの。
その金色の煌めきは魔獣や魔人などの邪悪な存在を寄せ付けない加護として、王都の守りも担っている。
「……その炎が弱まってきているらしくてな。ちょっと王都まで来て加護を付与し直してもらえないかと、王子殿下からのご用命だ」
勇者カネリアが遺した加護を、自分が施し直す。
話の内容を咀嚼して、カネリアは手に持っていたカップをゆっくりと置いた。
「……え?」
「いや、わかるよ? いきなり面倒な頼み事を持ってきて悪いと思っている。でも俺は他のメンバーほど心臓強くないからさぁ、殿下から面と向かって頼まれちゃあ、権力におもねるしかないよね」
「いえ、あの……。面倒とか以前に、そもそも私には、無理です……!」
事態の深刻さについて徐々に実感が湧いてきた彼女は、正面のベリドートに向かって必死に言う。
「いくら勇者様の異能を引き継いでいるとはいえ、私には手のひら程度の炎が精一杯なんですよ!? ほら、こんな可愛いらしい火の玉しか出せません! それを、勇者様と同じくらい巨大な炎なんて――っていうか、加護の炎が消えかけてるんですか!? 一大事じゃないですかッ!」
「落ち着け、カネリア」
取り乱す彼女を制止したのは、隣に座るウィンアットだった。肩に手を置いて話しかける。
「元々王都の周辺には魔獣なんて出ない。あそこに加護の炎を置いていたのは、象徴としての意味合いが強い。だから炎が消えても何か問題が起こるというのは考えづらい。この街とは違ってな」
「ですが……、王都の炎が弱まっているということは、この街の炎もじきに弱まるということなのでは……」
元々がカネリア本人やスフィネルにすらもわからないことが多い、不確定で不安定な加護。
炎とは言うものの、カネリアの加護は見た目が似ているからそう呼ばれているだけで、その性質は炎と近いわけではない。例えば実際の炎は炭や薪など燃料になるものがあれば小さな火種から成長させることが可能だが、加護の炎はそうもいかない。逆に薪が無くても煌々と燃え続けている不思議な光だ。
とはいえ、永遠に続くものなどこの世界には存在しない。
いずれは潰えるものとして炎の見守りも行ってきた彼女だったが……。いざその時が差し迫っているとなると、とても心穏やかにはいられなかった。
「――ま、そっちは今考えても仕方が無い。それよりまずは王都の炎だ。確かにウィンアットの言う通りあそこの火が消えたところで何か実害が出るかと言われると微妙だし、彼らもそれはわかっているようだが、それでも象徴としての力は維持したいらしい」
「気に食わんな……。そんなことでわざわざカネリアを呼びつけるとは」
「まあそう言うなって、彼らにも色々考えがあるんだろうさ……。その思惑の一環として、勇者による加護の再点火イベントは王都を挙げての祭りにするつもりだそうだ。経年で加護が弱まるのなら、これから毎年の祭りにして盛り上げようってことだな」
「馬鹿馬鹿しい、カネリアを見世物とでも思っているのか?」
「少なくとも、勝利と平和の象徴ではある。まさしく、魔王を倒した後の勇者に求められる役割ではあるだろうな」
確かに、カネリアの使命は勇者としての役割を果たすことだ。その為には己を偽り虚勢を張り仮面を被って役割を演じる必要がある。これまでも彼女はそうやってきた。
しかし、事情を知る勇者パーティメンバーの前でまで自らを偽る必要は無い。
「む、無理ですよ、無理ですって! 流石に今回ばかりは不可能です! 私には荷が重すぎます!」
「そんなに心配するなって。その辺りはスフィネルが適当に誤魔化すだろ。最悪なんか金色の炎さえ灯しとけば何とかなるさ。……ちなみにあいつは今どこに?」
スフィネルの所在を尋ねられ、カネリアの顔は曇る。
何かの用事で街を出て、未だ帰って来ないご主人様。居場所なんて自分も知りたいくらいだと、彼女は思った。
「……何かご用事があるということで、どこかへ行ってしまいました。お戻りがいつになるかもわかりません」
「あ、そうなの? 参ったな……」
スフィネルが今どこで何をしているのかについては、ウィンアットは何か知っているようだったが、何も言わない。
ベリドートは左手で頭を掻きつつ息を吐いた。
「まあ、なるようになるか……。お前はあんまり心配するな。最悪どうにも誤魔化せなければ、もっと大きな問題を起こして有耶無耶にしてしまおう」
そんな頼りになるのかならないのかわからない、恐ろしい事を言って、彼はティーカップを置いた。
「兎にも角にも王都に行かないことには始まらない。そういう訳で、カネリアにはしばらく俺と一緒に来て欲しいんだ」
確かに王子からの依頼とあっては、無視することもできない。ましてや勇者の健在を示すためには、加護の炎が消えゆくのを見過ごすなんてもっての外だ。
具体的にどうやって誤魔化すべきかカネリアには何のアイデアも無かったが、事態は既に動き出している。
「……わかりました。それで、その王都で開かれるお祭りというのはいつから始まるんですか?」
「明日から七日間だ」
「明日!? 明日からですか!?」
思わず勢いよく立ち上がるカネリア。
こんなところでのんびりティータイムなどに洒落込んでいる場合ではないじゃないかと、焦りを露わにする。
「いや、ここから王都までって、馬車でもふた月はかかりますよ!? 今からでは到底間に合いません!」
「なぁ、そうだよなぁ、王都の連中も無茶言うよなぁ。決して俺が、半年前に言伝されたことを直前になって思い出したってわけじゃないからな?」
「――忘れてたんですか?」
「……忘れてないよ。色々あって、後回しにしていただけだよ」
なんということだ。心の準備や誤魔化す為の策を整える期間が無いだけではなく、そもそも祭りに間に合わない。
……いや、これはもう、今になるまで忘れていたベリドートが悪いのだから、全部彼のせいにして一切合切何も聞かなかったことにすればよいのでは?
そんな良くない逃避思考が頭をもたげたカネリアに、彼は続けた。
「ただ、それについては問題無い。俺にはテレポートという手段があるからな。瞬きの間に王都まで連れて行ってやるさ」
「……でも、ベリドートさんのテレポートって――」
「何も問題は無い」
彼がなんと言おうと、問題は山積みだった。
一つ片付ける前に次から次へと積み重なっていく。本当に日々が目まぐるしい。
勇者の役目がいかに大変か、いつまで経っても思い知らされ続ける。
そんな中でも今回は、とびっきり大変な仕事になったと、カネリアは諦念の中で思っていた。