ウィンアットの消息について手がかりを得るべくカネリアがまず向かったのは、街の中心部に位置する鐘塔だった。
加護の炎を見守るように建設された教会の脇に並ぶ、白い石造りの荘厳な塔。そこからなら、中心部付近の様子を高いところから見渡すことができると考えてのことだった。
ウィンアットが今どこにいるのか何の情報も無い中でとにかく僅かでも手がかりを見つけようと、思いついた端から向かってみるつもりであったカネリア。
結果的に、彼女の勘は冴えていたと言えるだろう。
鐘塔の管理者に頼み込んで最上部から街を見渡していた彼女は、そこで視界の端におかしなものを見つけた。
通りに沿って整列するように並ぶ家屋の屋根の上、そのとある一角。赤褐色のレンガの中で、そこだけ何やら黒い染みのようなものが目についた。
鐘塔の上からでは距離があり、それが何なのかまでは判別できない。
しかし、何か不自然なものがある。
それだけわかれば、次の目的地は決まったも同然だった。
勇者の複製体とはいえ、彼女の身体能力はそこまで高くない。勇者パーティのメンバーは後衛職のスフィネル含め人間離れしたフィジカルの持ち主なので、二階建ての屋根の上にくらい一息で事もなげに飛び乗ってしまうだろう。しかし彼女にはそんな跳躍力も無く、踏み台や足場を見つけてよじ登っていくしかできなかった。
端から見れば結構みっともない姿で、そもそも屋根に登るという行動自体が不審なものだ。
往来の目から逃れるように気を配らねばと考えていた彼女だったが、幸いにもそこは元々人通りが少ない区画で、裏路地に回れば誰かに見られるという心配は不要なくらいだった。
もっとも、領主がそんな寂しい路地へ一人で向かうという姿自体、見とがめられると厄介だったので、彼女はこそこそと物陰に身を隠しながら移動した。
そうしてようやく辿り着いた目的地で、そこへ広がっていた光景に一人息を呑む。
そこには、恐らく男性のものと思われる死体が合計三つ――いや、少し離れた所にあるものも含めて四人分の死体が転がっていた。
三つの死体は首が切断されていて、傍に転がる頭部は元々どの身体の持ち主だったのかわからない。
離れた位置に横たわっている男は首こそ繋がっているものの、身体の各部を欠損しているようで酷い有り様だ。ここで何らかの激しい戦闘があったことは明らかだった。
屋根一面に飛び散る赤黒い血飛沫の乾き具合と死体の状態から見て、これらの死体ができあがってから半日程度は経過しているようだと、彼女は判断する。
そして半日前にこの場で起こったであろう何らかの事件が、今なお姿を見せないウィンアットと何か関係していることは、状況的に間違い無いだろう。
何の手がかりも無い状態から出来過ぎなくらい順調にウィンアットの足取りを追えているカネリアだったが、しかし気分は一向に浮かばない。
正体不明の死体を四つも発見してしまったというのは、もちろん嬉しい出来事ではない。
そして何よりも――この中に、自らの捜し人が混じっているのではないかという恐ろしい可能性が、先程から彼女の頭の中でざわめいていた。
「……いや、まさか。……ウィンアットさんに限って、そんなこと……」
自然と鼓動が早くなり、呼吸も乱れる。
ざっと見た限りではウィンアットと同じ体格の死体は無いように思えるが、しかし体型や顔では判断ができない。息をするかのように姿形を変えるのがウィンアットなのだ。
死体を細かく検分したところで、その正体を暴ける保証は無い。けれど、確認しないわけにはいかなかった。
カネリアは心ここにあらずといった様子のぼんやりとした足取りで、けれども一歩一歩、死体達に近付いていく。
そんな彼女を、丁度待っていたかのように。
「――勇者カネリアか。この状況で、貴様から出てきてくれたのは幸運だった」
どこからか重苦しく響く声がそう言った。
そして背後から迫る、鋭く研ぎ澄まされた殺意。
カネリアの身体はものを考えるよりも早く身を翻し、そして数瞬前まで身体があった空間をナイフが刺し貫いた。
「あなたは――」
「死ねッ!! 忌々しき勇者よッ!!」
突然の襲撃者に向き直る暇も無く、容赦の無い追撃がカネリアを襲う。
真っ直ぐに突き出された短剣。どすっ、と刃が肉に突き刺さる音。
しかし、彼女の身体に痛みは無かった。
振り向いた先で視界を覆ったのは、灰色。肩の上辺りで雑に切られた、灰色の髪。彼女が必死に捜し求めた、その後ろ姿。
「――フィブロ……ッ! 貴様、どこまでも邪魔を……ッ!!」
「どちらも二度目だ。その名で呼ぶなということも、カネリアへ迫る敵には容赦をしないということも」
カネリアにとっては聞き馴染みのない男性の声、それでも覚えのある口調で抑揚無く告げられたそれは、死刑宣告。
次の瞬間には、黒装束の男は首と胴体を斬り離されてその場に倒れ伏したのだった。
五人分の死体が転がった屋根の上、立っているのはカネリアとウィンアットの二人だけ。
自分を庇って腹部を貫かれた彼に、カネリアがすぐさま駆け寄る。
「――ウィンアットさんッ!!」
やはり彼女には見覚えのない見た目をしていたが、それがウィンアットであるということはすぐにわかった。
駆け寄る彼女にゆっくりとした動作で向き直って、それからウィンアットは不満げに細めた目を向ける。
「……カネリア。街中を一人で出歩くなと、オレは言ったつもりだったんだが」
「い、今はそんな話をしている場合ではありません! 早く治療しないと――」
見れば、ウィンアットの纏う戦闘服はあちらこちらが刃物で切り裂かれたようにズタボロで、戦闘がどれほど激しいものであったかを物語っていた。
左腕の部分など、二の腕辺りから袖は完全に無くなっていて、色白いながらも引き締まった腕が露わになっている。
「確かに、奴らを全滅させるのに手間取ってお前との約束に遅れてしまったオレの落ち度だが、今日のように戦場へ簡単に出てこられてしまっては流石に守り切れない。割と本気で反省してほしいものだ」
「は、はい、すみません! 深く反省しますから! ですから先に手当てをさせてください!」
状況の割に呑気な言動をやめないウィンアットに、カネリアは「この人は何を考えているんだろう」と腹立たしくさえ思えた。
そんな彼女の言葉でようやく思い出したかのように、ウィンアットは腹部に突き刺さった敵の短剣に目を落とす。
――そしてあろうことか、刃を掴んで無造作にそれを引き抜いた。
「――ちょっ!? なにやってるんですか!? アホなんですか!?」
見ているだけでも激痛を錯覚させられる光景に、カネリアはさっと血の気が引く。
あんな抜き方をすれば内臓や血管を余計に傷付けてしまうし、運が悪ければ――いや、余程運が良くなければ致命傷だ。
けれど彼女の心配をよそに、当の本人は澄ました顔で短剣を投げ捨てる。
「オレにとって、肉体的な損傷は大した痛手ではない。何しろ身体そのものを造り変えられるんだからな」
そんな言葉を証明するように。
カネリアの眼の前で背が縮み、身体が萎み、見慣れた中性的な顔立ちに戻るウィンアット。その変身の過程で、腹に空いていた穴は完全に塞がったようだった。
「まあ、傷の再生にはそれなりにエネルギーを使うから、猛烈に腹が空くという問題があるが……」
言った直後、ぐぅぅと大きな音が鳴る。色白な頬が微かに赤らむ。
「――なる、ほど」
ぱちくりと目を瞬かせて、カネリアはそんな説明を受け入れた。
ウィンアットの異能による変身に、まさかこんな使い方まであったとは……。
「つまり、ウィンアットさんは無傷で、とにかく無事である、と……。よかった、です……」
……?
安心して気が抜けたからだろうか。
身体と思考がふらつく。
ウィンアットさんが無事であるなら、後片付けをさっさと済ませて予定通り街へ遊びにいかないと。
と、間の抜けたことを考えながら、カネリアの身体はその場に倒れた。
あれ? おかしいな。身体に力が入らない。
頭もなんだかふわふわする。
ぼんやりとした視界の中、血相を変えた様子のウィンアットが駆け寄ってくるのが見える。
無敵に思えるウィンアットさんでも、あんなに焦ることがあるんだなぁと、カネリアは他人事のように思った。
「――くそッ! 最初のナイフが掠っていたのか……!」
ウィンアットにはカネリアの様子が急変した原因に心当たりがあった。
襲撃者――黒蛇遣い達は自分達で調合した致死性の猛毒を好んで使う。
それは彼らの短剣や暗器に仕込まれていて、刃先が掠っただけでも対象を死に至らしめる。
彼らと戦って生き残ることができるのは、ウィンアットのように初めから毒が効かない人間か、スフィネルのように毒を無効化する手段を持つ者くらいだろう。
そして、かつてはウィンアットも使った毒だ。この症状と進行力。間違えるはずも無い。
そしてだからこそ、万一に備えての解毒薬も持ち合わせていた。
「――カネリア。これを飲め。解毒薬だ」
懐から取り出した小瓶を空けて、どんどん衰弱していくカネリアに呼びかける。
ナイフが掠った傷口を見つけられればそこから直接毒を吸い出すという応急処置も有効だったかもしれないが、服を引っ剥がして傷を確認している時間は無い。
「暗殺者の持っている薬なんて怪しくて飲みたくもないかもしれないが……」
かつてあの組織に所属していたことは、ウィンアットにとって今では忌むべき過去だった。
勇者カネリアと出会って以来、それは思い出したくもない記憶となった。
そして暗殺者という職業自体が背負うべき業となった。
「……そんなこと、思うわけないじゃないですか……」
ふと口から溢れた言葉に、カネリアがぼんやりとした視線を返し、穏やかに笑う。
そんな彼女の表情に、ウィンアットはいつか見た勇者の笑顔を思い出した。
そして、やはり彼女は変わらないのだなと、口角が緩む。
「――そうか。なら飲ませてやるから、じっとしていろ」
端的にそれだけ言って、ウィンアットは解毒薬の小瓶を自ら煽る。
そしてそのまま、か弱く開かれた彼女の唇に自らの口を押し当てて、喉の奥まで解毒薬を流し込む。
一瞬、驚いたようにカネリアの目が見開かれる。
けれど次第に眠気が増していくのか、そのとろんとした瞳は徐々に伏せられ、やがてまぶたは完全に閉じた。
薬が効いたのか、すーすーと穏やかな寝息を立てるカネリア。
腕の中で眠る彼女に目を落として、ウィンアットは再び静かに笑った。
かつてあの組織に所属していたことは、ウィンアットにとって今では忌むべき過去だった。
勇者カネリアと出会って以来、それは思い出したくもない記憶となった。
そして暗殺者という職業自体が背負うべき業となった。
けれど。今だけは。
あそこに所属していたお陰で彼女を救えたのであれば、良かったと思えた。
◇◇◇
「……なるほど、こんなところに掠っていたのか。これはあの場では到底見つけられないし、応急処置も難しかった。解毒薬があってよかった」
「は、はあ……。それはもちろんよかったのですが……。あの……、えっと……、ウィンアットさん……?」
ナイフが掠った傷口を手当てしなければならないからと強弁するウィンアットによって裸に剥かれ身体の隅々まで調べられていたカネリアは、震える声で何とか尋ねる。
「ウィンアットさんって……、結局のところどっちなんですか?」
「どっちとは何がだ。わかりやすく話せ」
「あの……。男性なのか、女性なのか、です……」
「そんなどうでもいいことは忘れたな。そんなに重要なことか?」
「少なくとも、今の私にとっては」
屋敷の浴場であられも無い体勢で無防備に肌を晒しているこの状況を、まだ少しでも受け入れる為には。
カネリアとしては、ウィンアットには是非とも女性であってもらわないと困るというというところまで追い詰められていた。
入浴も兼ねてわざわざ浴場で身体検査をしているというわけなのでウィンアットも一糸まとわぬ姿なわけなのだが、あちらは常にカネリアの背後を取って、その身体を視界の端にも捉えさせない。
もっとも、あの中性的な身体つきでは見たところで性別の判別などできないのかもしれない。
というかそもそも、ウィンアットにとって肉体などどうにでもなるので、そこから得た性別の情報に何か意味はあるのだろうか?
「――仮にオレが男だったとして、何か問題があるのか?」
「大問題です……、大問題ですよ……っ! うっ、うっ、こんな、身体の至るところまでつぶさに観察されてしまって……! もうお嫁に行けません……!」
「ではオレが女だったとしたら、問題は無くなるのか?」
「うっ、うっ……! 大問題ですぅぅううううっ! うああああああ!」
「ならば、どちらでもいい話だな」
まったく悪びれる様子無くそう言ってのけたウィンアットは、遂に泣き出してしまったカネリアに頭からお湯を被せた。
「後で特製の塗り薬をやる。それを使えばこの程度の傷、痕も残らず治るだろう」
「いえ、わざわざそこまでしていただかなくても……。これくらい、唾を付けておけば治ると思いますし」
「ふむ、それでは今付けておこうか」
「……やっぱり薬ください」
何故か傷口を直接ウィンアットに舐められるイメージが頭の中に湧いてきて、カネリアはそれを振り払うように頭を振った。思いついてはいけないイメージだった。絵面がとてもよろしくない。
そして厄介なことに、ウィンアットにはそれくらいのことはやってのけそうな底知れなさがあった。
そういえば、とカネリアは思う。
このウィンアットは、勇者カネリアとはどういう関係性を築いていたのだろう。
スフィネルと勇者カネリアの関係性は散々本人から聞かされてきたので知っているが、ウィンアットとの関係は詳しく知らないカネリアだった。
そんな彼女に、いつの間にか隣に座って自分の身体を洗っていたウィンアットが声をかけた。初めてその肢体が視界に入ったけれど、巧みに散りばめられた泡が肝心なところを確認させない。
「カネリア。お前もさっさと身体を洗え。ぼーっとしていると身体が冷めて風邪を引くぞ」
「あっ、はい……。すみません」
言われて初めて、彼女もごしごしと慌ただしく身体を磨き始める。
ついついぼーっとしてしまっていた。
誰かと一緒に風呂に入るような経験などご主人様と以外に無い彼女は、無意識の内に相手から身体を洗ってもらうことを待っていたのかもしれない。
とんでもない条件付けをされてしまったものだと、カネリアは戦慄すると同時に恥ずかしくなる。
そんな彼女の些細な動揺をウィンアットは敏感に感じ取ったらしかった。
「……悪いがオレはあいつのように、身体を洗ってやったりなんてできんからな」
「も、も、も、もちろんですっ! わかってます! ぼーっとしてただけです! というか、なんで私がご主人様から身体を洗ってもらってることをご存知なんですか!?」
「ご存知も何も……。いや、なんでもない。忘れてくれ」
「ウィンアットさん!?」
「カネリア。世の中には、知らない方が幸せな情報というものが山程あるんだ」
そんな適当に含蓄のあることを言い残し、泡を洗い落としたウィンアットは湯船へと向かった。
「オレは先に湯に浸かっているぞ」
「はい……」
ウィンアットと共に浴場にいることから恥ずかしさを拭いきれないカネリアとしては、身体を洗い終えたらそのまま場を後にしてもよかったのだが。
あんな風な言われ方をしてしまっては、後から追いかけないわけにはいかない。
小さく息を一つ溢して、カネリアも手早く身体の泡を落としてから湯船へと向かった。
ご主人様といいウィンアットさんといい、どうしてこんなに裸の付き合いをしたがるのだろうかと、カネリアは頭を悩ませた。
「今回は、お前には悪いことをした。オレの詰めが甘かったせいで、危うくお前を死なせるところだった」
白く濁ったお湯に肩まで浸かって虚空を見つめていたウィンアットは、その隣にカネリアがやって来てもしばらく何も言わなかったが、不意にそんな風に口を開いた。
「断じて、ウィンアットさんのせいでは……。私がまたしても言いつけを破ったのが原因ですし……」
責められこそすれ、そんな風に謝罪される謂れなど無い。むしろ、カネリアを庇ったせいでウィンアットは負わなくても良い手傷まで負った。
いくら異能で傷が治癒するとはいえ、痛みを感じなくて済むというわけでもないだろう。
なのに自分のせいで余計な苦しみを与えてしまい、いくら謝っても済まないことをしてしまったとカネリアは思っていた。
けれど、ウィンアットの口調には彼女を責めるような響きなどどこにも無かった。
「いや……。お前がああいう時にじっとしていられないのはわかっていたことだ。いくら言っても仕方が無い奴だというのは理解していたのだから、その上でこちらが策を考えるべきだった」
「………………」
台詞としてはこの上ないくらいに責められている感じだったが、しかしその口調は穏やかだった。
元々予定していた、ウィンアットについて深く知る為に二人で街を歩くという計画は流れてしまったけれど。
もはやそんな計画など必要無いであろうくらい、カネリアはウィンアットについて理解を深めていた。
「……お優しいですね、ウィンアットさんは」
意外と人の感情に敏感で気遣った行動をしてくれるのに、何度お願いしても登場時に驚かせてくるのだけはやめてくれない。
何かを訊ねれば求める答えを返してくれるわけではないし、適当なことを言ったり、言葉が少なかったり、誤魔化したりもされる。
けれど人目につかないところで密かに影の戦いに身を投じ、偽物のカネリアでも平穏に勇者の役目をこなせるように気を張り巡らせてくれている。
そんなとても優しい人だと、彼女は思った。
相変わらずその心の奥底では何を考えているのかわからないし、纏っている雰囲気や細かい所作は老練の暗殺者を思わせるものだけれど。
それでももう、ウィンアットのことを怖いと感じることは無いだろう。
そんな確信と共に彼女の心はすっと晴れやかなものになる。
しかし最後に一つだけ、ずっと気になっていることがあった。
「……一つだけ、聞かせていただいてもよろしいですか?」
「なんだ?」
「あの時……。解毒薬を口移しで飲ませていただく必要って、ありましたか?」
「…………。ああ、あったよ」
言葉少なに、いつも通り抑揚の乏しい声でウィンアットは端的に答えた。
そんな風に言い切られてしまっては、何も言い返すことなどできない。
仕方が無い。必要だったということならば。
二人しかいない大浴場。
カネリアはいい加減そろそろ湯船を出ようと思った。
お互いにのぼせてしまって、頬に赤みがさしていた。