空気は湿り気を含み、曇りがかった空の朝。
執務机に向き合って書類仕事を進めていたカネリア。
一息つこうと何気なく顔を上げたすぐ先にウィンアットが立っていて、思わず短い悲鳴を漏らした。
「――ひゃひぃっ!」
「……人の顔を見るなり悲鳴とは、ご挨拶だな」
「うぃ、ウィンアットさん……っ! そう思うならもう少し気配を出しつつ近付いてもらえませんか……?」
胸に手を当て前屈みになり、涙目になるカネリア。ウィンアットと遭う度にこんな思いをさせられては、心臓が保たない。
「集中していたようだったからな。邪魔をしては悪いと思った」
「そういうお気遣いは、していただけるのに……」
「そんなことはどうでもいい。いくつか伝えることがあって来た」
話題を変える際にウィンアットは一々咳払いなんてしない。
単刀直入に用件を伝える。
「スフィネルが昨晩から仕事で外に出かけた。しばらくは戻らないだろう」
カネリアにとってそれは寝耳に水の話であったが、心の奥ではすとんと腑に落ちるような納得感があった。
そして同時に、なんとも言えないもの悲しさを感じる。
以前は街を空ける際には事前に伝えてくれていたご主人様だったが、今回はそんな気分にはならなかったのだろう。生意気にもご主人様へたてついた出来損ないに、いい加減愛想が尽きたというところだろうか。
今日が七日七夜の奉仕の最終日だったわけだが、それももうどうでもよくなってしまったのだろう。
ご主人様が勇者様の面影を意識せずに済むようにと望んだことではあったけれど、実際にこうして関わりが途絶えてしまうと、胸の辺りが重たくなった。
せめて出発の前に見送りの挨拶くらいさせて欲しかったものだと、カネリアは畏れ多くもご主人様に対して些細な不満を感じた。
「――そうですか、ご主人様がお仕事に……。一体、どちらへ行かれたのでしょう」
「それは別に、お前が知る必要の無いことだ。あいつからも教えるなと言われている」
「……わかりました」
どことなく気落ちした様子のカネリアに、ウィンアットは昨夜スフィネルと会話した決定事項を淡々と伝える。
「スフィネルが不在の間は、代わりにオレが街にいる。屋敷の外に出るような用事がある際には声をかけろ」
「ありがとうございます、ウィンアットさん」
「……ちゃんと声をかけろよ。昨日みたいに、一人で出歩こうだなんて思わないことだ」
「その節は、ご迷惑をおかけしました……」
昨日の件をだいぶ根に持たれてしまったようだと、カネリアは思った。
もちろん、悪かったのは自分なのでこれからはしっかり言いつけを守ろうと思っている。とはいえ昨日スフィネルに声を掛けるのが難しかったのとは別の理由で、ウィンアットに声を掛けるのも難しいのだが……。
物憂げに視線を落とすカネリアを、ウィンアットは黙ってじいっと見つめていた。
連絡事項は終わったのか口を開くでもなく、かといって視線を逸らすわけでもなければ部屋を出て行くわけでもない。
「あの……。まだ何かございますか?」
いたたまれなくなってカネリアは問いかける。
そんな彼女にウィンアットは、何を言うか少し迷っているような素振りを見せた。
ただでさえ感情を読み取りづらいウィンアットの機微を理解することは彼女には難しかったが、それでも僅かな、逡巡の気配を感じた。
一瞬だけそんな雰囲気を纏った後に、言葉少なにこう答える。
「……いや。特には無い。仕事の邪魔をしたな」
そしてそんな言葉を残し、カネリアがまばたきで目を閉じた次の瞬間には、そこにウィンアットはいなくなっていた。
流石は勇者パーティが誇る暗殺者の隠形。先程までその場にいたという事実すら疑ってしまう程に、気配を微塵も残さぬ立ち去り方だった。
果たして次に顔を合わせる時、自分は平静でいられるだろうかとカネリアは一人不安になった。
◇◇◇
朝の一件以降執務室にウィンアットが現れることは無く、その他の訪問も無いまま時間は過ぎていった。
しかしその間仕事に集中できたかというと、答えは否だ。
ご主人様が自分に何も告げず街を出て行ってしまったという事実が、もやもやと胸中でわだかまって、余計な考えが次々と頭をもたげてくる。
結果カネリアは、使用人が昼食の準備ができたことを告げに来るまで時間の経過に気付かず、午前の内に済ませておく予定だった仕事が半分も終わっていないことに愕然としたのだった。
「――なにやらお疲れのご様子ですね、カネリア様。午後は少し、お休みになられては?」
黙々と食事を済ませた主人に食後の紅茶を用意しに来た使用人が、彼女の顔を見てそんなことを言う。
「いえ、そういうわけにもいきません」
「……何か、お悩み事があるのですね。私ごときでよろしければ、いつでもお話を聞かせていただきますが」
悩みは人に話すと楽になるとも申しますし、と気遣わしげな表情で彼女は言う。
そんな使用人にカネリアは困ったような笑顔を向け、それから少し考え込むように口元に手を当てた。
自分の様子がおかしいことに気付いて気遣ってくれる使用人がいるということは有り難いはなしではあったが、悩み事をそのまま打ち明けるというわけにもいかない。
そして何よりも、彼女には一つわからないことがあった。
なのでまずは、それをはっきりさせてからだと思った。
「……お気持ちは嬉しいのですが――ウィンアットさん、どうしてステイシアさんの振りをされているのですか?」
「………………」
困ったような笑顔のまま投げかけられたその問いに、使用人は驚いた顔で押し黙る。
「えっと……。これって何かの試験でしたか? それとも……。ウィンアットさん、メイドさんの格好をするのが趣味だったりするんでしょうか」
「……いや、そういうわけではない……」
カネリアの純粋な疑問に観念したのか、彼女は肩を竦めて、聞き慣れたウィンアットの口調でそう答えた。
そして直後、その身体が変動する。びきびきごききと嫌な音を立てながら、肉体のフォルムが変わっていく。
ウィンアットが持って生まれた異能は、自身の身体を隅々まで造り替えるというもの。表情だけでなく骨格レベルで他人に成り代わり口調や振る舞いまで模倣する変装術は、そう簡単に看破できるものではない。
しかしそれを容易く見破ったカネリアに、いつもの中性的な見た目に戻ったウィンアットは尋ねた。
「……何故わかった? オレが使用人に変装していると」
「何故と言われましても……。なんとなく? でしょうか」
そんな要領を得ない回答に、ウィンアットは小さくため息をついた。
「……お前くらいだ。オレの変装を勘で見破る奴は」
「? あれ? 前にもありましたっけ?」
カネリアはウィンアットの素顔を知らない。息をするようにして様々な人物に変身するので、どれが本当の姿なのかわからない。
けれど不思議と、例えどんな姿をしている時でも、彼女はそれをウィンアットだと認識することができた。
気配を消されてしまっては存在に気付けないけれど、眼の前で接すればなんとなくわかる。
そしてなんとなくわかってしまうのだから、理由など説明できない。
ウィンアットが難しい顔で黙りこくってしまって居心地が悪くなったカネリアは、二、三度咳払いしてから口を開く。
「でも、ウィンアットさん――その姿でメイドさんの格好をしていると、なんだかとても可愛らしいですね」
「……………………」
今のウィンアットは灰色の短めな髪をした中性的な顔立ちだったが、女性用の服を着ているともう少女にしか見えない。
変身に伴い背丈が縮んでだぼっと衣装のサイズが合わなくなって生まれたアンバランスさが、不思議な魅力を生み出しているようにも感じられた。
こうして見ると、とても暗殺者などという物騒な肩書を背負っているようには思えない。
「普段からそういった格好をされてもよいのではないですか? 相手の油断を誘えるとも思うのですが」
「……オレがこの身体を見せるのは、パーティメンバーに対してだけだ」
面白くなさそうにそう呟いて、ウィンアットは彼女の隣の椅子を引いて腰を下ろした。
「……まあ、使用人であれば屋敷の中を好きにうろつけるし、身分を一つ用意しておくのもいいかもしれないな」
ウィンアットは人目につくような生き方を好まない上によく姿形を変えるので、街の住民や屋敷の人間が見てもそれが勇者パーティのウィンアットだとは認識できない。
なので屋敷の中で誰かに姿を見られれば不審者扱いされてしまう。もっとも、ウィンアットに限って誰かに見つかるということは起こり得ないのだろうが。
「ところで……。わざわざ変装までして、どうされたんですか?」
用事があるなら朝のように執務室へ来てくれればよいのに、わざわざ使用人の振りをして食事どきに話しかけてくるとは。
正体を偽った上で情報を探る必要があったとでもいうのだろうか。
ウィンアットの意図が読めずにカネリアは首を傾げる。
彼女としては、勇者パーティのメンバーに対して何か隠し事をしたりするつもりはないのだが。
訝しげな問いにウィンアットはその細い眉をバツが悪そうに歪めぽつぽつと言った。
「いや、まあ、なんだ……。使用人相手の方が、お前も気が楽かと思って、な……」
珍しくたどたどしい口調で返ってきた答えに、カネリアは首を傾げる。
そして先程の、使用人の振りをしていたウィンアットとの会話を思い出す。
――何か、お悩み事があるのですね。
――悩みは人に話すと楽になるとも申しますし。
「……もしかして、私を心配してくださっていたんですか?」
意外そうなカネリアの声に、ウィンアットは居心地が悪そうに目を逸らした。
「スフィネルが不在の間に、お前に心労で身体を壊されてもかなわん」
「けれど、それなら別に、変装の必要は……」
「お前がオレのことを恐れていることくらい、わかっている。心労を解消しようというのに、更に精神負担をかけては本末転倒だ」
その答えにカネリアは途端に申し訳無い気持ちになった。
心此処にあらずという様子で心配させてしまっただけでなく、こんな気まで遣わせてしまうとは。
自分ごときの為に申し訳無いと、彼女は自罰的な気分になる。
しかも、ウィンアットのことを密かに苦手に思っていたことまで悟られていたとは……。
なんとも言えない居心地の悪さに苛まれる。
「わ、私は別に――いえ、確かにウィンアットさんのことを怖いと感じてしまうことはありますが……。かといってあなたとお話しすることが負担だとなんて、思っていません」
まあ、登場の度に驚かされるのは困りものだが。
「……気は遣わなくていい。オレは別に、お前からどう思われようと構わない。そもそも、暗殺者であるオレを見て怖いと感じるのは正常な反応だ」
確かにカネリアは、ウィンアットが纏う雰囲気や細かな所作から本能的な恐怖を感じている。
しかし自分が直接何かをされたわけでもないのに、何なら身の周りの脅威から助けてもらっている側なのに、にも関わらず苦手意識を持ってしまうことは不誠実であり申し訳無いことだと思っていた。
何よりも、ウィンアットは偽物の勇者に過ぎない自分のことを心配して悩みを聞いてくれようとする優しい人間なのだから、自分が変わらなければならないと彼女は思った。
「……ウィンアットさん。よければ明日一緒に、街へ出かけてもらませんか?」
「……急にどうした」
「私があなたのことを怖いと感じてしまうのは、あなたのことをよく知らないからではないかと思うんです。私はあなたのことを怖いと思ったままでいたくないので、考えを改める機会をいただきたいのです」
「……オレはスフィネルとの関係で悩んでいるらしいお前の心労を和らげるだけのつもりだったんだが」
「心労というのなら、あなたとの関係だって、このままではいけないと思っています。私のことを案じてくださるのなら、どうかお願いします」
そんな頑なな姿勢を見せるカネリアに、ウィンアットは反駁を諦めたようだった。
「……やはり変わらんな、この性格は……」
「ウィンアットさん?」
「……わかった。それで、明日はいつ執務室に行けばいいんだ?」
いつも通り抑揚に乏しい声は、けれど少しだけ弾んでいるように聞こえた。