人は何の為に生まれて、何の為に生きるのか。
答えなんてそうそう出るものではないと、意味の無い問いだと言う者もいる。
しかしこの問いについて頭を悩ませることができるのはとても幸せなことであると、カネリアは思う。
人間とも呼べない存在である彼女にとって、それは考える権利すら無い問いかけだからだ。
彼女は生まれた理由のみでなく、何をすべきなのかすらも、初めから明確に決められていた。
そんな己の人生を悲観しているつもりは無い。つまらない命だと悲嘆に暮れるなんてあり得ない。
生みの親であるご主人様には感謝している。
幸いにも感情が乏しいので、己が境遇に堪えられないほどの辛さを覚えることもこれまで無かった。
精々、自分に対処できないような問題が起こった時に逃げ出したくなるくらいだった。
勇者カネリア・ゴールデン・ベリルとして求められる姿を演じるのは決して容易ではないけれど、そのお陰で得たものも少なくない。
だから自らの一生が悲劇的であるとは思っていない。
そもそも人並みの幸福というもの自体、想像が難しいものだ。
今が幸せかと問われれば彼女は迷わず首を縦に振るだろう。
しかしそんな彼女だって、時として不満や反感は覚えるものだ。
常人が同じ状況で感じるものと比べれば遥かに些細な揺れ動きであっても、何も感じていないわけではない。
例え相手が敬愛し尊敬し恐れ慄き屈伏させられ忠誠を誓ったご主人様であったとしても、反発したくなる時というのは確かに存在するのだ。
生んで育ててくれた親にすら、反抗する時期というものがあるように。
人間とはそういうものだ。
彼女は純粋な人間とは言えないが、人間に似た精神構造の下、現在その身に降りかかっている理不尽に沸々と心を燃やしていた。
「ご主人様……。私は自分が今どういう状況に置かれているのか、理解がまったく追いついていません」
場所は、表向きにはカネリアが所有していることになっている、実際はスフィネルの管理下に置かれている屋敷の浴場。大きな湯船には香草が漂い、温かな湯気と共に鼻孔をくすぐる甘い匂いが漂っている。
屋敷の主が執務の疲れを癒やし明日への活力を得られるよう粋を凝らして設計された安らぎの空間。
そこで彼女は裸に剥かれ、湯に映る表情は憮然としていた。
入浴の時間はカネリアにとっても一日の間でわずかに心安らぐ時間の一つであったが、生憎と今はそうではない。
ここには今、彼女とご主人様の二人しかいない。
つまり彼女が不満げな表情を向ける相手は、他でもないご主人様――スフィネル・バー・パロックルであった。
樹海から街へ戻ってくるなり、シーナ達救助者のことは他に任せて、何よりもまずカネリアを連れて浴場へと飛び込んだ彼女。
カネリアが怪訝に細めた視線を向けても彼女は一切悪びれる様子無く、口元には満足げな笑みさえ浮かべていた。
そして湯に浸からせた彼女の身体を正面から撫で回していた。
慣れた手つきで、臆面もなく、好き勝手に撫で回していた。
ぺたぺたぺちぺちと撫で回し、いっそ舐め回すほどの勢いだった。
「んー、すべすべ。リアちゃんの身体は相変わらず触り心地がいいねぇ。癒やされる~」
「質問に答えてください、ご主人様」
彼女はそんな追及を受け流すように、湯船の中を滑るようにしてカネリアの背後へと移動する。
当然ながら彼女も裸。
しかしその堂々たる振る舞いは、カネリアには到底真似できないものだった。
さらさらさらりとカネリアの肌の上に手の平を這わせながら、今度は後ろから抱きつくような形で腕を回す。
そして頬を首元に擦り寄せて甘い声音で囁く。
「七日七夜私に奉仕する、そういう約束でしょぉ?」
「この状況は、どちらかというと私が奉仕されている側であると思うのですが」
カネリアの憮然とした表情は変わらない。
何しろ、こうやって湯船に浸からされる前にご主人様の手で身体を隅々まで洗われて髪を入念に手入れされ、マッサージまでされてしまった。
けれど彼女はご主人様に対して何もしていない。ただされるがままになっているだけだ。
奉仕というのだから何かしなければとは幾度となく思ったものの、その悉くで機先を制され返す刀でお世話されてしまった。
無茶な命令を下されるよりかは遥かに楽かもしれないけども、ご主人様に仕える身として、これはこれで相当に居心地が悪い。己の存在価値が揺らいでいる気分になる。
「細かいことは気にしな~い。こうやってリアちゃんのお肌の調子を確認するのは、私の仕事の内でもあるからさぁ〜」
言いながらカネリアの慎ましい胸部を舐るように弄っていた柔らかな手のひらを、するすると下半身へ移動させていくスフィネル。
カネリアはそんな手をやんわりと、しかし確固たる意志で払いのけ、控えめに抑えたため息をつく。
「ご主人様、私の身体の調子を気にかけていただけるのはとてもありがたいですが、結構です。大丈夫です。自分でわかります」
「えー? 自分で確認できちゃうの? や~らしぃんだぁ~」
「……この手でこれから何を確認するおつもりだったんですか……?」
眉をひそめ、背後のスフィネルに目を向ける。
何だか得体の知れない悪寒が背筋を走った。
そんな視線をふふんと躱し、彼女はカネリアの肩を抱く。
「それはもちろん、感度だよ」
「は? かん――?」
「そんな怖い顔しないでさ、潔く私に全てを任せて?」
「……私が勇者様の代替品で、ご主人様の所有物であることは理解していますが……。勇者様は、本当にご主人様とこんな触れ合いを続けていたのですか……?」
スフィネルのこういった暴挙は今に始まったことではない。
よくこうした突拍子も無い要求をカネリアに突きつけ、「オリジナルのリアちゃんともやってたことだから!」とかいう理由を述べて押し通そうとする。
しかしカネリアにしてみれば、当然にわかには信じられない。
生まれた理由も何をすべきかも明確に決められている身ではあるが、本当にこんな行為までも、必要とされているのだろうか。
「うんうん、してたしてた~」
そして彼女の真剣な問いかけに、スフィネルは能天気な笑顔で答える。
世界最高の錬金術師として讃えられる本物の天才のはずなのに、こういう時の表情はとても馬鹿っぽかった。
馬鹿というか、何も考えていないようだ。
何も考えていないから、邪気も無い。
無邪気の結果が、ただ欲望に身を任せただけの過剰なスキンシップなのだ。
カネリアはこれまで、主であるスフィネルから事あるごとに正気を疑うような扱いを受けてきた。
そのほとんどが、本物の人間とは違う、複製体である彼女の寿命を伸ばすための処置という話だった。
けれどたまに今回のような、理解できない行動に付き合わされる。
そしてそういった場合、内心で疑問を抱きながらもスフィネルに流されるというのが常だった。
「リアちゃん今回、結構無理してたでしょ? 魔力の使い過ぎで身体が動かせなくなるほど消耗するなんて、無茶以外のなにものでもないからね? ちゃんと反省しなくちゃいけないんだよ?」
「はい、ご主人様……」
スフィネルからねちねちとたしなめられて、カネリアの身体はしゅんと縮こまる。
確かに、ご主人様の言う通りだ。
いくら相手に手傷を負わせたとはいえ、こちらが動けなくなってしまったら後はもう死ぬだけだ。
なんでも見透かすご主人様がその慈悲の心で助けに来てくれたからよかったものの、本来であれば自分はあの場で死んでいた。
そんな実感があるからこそ、彼女は反省の為にあの時の事をよく思い出そうと試みる。
「――でも、あの時のことはあまりよく覚えていないんですよね……。勝手に身体が動いていて、その間は何かを考えたり感じる余裕がなかったといいますか……」
言ってしまえば、気を失っている間の感覚に近い。
気が付けば時間が経ち、事態が進行していた。
極限の状況で追い詰められ無我夢中に行動していたということなのだろう。
普段のカネリアでは、あの土壇場であれほど思い切った行動はできない。
「……ふぅん。なるほど、面白いね、それ」
「面白い、ですか? 私にはあまりよくわかりませんが……」
「うふふ、普段は自分の命にさして執着が無さそうなリアちゃんでも、ちゃんと生存本能があるんだぁと思ってね」
「……私はご主人様の所有物ですから。ご主人様の許可なく死ぬことはよくないということくらい、わかっています」
「……そうだよ。うんうん、よくわかっているじゃあないか、その通り! リアちゃんは私の許可なく死んではいけない――だからこれからは、あんな無茶は絶対にしちゃいけないんだからね?」
カネリアの頭を両の手でぐいっと掴んで、鼻先が触れるような距離に持ってくる。
スフィネルはそんな彼女の瞳を食い入るように覗き込んで、囁く。
「わかった?」
「は、はい、ご主人様」
有無を言わさぬその瞳に見つめられれば、首肯する以外の選択肢は無い。
そして同意した以上は、カネリアにはその約束を守る義務がある。
無茶をしてはいけない――そもそも彼女だって、状況が許すのなら無茶なんてしたくないのだが。
「よし! じゃあこれでおしまいにしよう、つまらない話は。せっかくリアちゃんと七日間一緒にいるんだから、もっと楽しさ満点の時間にしたいんだよね」
カネリアが約束を破り失態を犯したばかりだというのに、不思議とスフィネルは機嫌が良い。
しかし機嫌が良かろうと悪かろうと、彼女の精神が削られることに変わりはない。
「……ご主人様、もしかしてこれから七日間、ずっとご一緒に……?」
「え? うん。当然じゃん。七日七夜って言ったんだから。百六十八時間ずっと一緒にいようね。片時も離れる気は無いよ」
片時も離れる気は無いということは、つまり片時も離れる気は無いということだ。
人の考える常識など彼女には関係が無いので、本当に一瞬たりとも離れる気が無いのだろう。
「――百六十……」
「キリが悪いから二百時間でもいいよ」
「……。……ご主人様の、お心のままに」
恭しく頭を垂れるカネリア。
奉仕の開幕からこんな健全とは言い難い入浴タイムでは先が思いやられるが、不承不承ながらも了承しよう。
ご主人様がそれを望まれるというならば。
彼女の意のままに動くことこそが、自分が生まれてきた理由なのだから。
◇◇◇
「取り敢えずあれかなぁ。私のことご主人様って呼ぶの、やめて欲しいかなぁ」
「……唐突ですね、ご主人様」
屋敷の風呂で身体の隅々までさっぱりした後、カネリアの寝室への道中で、スフィネルは突然何やらよくわからないことを言い出した。
しかし彼女が藪から棒なのは今に始まったことではないので、カネリアは落ち着き払って言葉を返す。
「では、一体何とお呼びすればよろしいのでしょう。主様、マスター、スフィネル様……」
「いや、普通に、フィーさんって呼んで?」
――フィーさん。
それはかつて本物の勇者カネリアが使っていたスフィネルの愛称、ということらしい。
カネリアが偽物であるとバレないように、表向きにはスフィネルのことをそう呼ぶよう以前から厳命されているので、知っている。
だから彼女は自らの事情を知る者以外の目がある場所では言いつけ通りご主人様をフィーさんと呼ぶ。
「――無理です、ご主人様」
「なんでだよーぅ! 他の人達の前ではちゃんと呼んでくれるじゃん! なのになんで二人っきりだとできないんだよ! 理屈おかしいだろうがっ!」
「私が偽物だとバレないようにするのは、仕事なので……。誰も見ていないようなところでまで拘る理由がありません」
「ばーか! ばーかばーか! リアちゃんのばーか!」
「ご主人様……。そういうご主人様の方が、すごく馬鹿っぽいです……」
白けた目を向けそう息を吐くカネリアは、おいたわしやと目を伏せる。
彼女にとって、ご主人様は余人の手など届かない遙か高みにいる存在だ。そんな彼女が駄々をこねる子供のように振る舞う姿など、あまり長時間見たくなかった。いや、自分が見る分にはまだいいが、他の誰かにご主人様のこんな姿は見せたくない。こんなところを見られてはその名声に傷が付く。
カネリアにとって勇者の名声を守るのは使命だが、ご主人様の名声を守ることもまた譲れないものだった。
「あまり廊下で騒がないでください……。こんなところ、誰かに見られたらどうするんですか」
「ふんだ! それを言うならリアちゃんだって、ちゃんと私のことを普通にフィーさんと呼ぶべきだろうが今でも! いつどこで見られているか分からないって言うんならさ!」
「……しかし、それはその……。普段からご主人様のことを気安くお呼びするというのは、私の立場としては畏れ多いのです」
「お願い聞いてくれないんだったら奉仕にならないじゃん!」
カネリアにしてみれば自分がご主人様への呼び方を変えることで何故それが奉仕になるのかさっぱりわからなかったが、しかしここまで言い募られては辛いものがある。
元々彼女はスフィネルに対して従順であり、命令が下されれば内容如何に関わらずそれに従う心構えだ。
今回はちょっと内容が馬鹿っぽすぎたので冗談のようなものかとも思っていたが、案外マジな感じがする。
「はあ……。わかりました、フィーさん。……これでいいですか?」
どうせ七日七夜の間だけだ。半ば諦める形で自分を納得させて、カネリアはご主人様からの要求を受け入れた。
スフィネルはたちまち目を輝かせ、彼女の身体を抱き寄せる。
「うぉーグッドォッ! それだよそれそれェ! その感じだよ! ――よし。次はもうちょっと、蔑んで吐き捨てるような口調で……」
「フィーさんってやっぱり、勇者様から鬱陶しがられていたんですか?」
「えー? 愛し合っていたよぉ~?」
満面の笑みで心外だなぁと呟く彼女は、抱き寄せたカネリアをそのままがっちりと抱える。抵抗の余地が無い完全な拘束に、カネリアの顔には戸惑いが浮かぶ。
「え?」
「その顔は、疑ってるよねぇ――リアちゃんにはちゃんとリアちゃんでいてもらわないといけないんだから、どういう風に愛し合っていたのかしっかり事細かに教えておいてあげないとねぇ」
「いや、あの、ご主人様……? もうご主人様のお部屋は過ぎましたが……」
「フィーさん、でしょ?」
「ひっ――」
「今夜は一緒にリアちゃんのベッドで、ご奉仕、してね……?」
「ひぃっ!」
カネリアにとっては、スフィネルの意のままに動くことこそが生まれてきた理由だ。
生まれた理由のみでなく、何をすべきなのかも、初めから明確に決められていた。
とはいえその通りに生きるのも、それはそれで難しいことなのだった。