そびえるような山脈の向こうに太陽が隠れ、夜の帳が降りきった星灯りの下。
カネリアは一人草原を駆けていた。
北の樹海へ向けて、護衛も付けずにたった一人で。
不安が無いと言えばそれは純度百パーセントの嘘になるが、それを表に出すわけにはいかない。
本来であれば今すぐにでも街へ帰りたいところだが、そうはいかない。
勇者としての体面を守らなければならないから――というわけではない。
自分よりも年小の少女が、同じくたった一人で、危険を承知で行動しているのだから。
厳密に言えば、カネリアは見た目通りの年齢ではなくシーナの方が人生経験は長いはずだが、年端もいかない少女が単身で壁外へ出ているという事態は変わらない。
そしてそんな事態を招いてしまった責任の全端は領主であるカネリアにあるわけで、事ここに至ってはもはや、執務室でハーブティーを味わっていることなどできないのだ。
それが、普段は防壁と炎の加護に守られた安全なベリルの街中ですら一人で出歩くことを避ける彼女が、危険に充ち満ちている壁外をひた走る理由だった。
「しかし、樹海の入り口までこんなに時間がかかるとは……。本物の勇者様なら、既にシーナを見つけて解決しているのでしょうね……」
眼前に広がる樹海を見ながら、荒れた呼吸を整える。
いや、そもそも本物の勇者ならこんな事態を招いていまい。
ゲイン小隊が消息を絶ったという報告を受けた時点で、自ら動いて彼らを救っていたはずだった。
とことん自身の不出来が嫌になる。
自分が偽物であるばかりに、他人の命が失われてしまう。
「ともかく……。ここまで勝手な行いをした以上は、何か一つでも結果を出さなければ……。ご主人様に失望されてしまう」
街へ戻ったご主人様に折檻されることを想像し、彼女の身体はぶるりと震える。
街の外へ出ることは、彼女がご主人様から固く禁じられている事項の一つだ。
それもただ外へ出るだけでなく、よりにもよってこんな危険なところまで。
例え無事に生きて帰れたとしても、無事では済むまい。
――リアちゃんはさぁ、私のリアちゃんなんだから、危ないことしちゃダメだよ? 勇者の複製体って言っても、その能力はオリジナルに遠く及ばないんだから。
――知らない人について行ったらダメ。人から物をもらったらダメ。一人で街の外に出たらダメ。
――それでももしも危ない目に遭ったなら、他の何を犠牲にしても自分を守らないとダメだよ? 魔王を倒した勇者が、そう簡単に死ぬわけないからね? リアちゃんが死ぬことは、私が絶対許可しないから。
――ねぇ、わかった? わかったよね? わかってくれるよね? だってリアちゃん、賢いもんね。いい子だもんね。私の言うことはなんでも全部、守ってくれるもんね。
あの時は、約束を違えるとどうなるのか、恐ろしすぎて訊ねることなどできなかった。懸命にただ無心で首を縦に振り続けることしかできなかった。
しかし、今なら想像できる。
言いつけを破るということが、きっと魔王より恐ろしいあのご主人様を酷く失望させ、怒らせてしまうということを。
「……。シーナさんを早く見つけないと」
幸いなことに、ご主人様は外出中で、しばらく街の外へ出ている。
いや、ご主人様が街にいてくれれば問題は即座に解決していたはずだから何も幸いなことなどないのだが、とにかく。
留守の間に事を終えてしまえば、今回の約束破りも誤魔化せるかもしれない。
主人相手への隠蔽工作。
普段の彼女ならこんなことは絶対に考えないのだが、追い込まれた心理がそうさせた。
息を整えるのもそこそこにあちらこちらへ首を振り、血走った目でシーナが通った痕跡を探す。
彼女が既に樹海へ入った後ならば、きっとどこかにその足跡が見つかるはずだ。
そしてカネリアが思った通り、それは割とすぐに見つかった。
「――あった。……どうやら私も、森の中へ踏み込む必要があるようですね」
真っ直ぐに、樹海の奥へと続く幅の狭い足跡。
まだシーナが樹海にまで到達しておらず、道中を捜索していた防衛隊が発見してくれるという可能性に期待していたカネリアとしては、この発見は気が重い。
何よりも、シーナ本人の命に危機が迫っている可能性が格段に跳ね上がった。
防衛隊の精鋭部隊が消息を絶つような場所に少女が入り込んで、無事で済むわけがないのだ。
しかしだからこそ、立ち尽くしている暇もまた、無い。
カネリアは深呼吸を一つして、見つけた足跡を辿って真っ直ぐに樹海へと突入する。
偽物とはいえ、彼女はカネリア・ゴールデン・ベリル。
偽物には偽物なりの、矜持がある。
例え本物と比べて十分の一にも満たない能力しか無かろうと、打ち立てられた数々の栄光と実績とは何の関係も無かろうと。
人々は彼女を、勇者カネリアだと信じている。
一度ついてしまった嘘は最後までつき続けるというのも、一つの責任の取り方だろう。
「世界を丸ごととはいかなくても……! せめて、女の子の一人くらい、私にだって……っ!」
カネリアは走りながら、祈るように両の手のひらを合わせる。
そして一呼吸おいてからそれを離すと、手のひらの間には小さな炎のような何かが生まれた。
勇者カネリアを勇者足らしめた異能――【黄金】。
金色に輝き炎のように揺れるそれは、古来より勇者にのみ発現するという破邪の力。
またの呼び名を、奇跡の火。
その光は魔獣を遠ざける加護として、ベリルの街や王都の中心で今もなお煌々と輝いている。
黄金の炎で世界を救った、勇者カネリア。
そしてその複製体である彼女もまた、力の一端を扱うことができた。
とはいえ、所詮は模造品。
如何に勇者パーティーが誇る天才錬金術師が生み出したコピーとはいえ、オリジナルである勇者の力を完全に再現できたわけではない。
偽物の彼女が生み出せるのは、精々が手のひらサイズの小さな輝き。
これでこの樹海に棲む凶悪な魔獣達をどうこうできるわけでもない。
しかし、その黄金の輝きは、他でもない彼女自身を奮い立たせた。
「勇者様……。どうか私に、そのお力をお貸しください」
薄暗く危険な森の中。
その一筋の光だけが、彼女の心を支える道しるべだった。
魔獣から襲われる前にシーナを見つけることができれば、一人の少女くらいなら、カネリアにも助け出せるかもしれない。
代償として命くらいは必要になるかもしれないが。
……しかし、死んでしまったらどうやってご主人様に詫びればよいのだろう?
極度の緊張とストレスからか、そんなどうでもいい思考に流されていたカネリア。
そこで彼女は見つけた。
小さな足跡を辿って樹海の草木を分け入った先。
姿を隠すように身を屈めるシーナと……、地面に横たわる、いくつかの人影。
「――シーナさん」
「っ! カ、カネリア様……っ! 助けに来てくださったんですか!?」
暗く沈んでいた顔をぱぁっと輝かせ、跳ね起きるように腰を浮かせる少女。
やっと見つけた捜索対象のそんな姿に、カネリアの心中が晴れることはなかった。
やれやれ、まさか……。
連れ帰らないといけないのが、シーナだけではなくなってしまうとは……。
「よ、よかった……! なんとか兄さん達を見つけることはできたのですが、ここからどうやって街まで戻ったものか、途方に暮れていたんです」
「……ゲイン小隊を見つけたのですか。……すごいですね」
ゆっくりと辺りを見回すと、すぐ傍にぎょっとするほど大きい魔獣の死体が転がっていた。
恐らくゲイン小隊はこの魔獣と遭遇し、戦闘の結果相討ちとなって倒れたのだろう。
そしてその現場を探し出したシーナの手で介抱されていたようだが、四人の隊員達は全員目を閉じている。
「皆さんまだ生きてはいるんですが、怪我で気を失っていて……。私一人では、四人も背負って帰ることはできませんし……。本当に、カネリア様が来てくださってよかった……!」
「…………」
残念ながら、カネリアだって一人背負うのが限界である。
というか、ゲイン小隊の隊員は大の大人であるのだから、一人だって難しいかもしれない。
彼女は元々シーナだけを連れ帰る想定で救助に来たのだ。
「カネリア様の判断を無視してこんな勝手な行いをした私を見捨てず、兄さん達のことまで救ってくださるなんて……。ああ、勇者様……」
「……ゲイン達を見つけたのはあなたでしょう、シーナさん」
「そうか……。カネリア様は、初めからこうなさるおつもりだったんですね……。防衛隊に無用な被害を出さない為に、お一人で助けに向かわれるつもりだったんですね……。それを私の勝手な行動で、よりお手間をかけることになってしまった……」
「……面白いことを言いますね、あなたは」
「勝手な真似をした私のことは、見捨ていただいて構いません! ですがどうか、兄達のことはお救いくださいッ!」
「……少し、落ち着きましょうか」
さっきからシーナの耳にはカネリアの言葉が届いていないような気がする。
街の人間は彼女の言葉を本人の意に反した受け取り方をするきらいがあるが、今日のシーナは余計にそうだ。
恐らくこの危険な状況における過度な緊張がそうさせるのだろう。張り詰めた意識は、冷静さを欠いていた。
カネリアとしては、重すぎる過度な期待をぶつけられすぎて、今すぐにでもここから逃げ出してしまいたい気分だった。
一人救うのでもやっとだと思っていたのに、合計五人も救わないといけなくなった。
根本から作戦を練り直さなければいけない。
その為には、シーナには少し落ち着いてもらう必要があった。
カネリア自身が落ち着くためにもだ。
「大丈夫です、シーナさん。私達は皆、向かう場所は同じです。一人ぼっちになんてしません」
全員生き残るか、或いは全員死ぬか。
新たな魔獣に見つかった時点で全員死ぬのは確定なので、この場合の結末は魔獣に見つかってみんな死ぬか、見つからずに全員生きるかの二つに一つだ。
無論、前者の可能性が九分九厘。
明け透けにそんな事実を述べるわけにもいかないので、精一杯聞こえを良くして取り繕ったカネリアの言葉。
シーナはそんな彼女の台詞に、あろうことか、心底安心したような表情でほっと息を吐いた。
「――ああ、カネリア様……。勇者様……。感謝の言葉もありません……」
そしてそのまま、糸が切れた操り人形のようにその場で倒れる。
まさしく糸は切れたのだろう。
極限の、緊張の糸が。
カネリアが少女を落ち着かせようとしたその言葉は、少女にとっては余りに希望が強かったらしい。
落ち着くどころか安心しきって、気を失ってしまった。
「……………………えぇ。。」
そうして、カネリア以外には横たわる人影しかない森の中。
どうしてこんなことに、と一人で取り乱したい気分だった。
けれどそうやって事態を投げ出さない程度には、彼女にも偽物なりの責任感があった。
まあ、投げ出さなかったところで何かができるというわけでもないのだが。
「――鄒主袖縺昴≧縺ェ莠コ閧峨′豐「螻ア縺ゅk縺ェ」
直後。
一瞬で背筋が凍るような悪寒。
そして同時に周りの時間が不自然に遅くなるような感覚。
カネリアはこれまでの短い一生の中で、これと同様の感覚を三度体験したことがある。
一度はご主人様の逆鱗に触れた時。
そして残りの二度は、街の外で魔獣に襲われた時だ。
「縺上?繧九?縺ォ繧ょョケ譏薙>縲ゆサ頑律縺ッ縺?>譌・縺?」
何らかの意味を伴っていそうで、しかし人間の頭では決して理解出来ない不気味な音の羅列。
地の底から響いてくるようなそれは、魔獣の鳴き声だ。
振り返れば、すぐそこにいる。
姿を確認せずとも存在がはっきりと認識できる程の威圧感。
むしろ、何故これほど接近されるまで気付かなかったのかと思わされる。
「……やはりここの魔獣は、気配を隠すのがお上手ですね。いっそのこと、私が気付かない内に殺してくだされば心も幾分か楽だったのに」
「豁サ縺ャ縺ョ縺梧悍縺ソ縺ェ繧峨?√◎縺ョ騾壹j縺ォ縺励※繧?m縺?」
極限にまで張り詰めた空間。
すぐそこに死が差し迫った状態にあって、カネリアの心は不思議なまでに澄んでいた。
ざわり、と空気が動く。
魔獣が決定的な行動に移った、その瞬間を感じ取る。
それと同時に、カネリアの身体が動く。
頭で考えるより早く、反射的な行動。
魔獣の眼前で炸裂する、黄金色の炎。
視界一面を塗り潰すほどの輝きとなって、樹海を照らす。
「――蟆冗飭縺ェ逵滉シシ繧ッ!」
破邪の光に目を灼かれた魔獣の攻撃は、カネリアのすぐ脇を通過する。
ビリビリと袖の部分が引き裂かれるが、それだけだ。
手傷は負っていない。
思考が介在しない、刹那の戦闘。
カネリアの身体は本人の意識も置いていく。
「――ッ!」
一時的に視界を奪われた魔獣の瞳を、炎を纏わせた右手で貫く。
頑強な魔獣の身体に傷をつける手段などカネリアは持ち合わせていないが、急所を攻撃するのであれば話は別だ。
突き刺した右手を無造作に引き抜く。
虚ろになった眼窩から、ドス黒い血が吹き出る。
「險ア縺輔s縺槫ー丞ィ倥′ッ!!」
痛みに身悶えしながら激昂する魔獣。
そして冷静さを欠いた故に生じる隙へ、カネリアは追撃を試みる。
しかし――
「――っ……?」
ガクンッ、と。
身体の力が抜けて、片膝をつく。
反射的に二撃三撃と追撃を加えようとしていたカネリアだが、それを実行するには身体に宿る体力が足りなかった。
反射的な魔法の使用による、立っていられないほどの不調。
そこでようやく彼女の意識が現実へと追いつく。
「あれ……?」
気が付けば手負いの猛獣と化した魔獣。
そしていつの間にか立ち上がることすら困難なほどに消耗した己の身体。
「辟。讒倥↑譛ォ霍ッ縺?縺ェ縲∝窮閠?き繝阪Μ繧ッ!!」
そんな彼女に、怒り狂った異形の怪物が迫る。
「――ッ……!」
「――いやぁ本当に、いつまで経っても世界って理解出来ないことばかりだよね」
直後。
カネリアの華奢な肉体を引き裂かんとしていた魔獣の体躯が、粉々に吹き飛ぶ。
横合いから埒外の暴力で殴り飛ばされたように、分解された身体のあちこちを歪ませながら。
「――思ったより柔らかくて助かった。私は腕っぷしは得意じゃないしね」
突如として眼前を薙いだ無慈悲な破壊は、カネリアにとっては見覚えがあった。
現象や理屈は全く理解出来ないが、それでもこの無茶苦茶な光景には見覚えがあった。
彼女がこの世で最も畏れ、そして最も信頼する存在。
この世にカネリアを生み出したご主人様。
勇者パーティーの頭脳、
どうして彼女がここにいるのかはわからないが、しかし確かなことは、この場にいる全員の命は救われたということだ。
けれど、カネリアの胸中は魔獣に襲われていた時と何ら変わっていない。
むしろ、鼓動は先ほどにも増して早鐘を打っている。
「ご、ご主人様……。どうして……」
命が救われたというのに、心は全く晴れない。
むしろ、このタイミングで彼女に出会うくらいなら、他の魔獣が出て来てくれた方がマシだったと、カネリアは思ってしまうのだった。