人が人の上に立つことを、この世界は善しとしている。
王、貴族、領主。
決して大きな声では言えないけれど、その座に就くのは優秀な者達ばかりというわけでもない。
そして他でもないカネリアも、そんな内の一人だ。その座に見合わぬ人間だ。
他でもない、彼女自身が強くそう思っている。
人が人を治めるこの世界で、上に立つ者にはある種の特権が認められている。
故にそれを求め、往く道に邪道を選ぶ者が多いというのは、事実であろう。
しかし、確かに正道とは程遠いところを歩いている身ではあるかもしれないが、彼女は私利私欲の為に領主という仕事をやっているわけではない。
むしろ許されることなら、こんな役目からは下りてしまいたいとさえ思っている。
この思いもまた、口が裂けても言えないけれど。
特に、あの恐ろしいご主人様にだけは、決して言えない。
――よく聞きなさい。今日からあなたが、リアちゃんの代わり。優しくて可憐で偉大で可愛いリアちゃんの代わり。今日からあなたが、勇者としてこの街を治めるの。
両の手でがっしりと頭部を掴まれ無理やり開かれた瞳に突き刺さる、常軌を逸した真っ赤な視線。
有無を言わさぬ迫力を伴った声。
カネリアがこの世で初めて知った感情は、恐怖だった。
――でも安心して。たかが複製体であるあなたに、リアちゃんと同じことができるとは思ってない。私は優しいから、そんな大それたことは望まない。あなたはただ、私の言う通りにすればいい。全て私に従いなさい。私はあなたの、ご主人様なのだから。
こちらを思いやるようなその言葉の裏には、自分には想像もできないような感情と思惑が渦巻いているのだということは、目覚めたばかりの彼女にも察することができた。
そして悟った。
自分はこの生みの親に、決して逆らってはいけないのだと。
その結果が、今である。
自らの意に反して、分不相応な地位での望まぬ仕事。
それがご主人様から彼女に与えられた役目であった。
勇者の代わりにこの街の平和を守り統治せよという命令。
偽物の肩書を背負い立場を騙っている彼女にとって、その仕事は余りにも荷が重いものであったけれど、投げ捨てることは許されない。
ご主人様の命令は絶対だ。
故に担ぎ方を考え、騙し騙しで運んでいくしかない。
愚かな姿を見せるわけにはいかない。
情けない顔を見せるわけにはいかない。
民を導く領主として、皆から尊敬される勇者として、生半可な立ち居振る舞いを見せるわけにはいかない。
いつだって冷静に。そして合理的に。
毅然とした態度で判断を下すだけだ。
命の価値を正確に計り、功利を求めてより良い結果になる方を選ぶ。
街の外で消息不明になった小隊を救うのに、より大きな犠牲を伴う可能性が高いなら、切り捨てる。
例えその者達の家族がなんと言おうと、何を思おうと、関係無い。失敗すると分かっている任務に部下を送り出して死なせれば、更に大勢が自分を責め立てることだろう。故に勇者という立場にとって、より良い結果になる方を選ぶだけだ。
なんて、簡単に割り切ることができれば、世話は無い。
皆が執務室から出て行った後、カネリアは一人、椅子の背にもたれかけつつずっと瞼を閉じていた。
誰もいなくなった部屋が心なしか寒く感じる要因は、果たして――。
自ら閉ざした視界は、ぼやけた光が微かにたゆたう形の無い世界。
ゆっくりと、冷たい水底に沈んでいくような感覚。
そこから浮かび上がる浮力は無く、水をかいて上に向かったところで、水面には厚い氷が張っている。
氷を隔てて見る太陽は、ただ水中から見上げるよりもぼやけていて、温かみも感じられない。
同様に、外の世界から見た自身の姿は酷く冷たく見えていることだろう……。
ゲイン達を見捨てた彼女を、街の人々は心が無いと非難するだろうか。
それともバーツのように、納得してくれるだろうか。
この街に住む人々は、勇者カネリアという存在を信頼している。
様々大勢の人間がいるとはいえ、大多数の者達はその判断に理解を示してくれるだろうとは思う。
しかしその信頼は、実際は彼女自身へ向けられたものではない。
誰にも知る由は無いけれど、彼女は勇者カネリアの仮面を被っているだけだ。
彼らは皆、その仮面の口から出る言葉が勇者のものであると、錯覚しているだけだ。
その素顔を目の当たりにすれば、誰しもが背を向ける。
だから彼女はきっと、今後一生、このカネリアの仮面を脱ぐことはないだろう。
そう考えるとなんだか、今生きているこの世界というものが、とても虚ろなものに思えてくる。
拠り所であった仲間、ご主人様達が皆不在となっている今。自分が果たして本当にここにいるのかどうかも、定かではないような気分。暗闇の荒野を、一人歩いているような感覚。一歩進めば道を踏み外して真っ逆さまに落ちてしまうのではないかという恐怖。
彼女は知っている。
これを心細さと、人は呼ぶ。
「ご主人様……。お戻りはいつになるのでしょうか……」
ここにはいない、声音など決して届かない主への呟き。
それは、気がついた時には自然と口から溢れていた。
あの方がいれば、今頃問題など全て解決されていただろうに……。
カネリアにもご主人様に頼りすぎているという自覚はあるし、改めなければいけないとも思うけれど、やはり切羽が詰まるといつの間にか頼ってしまう。
しかし今回の件は、もう過ぎた話だ。ゲイン達を助けに行くには今更遅すぎるし、彼女はそれをしないという判断を下した。不格好ではあれど、確かな幕引きを迎えた。
だからこの件で主を頼るということはもう無い。
なのに何故、彼女はその名前を呼んでしまったのだろうか――
ふと瞼を開くと窓の外の景色は既に赤みがかっていて、美しいながらもどこか鮮血の色を思い出させるその光に、瞳が僅かに痛んだ。
そんな景色からは目を背け、放置していた書類仕事にでも取り掛かろうかと机に向き直った、その時だった。
「カネリア様ッ! 大変です!」
勢いよく開け放たれた扉。
血相を変えて飛び込んできたバーツに、彼女は内心かなり驚いた。
彼がノックもせず飛び込んでくるほど焦りを露わにすることは稀だったし、そもそも昼間あんな事件があった後で、これ以上大変なことなんて、何が起こるというのだろうか。
ただひたすらに雲行きが怪しい。
「北の樹海に部隊を出動させる許可を下さい! 指揮は私が執ります!」
普段は落ち着いた物腰を崩さない彼がここまで感情を隠さないのは、異様を通り越して不気味だった。
「バーツさん、落ち着きましょう。どうしたんですかあなたらしくもない。取り敢えずハーブティーを淹れましょう」
彼のことを慮ってというよりかは、単純に自らが落ち着く為のハーブティー。
常日頃から心労に悩まされている彼女は無理を言って様々な茶葉を取り寄せてもらい執務室に常備している。
心労が絶えない彼女のささやかなわがままの結晶。
しかしそんな彼女のコレクションは、真に切羽詰まっている時には役立たない。
「――シーナが一人で樹海へ向かったようなのです!」
立ち上がり、茶葉を保管してある棚へ伸ばしていた手が止まる。
容器を手に取っていたら、落としてしまっていただろう。
取っておきの茶葉をぶちまけずに済んだのは僥倖だけど、代わりに耳を塞ぎたくなるような情報が飛び込んできてしまった。
「……もう一度お願いします」
「シーナが、一人で、樹海へ向かった、ようなのです……」
聞き間違いの可能性に縋りたかったけれど、どうやらそうではないらしい。
「……目的は?」
「恐らく、ゲイン達を助けに行ったのかと……」
「…………。愚問でしたね」
カネリアはゆっくりと首を横に振って、バーツへ向き直る。
いや、向き合わなければいけないのは、現実と、かもしれないが。
「門兵は何をしていたのですか? 許可の無い者――ましてや子供を一人で外に出すなんて」
「北門の警備は、誰も出していないし誰も見ていないと言っていますが、南門の警備が彼女を見ています。恐らく南から大回りして樹海へ向かったのでしょう。ちょっと散歩してくると言って出て行ったそうですが、予定の時間を過ぎても戻って来ないことを不審に思った門兵から報告があり、発覚しました」
街の南側は魔獣もほとんどおらず、王都への道と繋がり往来も多いことから、他の方角と比べて警備の目が緩くなっている。
シーナはそれを利用して、理由を偽り警備の目を誤魔化したのだろう。
外壁上の警備隊からも隠れながら北へ向ったということは相当な大回りになっているはずだが、昼間にこの部屋を出た後にすぐ向ったのだとすれば、今頃樹海にまで到達していてもおかしくはない。
もっとも、途中で魔獣に襲われていなければだが――
「カネリア様、警備隊を出動させる許可を……!」
事態の緊急性を正しく認識しているからだろう。
バーツの表情はかつてないほど鎮痛だった。
彼は優しすぎるが故に、誰かが命を落とすことを決して善しとしない。
兵士が任務で犠牲になることも許容できないほどに健全すぎる精神の持ち主である彼は、少女の危機を前にしてただ手をこまねいていることなどできないのだろう。
そしてカネリアは、そんな彼を見て、意図的に意識を一歩退く。
目の前のことに囚われてはいけない。
常に視野を広く保ち、俯瞰して状況を理解するのだ。
敬愛するご主人様は教えてくれた。
冷静に合理的な判断を下すには、感情は時として邪魔になる。
人はその場の感情に流され、過ちを犯す生き物だからだ、と。
それは、純粋な人間とは言えないカネリアにとっても、通じる訓辞であった。
「……既に日も暮れかけています。夜間の行動は日中とは比にならない危険を伴う。それも緊急の、子供の捜索となれば、多くの人員が必要でしょう。それはつまり、それだけ魔獣と遭遇する可能性も高まるということ」
しかもそれだけやって、シーナを助けられない結末だって多分にあり得る。
行動を起こさなければ失うのは一人の少女の命だけだが、一度始めてしまえば全てを失うかもしれない。
「その上であなたは、これが価値のある行いだと思いますか? 大勢の仲間を失う可能性を天秤にかけて、たった一人を救えるか細い望みに縋ることが」
それが意地の悪い問いかけだということは投げかけた本人にもわかっている。
しかしバーツは、そんな問いを投じた彼女に眉をひそめることすらせず、真っ直ぐな眼差しを向けて答えた。
「勿論です。私は胸を張ってそう答えることができます。何故なら、他でもないあなたが、私達にその生き様で示して下さったことだからです」
残念ながらその「他でもないあなた」というのは彼女自身ではないのだけれど、それを口に出す必要は無い。
本物の勇者であれば、ここで一人の少女を見捨てるようなことはしない。
命の価値や数など勘定に入れない。
眼の前の全てを救う為に、何よりも困難な道を往く。
それが、勇者カネリアという存在。彼女が世界に示した正義。
それだけが、どうしようもない事実である。
「そうですか……」
小さく吐息を溢して、机上に散らばっていた書類を片付ける。
彼の答えは合理的に考えれば検討の余地すらない、棄却されて当然のものだ。
カネリアに言わせれば、とても人の上に立つ人間が下していい判断とは思えない。
けれど実を言うと、彼がそう答えることは、彼女には最初からわかっていた。
彼はそういう人間だ。
わざわざ答えさせたのは、自分自身の踏ん切りを付けたかったからに他ならない。
「――わかりました。それでは陣頭指揮をお願いします、バーツさん」
信じていたとでも言いたげに口角を上げて、彼は力強く頷く。
そんな眩しい眼差しを向けないで欲しいと、彼女は思う。
まったく、彼らが勇者を信じ過ぎるせいで私はいつだってこんな役回りなのだ、と。
本物の勇者であれば躊躇わず選んだであろう選択を、偽物の彼女が選ばないわけにはいかないのだから。
「ただし防衛隊に捜索を許すのは北の樹海手前までです。南門からの足取りを追ってください。彼女が樹海に入るよりも早く追いつくことができるのならば、それが一番いい」
踏ん切りを付けたといっても、決して自暴自棄になったわけではない。
いくつもの可能性を視野に入れつつあらゆるものを天秤にかけ、現時点で最善と思われる一手を選ぶ。
もっとも、物事がそう上手く運ぶものなら、カネリアはもっと心穏やかに毎日を過ごすことができているだろう。
世の中なんて、ままならないことばかりだ。
けれどそんなままならないことで振り回されることに、彼女は残念ながら慣れている。
「――北の樹海へは私が向かいます。他は任せましたよ、バーツさん」
たった一人で北の樹海へ足を踏み入れ生きて帰れるなんて思っていないが、この身が惨たらしく死ぬ様を人に見せるわけにはいかない。
だからこそ、シーナの下へは自分一人で向かう。
精々動じぬ姿を最後まで見せて、後は神頼みと洒落込もう。