その丘からは、大きなベリルの街全体を一望できた。
樹海を切り開いて作られた空間にずらりと並ぶように屹立する石造りの建物達はまだ真新しい、生まれたばかりの溌剌とした空気を纏っている。
見上げればそこにある蒼穹はまるでどこまでも広がっているようで、静かに街と森を包み込んでいる。
悠久の大自然と人の営みが絶妙に調和しているような錯覚さえ覚えさせる光景だ。
視界に広がるそんな景色へ、思わず小さな息が溢れる。
自然の雄大さに感動したわけではない。
街並の美しさに見惚れたわけでもない。
彼女は思う。
この胸中にあるのは、憂鬱だ。
まるで身体の中で重たい石ころが横たわっているかのような感覚。
眼前には曇りの無い希望が輝いていて、それが目に見えない重しとなって全身へとのしかかってくるようだった。
「……まったく、勝ち過ぎる荷ですね、本当に」
この街は今でこそ大陸中から大勢の人々が移り住んできているが、元々は魔王が支配していた土地だ。
辺境都市ベリル――またの名を、勇者の街。勇者が魔王を倒した褒美として、王から与えられた領地だった。
魔獣の生息域にほど近い危険な辺境だというのに、誉れ高い勇者が治める土地として人気があるらしく、街の人口は常に増加傾向にある。
住民は全員わざわざこんな辺境に好き好んで移ってきた者達ということもあり、時たま過酷な事象が起こった程度では街から活気が消えることはない。
ベリルの住人は、皆その内に強さを秘めている。
それこそ、この街でいつも活気が無いのはここにいる彼女くらいのものだ。そして人の目を気にせず済む今この瞬間、彼女は暗澹とした雰囲気を特に顕著にまとっていた。
彼女の目の前に鏡があれば、映る表情は曇りきっていたことだろう。
実際に瞳へ映っているのは、曇りの無い真っ青な空と、その下にある壮麗な街並みだというのに。
そんな何事も無い平穏な光景が、彼女にとっては憂鬱の根源なのだった。
とはいえ、原因が明らかであっても解決できない問題で溢れているのが世の中というもの。
彼女がこれまでの短い生の中で学んだ教訓だ。
つまり彼女は今、諦念の中にいた。ここでこうしていることに、何か意味があるわけではない。
言うなればただの逃避で、そして逃げたところで現実が変わるわけではないということもわかっていて、つまるところ無意味な行動。
されど、例え無意味であったとしても。確実に必要な行為ではあった。
気晴らし、息抜き、気分転換。
表現は何でも構わないがとにかくそういう時間が誰しもに必要なのだ。
例えば、人々から羨望される勇者にだって必要なのだ。
一人で街の外へ出るという危険を冒してでも、たまにはこういう瞬間が必要なのだ。
そうやって自分を弁護する。
逃れ得ぬ憂鬱に後ろから監視されながら、不自由な空を眺め街を俯瞰するというひとときが無ければ、きっと彼女はこの現状に耐えきれない。
だからこうして、決して無価値ではない無意味な逃避に耽っていたわけなのだが。
不意に現実が追いかけてきた。
「カネリア様! こちらにおられましたか!」
そんな呼び声にため息をつきたい気持ちは無理矢理忘れる。軽く両頬を叩いて覇気の無い顔を押し隠し、目に見えない仮面を被る。
しっかりといつもの自分を作ってから、カネリアは息を切らして駆けてくるその人物の方へと振り向いた。
「……いかがしましたか? シーナさん」
近付いてくる厄介事の気配で沈みそうになる心を気取られぬよう、表情を固めてゆっくりと応じる。
「実は、取り急ぎお耳に入れたいことが……。道中でご説明いたしますので、どうかお屋敷までお戻りくださいっ!」
いっそ遠くまで逃げてしまおうかなんてちらりと思ったりもしたけれど。
いつになく深刻そうな顔で急かされてしまった彼女は観念して、その言葉に大人しく従う。
どれだけ気が進まなくても、この街で何か問題が生じたというのなら、その話を耳に入れないわけにはいかない。
カネリアを先導するため後ろを向いた少女にバレないようにため息を一つだけ吐いて、丘の上の景色から視線を切る。
それから来た道を小走りに戻る少女の背を追う。
まだろくに雲も流れていないのに、逃避の時間は早くも終わりを告げてしまった。
こんなにも早く、自分の役目と向き合うことを迫られてしまった。
それは、決して逃れられぬ、投げ出すことなど許されない責任。
魔王を倒し世界を救った勇者への、人々の期待。
王からこの大きな街を任された彼女、カネリア・ゴールデン・ベリルには、背負うべきものが数多くある。
そしてそんな彼女が血相変えた誰かに呼ばれる時というのは、大抵何某かの問題が起こった時なのだと決まっている。
そんな時に彼女が求められるのは、その何某かの問題を解決すること。
勇者として、領主として、一人の人間として。
人々から期待される役目を果たすこと。
つくづく大変な役割を任されてしまったものだと彼女は思う。考えるだけで疲れる。
だから時々は仕事のことを忘れて一人黄昏れたりする時間が欲しかったのだ。
そうでもしないと、圧し潰されてしまいそうだったから。
けれど、そんな胸の内を知る者は、今のこの街にはいない。
嗚呼、どうして自分の街へ戻るのに、これほど心細い想いをしなければいけないのだろう。
嘆く彼女の心を焦がすように。
見上げれば、太陽が無責任に世界を照らしていた。
◇◇◇
ベリルの街中心部、王から下賜されたカネリアの屋敷。
その領主執務室で彼女を待ち構えていたバーツは、眉間に深い皺を刻んで告げた。
「北の樹海へ偵察に出ていた小隊が、戻らないのです」
皺の似合うような年齢に差し掛かっている彼だったけれど、その表情は見ていてどこか痛ましかった。
どこか疲れているようでもある彼の様子、しかしそれは彼女も同じだ。
丘から急いで戻ってきたせいで脚が不愉快に重くなってしまっている。
そんな疲労もあって、カネリアは部屋に入るなり受けた状況報告をひとまず受け流し、自分の椅子へ腰掛けて執務机の上で手を組んでから彼に尋ねた。
領主として泰然自若とした姿を見せるのも仕事の内。
精一杯焦りを感じさせない所作で、威厳を損なわないよう最大限の気配りをしながら口を開く。
「北の樹海へ偵察、ですか……。フィーさん達が不在の今、しばらくは控えるようお願いしたつもりでしたが」
元より魔獣の生息域にごく近くただでさえ危険だったこの土地は、魔王軍壊滅によって更に無秩序になったのもあり、とにかく危険で満ちている。
魔獣を退ける勇者の加護も街の外にまでは及ばないし、加護の炎も絶対ではない。
彼女からするとそんな危ない所に好きこのんで住む領民達や勇者パーティの面々はどうかしてしまっているとしか思えないのだけど、思ったところでどうにもできない。
いっそ領民が皆いなくなってしまえば領主としての仕事も無くなり万々歳なのだが、残念ながらそんなことを言い出すわけにもいかない。
立場がそれを許してくれない。
そして、例え今から何をどう足掻いたところで起こってしまったことは起こってしまっているのだから、諦めて対処をしなくてはならないだろう。
ため息をつくどころか机に突っ伏したい程の衝動を抑えつつ、カネリアは頭の中でバーツの言葉を繰り返す。
北の樹海へ偵察に出ていた小隊が戻らない――。
――うーむ、ご愁傷様以外に言葉が見つからない。
北の樹海とは、危険に充ち満ちているこの地域でも取り分け混沌とした、特記警戒地帯だった。
なんでもその奥地には深淵という魔獣と魔族の世界が広がっているらしい。
らしいというのは聞いた話だからで、カネリア自身にはそんな名前からして恐ろしい所へ足を踏み入れた経験など無い。けれどよく勇者パーティのメンバーが行って帰ってきているので、存在していることは確からしい。
ただし行って帰ってこれているのはあくまで勇者パーティのメンバーだからということを、決して忘れてはいけない。
そこは、言わば魔窟。
王国領域内に出没する他の魔獣達と比べても、遙かに強かな魔獣達が闊歩している、人ならざる者の領域。
力試しにこの街へやって来る屈強な冒険者達も本能的に何かを察するのだろう。特段の説明をせずとも北の樹海にだけは近付かない。
つまりそんなデンジャラスゾーンで何か問題が起こったということは、事態は街の警備力程度で解決できる範疇を軽く超越しているということだ。
確かに防衛隊の役目の一つは、街に近付く魔獣がいないか警戒することである。
しかし北の樹海は他の地域と比べると多少以上に事情が異なる。
だからカネリアは、有事の際に対応できる人材がいない今は不用意に近付くことを避けるよう、防衛隊司令のバーツへはそれとなく釘を刺していた。
それはこんな事態を恐れてのことだった。
「申し訳ございません。ですが北に対して警戒を完全に解くというわけにもいかず……。中域以上には踏み込まず、何かあればすぐ撤退できる体制で、一番の精鋭であるゲイン小隊を向かわせておりました」
苦々しげにそう報告する彼は、彼女よりも遙かにこの事態を重く受け止めているような表情だった。
彼が思慮深く責任感の強い優秀な男だというのは、今は街を不在にしてしまっている勇者パーティの頭脳が下した評価だ。
だからカネリアは彼に防衛隊を任せているのだし、そんな彼がカネリアからの指示があった上で下した判断なのだから、それは必要なことだったのだろう。
彼女としては樹海から例え何がやって来てしまったとしても、パーティメンバー不在で対応できる戦力が無い以上はもう諦めるしかなく、わざわざ怖いものを見に行くこともないという思いだったのだけれど。上手く伝わらないものだ。
とはいえ彼は初めから半ば諦めていた彼女よりも余程頭を悩ませていたのだろうから、責めることもできない。
それに、不測の事態というものは起こって欲しくない時にこそ起こるものだ。世界は意地悪なのだ。
自分が起こらないでくれと願いすぎてしまったせいで起こってしまった事態かもしれない。
彼女は大人しくそう受け止めて、そして今度こそ堪えきれずにため息をついた。
「はあ……。すみません。私が考え無しでしたね……。バーツさんが責任を感じる必要はありません」
「いえ、それは――もっ、申し訳ございません……」
カネリアが本心からの言葉を述べると、彼は驚いたように顔を上げ、表情を強張らせ、上げたばかりの頭を再び深々と下げた。
何だか恐縮させてしまったようで恐縮なのだけど、これは本当に彼の責任ではないと彼女は思っている。
他でもない、自分自身の責任だと。
何故なら残念なことに、彼女はこの街の領主なのだから。
領主なのだから、この街で起こる事に対して責任を持つ。
それが彼女の仕事なのだ。
他にできることなど特に無いけれど、寝耳に水な案件の責任を負う心の準備だけはいつだって万端にしている。
手放したくなるほど重い荷だけれども、それがその身に任されてしまったものなのだ。
国を救った勇者という立場と共に、彼女が背負うことを求められているものだ。
そしてそれは望む望まざるに関わらず、彼女の生きる理由にもなっていた。
故に手放すわけにはいかない。
これを手放してしまえば、自身に一切の価値が無くなってしまうような気がするから。
そうなった未来は、想像するだけで心が震える。自然と顔も険しくなる。
そんな固い表情を見て申し訳なさそうに目を伏せたバーツを前に、彼女はゆっくりと瞼を閉じた。
そして言葉を発さず考える。
領主として責任を負うのはいいけれど、その責任の果たし方はどうしたものだろう。
この事態を解決できる手段などは、残念ながらこれっぽっちも思い浮かばない。
どれだけ考えたところで結論は同じだろう。
打つ手無し。
例えば勇者パーティの内、もしも誰か一人でもこの場にいてくれれば話は全く違っていた。
本来後衛職であるスフィネルに北の樹海まで行ってもらうのは気が引けるにしても、強敵との戦いを求めがちなジャスパーなんかは喜び勇み足で向かっただろう。
他のメンバーも、なんだかんだで協力してくれるはずだと思う。
しかし今、頼れる彼ら彼女達は皆いない。
何という不運。
直視しがたい不幸だった。
「参りましたね……。救援を向かわせようにもゲイン小隊で対応できない問題が起こっているのなら、他に適任など思いつきませんし……」
バーツへの評価と同じように、今回安否不明になっている彼らが精鋭だという評価もまた、疑いようのない事実。
カネリアとしても、パーティメンバーの不在時には密かに心の支えにしている部隊、頼みの綱でもあった。
しかし、勇者パーティの不在というのはやはり防衛部隊の一つや二つでは埋められないらしい。
いつもは頼れるメンバーが居るからこんな胃に穴が空きそうな仕事でもやっていけている彼女だが、全員不在の上、ゲイン小隊までいなくなったとなれば、一体誰を頼りにすれば良いのだろう。
戦力という意味ではベリルの街に設置されている冒険者ギルド支部に協力を要請するという手段もあるが、領主権限でそれをしていいのは、街そのものに危機が及ぶような場合に限られる。現状では手を借りることはできないだろう。
ギルド経由で冒険者に依頼するという形ならまだ可能だろうが……。
この街に来るような冒険者達は良くも悪くもベテランで、何よりも自分達のリスク管理に余念が無い。
ゲイン小隊が消息を絶つほどの樹海に、不確定要素も多い中、好き好んで救助へ向かってくれるような酔狂なパーティは早々見つからないだろう。
それこそ、勇者パーティくらい頭のネジが外れている必要がある。
打つ手なし。万事休す。
不安な思考に苛まれて、頭がくらりとふらつく。
自分が立っているのか座っているのかもわからなくなる。
――これは、久し振りに感じるあれ……、絶望というやつだ。
頭の奥で鈍い痛みがじわじわと広がり、額に脂汗が浮かぶ。
視界も心なしか暗く、狭まっていくようだった。
しかし街の領主として、皆を率いる立場として、気弱な表情は見せられない。
彼女の仕事は主に、こういう時に虚勢を張ることなのだから。
少しでも威厳を出すべく眼光が鋭くなるよう目を細め、声が震えないように低く抑え、努めて気丈に振る舞って言う。
「ここで下手に救援を送っても犠牲が増えるだけでしょう。残念ですが……。偵察とは、そういう仕事です」
しかしどれだけ外面のみを取り繕ったところで、口から出るのは夢も希望も無い、酷く現実的な台詞だけだった。
バーツがそれを受け止め、静かに瞑目する。
しばらくの沈黙を挟み、ゆっくりと口を開く。
「……はい。彼らには、あの世で侘びましょう。無論、それで許されるわけもありませんが」
沈痛な面持ちで重苦しく語る彼を見ているとカネリアも少し胸が痛んだけれど、他の判断など下しようがない。
つまり、ゲイン達のことは見捨てるしかない。
尊い犠牲として切り捨てるしかない。
それ以外に、取り得る手段などない。
もっと自分に力があれば、とは思う。
勇者パーティのメンバーに頼らずとも自分自身の力で問題を解決することができれば、こんな風に胸中を波立たせずとも済んだはずだ。
彼女は思う。
無力だ、自分は。
どこまでも、どうしようもなく。
しかしそれは今に始まったことではない。
これまでも幾度となく、自らの能力不足は痛感してきた。
未熟な能力では不釣り合いな立場に自身が置かれているということも理解していた。
だからこそ、カネリアは常日頃から思っている。
まったく、勝ちすぎる荷であると。
思うところこそあれど、打開策はない。
四人の命を救う為に、更に多くの命を危険に晒すことは、できない。
現状ではやはり、ゲイン達には諦めてもらう他――
「――それでは……。兄さん達は、助からないということでしょうか……?」
カネリアが見栄えの悪い結論を箱に入れ、蓋を閉じようとしたその時だった。
不意に、部屋の入口の方から声があった。
恐る恐ると投げかけられたその声の主は、先程街外れの丘まで血相を変えて彼女を呼びに来た少女。
「シーナさん……」
バーツとの会話と手に負えない現実へ気を取られ、存在をすっかり失念していた少女のその張り詰めた顔を見て、思い出す。
彼女シーナ・ベンガルは、今回安否不明となっているゲイン・ベンガルの妹だった。
ここに至ってようやくカネリアは、丘で会った時から彼女の様子が普通ではなかった理由を悟る。
気付くのが遅すぎると、流石のカネリアも自らを詰る。
今にも泣き出しそうな少女の顔が視界に入り、殊更憂鬱な気分になる。
去来するのは、先ほどまでの自身の言動に対する後悔。
シーナにしてみれば、実の兄が見捨てられる瞬間を目の当たりにしたようなものなのだから、その悲しみや憤り、やるせなさは計り知れないものだっただろう。
カネリアは再度頭がふらつくような感覚を覚え、思わず額を手で押さえる。
彼女には、人の感情や考えや心の機微というものが今一つ理解できない。
イメージはある程度できたとしても、実感を伴って理解するのは難しい。
そのせいで他人のことを慮らぬ発言をして、傷つけてしまうことは今までも何度かあった。
そして感情のイメージが上手くできないとは言いつつも、虚しさや苦しみや絶望といった、自分が頻繁に感じるもののことはよく知っている。
だから自分が傷つけてしまった後、その相手がどういう想いなのかはわかってしまう。
いっそそれすらも感じない無感情な人形になれたら楽だったかもしれないけれど、失敗の後は後悔して気に病むというのが常だったから、これでも気を遣って生きている。
しかし今日は、そこに神経を割くような余裕がカネリアには無かった。
その結果が、これだった。
無責任に狼狽する彼女に、少女は瞳を潤ませながら、こんなことを言う。
「勇者様、お願いです……! どうかそのお力で、兄とその仲間を、お助けください……!」
その台詞に、ほとんど反射的に天井を見上げる。
ため息をつきたくなるのを、上を向いて喉を圧迫することで必死に堪えた形だ。
この動作は日頃あちこちでため息を溢したくなりがちな彼女が、されど立場上溢すのを堪える必要に駆られ、いつの間にか癖になっていたものだった。
上を向いていればほとんどのため息は堪えられる。
ちなみに溜息を堪えるのと同時に何の言葉も発せなくなるので、問題の先送りでしかない。
ただ今回の場合、二の句が継げない理由は単純に喉が圧迫されて話しづらいという以外にも、何を言ったものやらわからないという情けない理由もあった。
せめてもの強がりみたいなもので、彼女は目を瞑って意識的に難しい表情を浮かべておく。
そんな彼女に代わって、バーツがシーナにその険しい表情を向けた。
「シーナ。無理なお願いをしてカネリア様を困らせるのはやめなさい。――カネリア様は、
重苦しく諭すような口調で発されたその台詞にカネリアは、勘弁してくれと首を振りたくなるのを必死に堪え、心の中で振るに留める。
そしてもう一度、今の彼らのやり取りを思い出す。
そうすることで今度は意識的にではなく、心から険しい表情を浮かべることができた。
――どうかそのお力で、兄とその仲間を、お助けください。
――カネリア様はお忙しいのだ。お手を煩わせるわけにはいかない。
残念ながらバーツもシーナも、一つ重大で致命的な間違いを犯している。
それは、二人とも、カネリアにはこの問題を解決できる力があると信じて疑っておらず、それを大前提として物事を語っていることだ。
確かに、魔王を倒し世界を救った勇者なのだから、魔獣の一体や二体、倒せて当然だと思うだろう。
真に危険な深淵の手前、樹海程度であれば単独でも生還するくらいの能力は持ち合わせていると期待されているだろう。
彼女自身も立場が違えばそう思う。誰だってそう思うはずだ。
しかし、それは違うのだ。完全な勘違いなのだ。
彼女にそんな力は無い。
彼女ごときにそんな力、あるはずもない。
何故ならこのカネリア・ゴールデン・ベリルという名前も、勇者という肩書きも、領主という立場も、全て。
一切合切の全てが、本物の勇者から借り受けただけに過ぎない、偽物なのだから。
勇者パーティを率いて旅をしたのも、魔王を倒したのも、彼女ではない。
皆が勇者だと思っている彼女は勇者の偽物。
一人で街を出歩くことすら可能な限り避けるくらいの臆病者だ。
北の樹海になど行けるはずもない。
行ったところで、行方不明の人間が増えるだけ。
頼りになる勇者パーティのメンバーがいれば話は別だが、たった一人で防衛隊の救助なんて行くつもりは彼女には毛頭無い。
それはシーナの悲壮な顔を見た程度では揺るがない、固い決心だった。
彼女は決心を更に固める為に、考える。
情けない限りではあるけれど、別に命が惜しいというわけではない。
ただ単純に、下手な無駄死にをするわけにはいかないという話だ。
その身には一応与えられた役割というものがあるし、ご主人様から死んではならないという命令も受けている。
皆に勇者だと思われている彼女が、万一にでも誰かの目の前で情けなく惨たらしく死んでしまっては、本物の勇者様の名声を汚してしまうことになる。
勇者の名声、それだけは何をおいても守らなければならない。
どうしても死ぬしかない時は、せめて人目につかないところで死ななければいけない。
それくらい、下手に死ぬわけにはいかないのだ。
それに第一、彼女が向かったところで、ゲイン達を救い出すような力は無いのだから、行く意味が無い。
そんな言い訳じみた御託を一つ一つ頭の中で並べる彼女を他所に、バーツはシーナの肩に手を置いて語りかけていた。
「恨むなら、私を恨むのだ、シーナ。お前の兄を死地に向かわせたのは、他でもない私なのだから。だが間違っても、他の人間を恨んではいけない。憎しみも怒りも、全て私だけに向けなさい」
「バーツさん……私は……私は……っ!」
「私には君の感情を全て受け止める義務と責任がある。君の唯一の肉親を、死なせたのだから……」
「うわあああああ……! うわぁぁあああああああああっ!!」
いよいよ泣き出してしまったシーナと沈痛な面持ちのバーツが繰り広げるやり取りから目を背け、俯く。
魔王を倒した勇者という肩書きのせいで過剰な期待を寄せられるのにも、勇者らしくあらねばと外面を取り繕うのにも、カネリアはいい加減慣れていた。
しかしだからといって、何の負担もなくそんな生活を続けられるというわけではない。
例えばこういった場合、幼い少女から向けられる期待を裏切ることに、全く抵抗が無いかと言えば嘘になる。というかすごく心が痛い。
そして領主として皆を導く役目を負っている以上、期待にはできる限り応える必要があるとも思っている。あくまでできる限りではあるが。
残念ながら、人が己の力だけで成し得ることには限界がある。
これは、個人で化け物染みた強さを誇るあの勇者パーティのメンバーが、それでも魔王討伐の為にはパーティを組まざるを得なかったという事実が証明している、この世の真理だ。
まったく嫌になる。
世界というものは、受け入れがたい事ほど抗うことを許さない。
例えば、人一人ができることには限界があるという真理。
あるいは、昨日まで隣にいるのが当然だった身近な者の死。
もしくは、自分には目の前で泣いている少女の涙を止める術すら無いという現実。
一体あと何回、世界から己の弱さを突きつけられれば良いのだろう。
勇者として、領主として。この街に住む人々の暮らしを守らなければならない立場の彼女は、部屋で泣いている少女に言葉をかけることすらできなかった。
当然だ。
肩書きだけでは、人は強くなれないのだから。