「まーくん、まーくん」遠くから俺を呼ぶ声がする。
夢か…。悪夢にうなされたかのように俺は飛び上がって起きた。
声の主は俺の母親だ。母は俺が5歳の頃に、突然家を出ていった。
「ママはまーくんが大好き。大好きで宝物だよ。」幼稚園から手を繋いで歩く帰り道に母はよくそう言ってくれた。夜寝る前は「今日も一日ありがとう。まーくんのことが大好きだよ」そう言って俺を抱きしめ、眠りにつくまで頭や背中を撫でてくれた。
そんな母が、突然帰らなくなった。
いつもなら来るはずの幼稚園の迎えに母の姿はなく、先生と遊びながら迎えを待った。やっと来たと思ったら、迎えに来たのは父だった。父は慌てた様子で走ってやってきて、先生に何度も謝っている。
父が迎えに来たことは今まで一度もない。家に帰っても母の姿はなく、俺は体調を崩したのか、何か悪いことでもあったのかと不思議に思い家族に尋ねた。
「ねーママは?ママはどこに行ったの?」
兄と姉は困った顔をしながら何も語らなかった。父は口を一文字にして無表情だった。
夜になり、いつもなら一緒に横で寝て大好きと言いながら抱きしめてくれる母はいない。
「ママーママー、ママはどこ?ママがいなきゃ嫌だよ、ママ゛-----」俺はずっと泣いていた。代わりに父親の厚くゴツゴツした手で頭を撫でてくれた。
そして次の日も、その次の日も母は帰ってこなかった。
母がいなくなり4日が経った週末の夜、玄関の扉が開き母が無言で中に入ってきた。
俺は食事中だったが嬉しさのあまり、椅子から飛び降り走って母の元へ行った。
「ママー!ママー!おかえり!どこに行っていたの?まーくんね、寂しかったの。」
「ごめんね、ごめんね」泣きじゃくる俺を抱きしめる母。しかし、その日はいつものような笑顔と温かさはなく、困ったように切なそうな顔をして涙を流しながらいつもより長く、そして力強く抱きしめてくれた。
ご飯が終わると、テーブルの兄弟が横並びで座るよう言われた。向かい側には父と母がいる。父は顔を固くして、母は俯いたままだ。
「お前たちに話がある。お父さんとお母さんは離婚をすることにした。理由は、お母さんから別に好きな人が出来てその人と一緒に暮らしたいと言われたからだ。何日かお母さんがいなかったがその相手の家で過ごしていたそうだ。これからお母さんはその人の家で暮らし、この家には帰ってこない。お父さんとお母さんは別々に暮らす。お前たちはどうしたいか選んで聞かせてほしい。」
その時、兄は小学5年生、姉は小学3年生だった。兄と姉は話を理解して父を選んだ。
俺は話が分からず「やだーみんな一緒がいい。みんな一緒じゃなきゃイヤだー」と言ってしばらく暴れるように泣き続けた。気がついたら朝で、泣き疲れてそのまま寝てしまったようだ。俺が寝た後に家族で話し合いを続け、兄弟が離れるのは嫌だという結論に至り、母はその日のうちに荷物を持って出ていったらしい。
あんなに大好きと言って抱きしめてくれた母が、突如として俺の生活の中から消えた。
最後はちゃんと顔を見ることも出来ず泣いたままだった。俺は最後に会った日の母の顔を思い出せない。しかし、母が「ごめんね」と口にする声といつもより力強く抱きしめた感触だけが今も微かな記憶として胸の奥にある。
年を重ねていくうちに母がしたことや離婚の理由を理解するようになった。
しかし、俺の頭の中にいる母親はいつも笑って温かい人だった。幼稚園で作った絵を見せると抱きしめて「まーくん、じょうずに書けたね。ママまーくんの絵大好き」と褒めてくれた。幼稚園で初めての発表会では、帰ってきてから「まーくん、じょうずにおはなし出来ていたね。まま、まーくんがこんなことも出来るようになっているなんてビックリしちゃった」と泣いて喜んでくれた。調子が悪い日は、横で一緒に寝て背中をさすったりギュッと抱きしめてくれる、そんな優しい母親だった。母を泣かせた父を恨んだ時期もあった。
あの時、子どもの俺に出来ることは何もなかった。ただ泣いて嫌と言うことしか出来なかった。そして母の孤独や苦悩などまるで知らなかった。
しかし今は違う。俺も社会に出て働いて収入もある。一人暮らしで家事全般出来るし、経済的にも誰かを養う余裕がある。そして、愛を捧げることが出来る。母は寂しかったのかもしれない。それなら、俺は全力で愛をささげる。寂しい思いなんてさせない。俺は、俺の事を好きになり付き合ってくれた女を離さない。そう心に誓っていた。