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第45話 間に合うのか?

「もう間に合わぬか」


 小雨の中、夕刻の浅草仕置場――小塚原刑場へとひた走った。


 間に合うと信じて駆けるしかない。


 ただただ懸命に駆けた。


 奥州街道は日本橋を起点として千住から白河へと到る。


 山谷浅草町を過ぎれば、道の両側には田地ばかりが広がっていた。


 途中、泪橋を渡って四町(約四百メートル)ほどで刑場に到着する。



 暮れ六ツを半刻近く過ぎていた。


 まばらに生えた松の木越しに、間口六十間(約百メートル)、奥行三十間余(約五十メートル)ほどの刑場のありさまが目に入った。


「まだ終わっちゃいねえ」


 善次郎が大勢の見物人を指さした。


 人の姿は夕闇に紛れて朧気に見えた。


 ふだんの磔刑や火刑でも見物人が大勢集まるものだが、世間の注目が集まっているため、押すな押すなの群衆が詰めかけていた。


 すでに篝火に火が灯されていて〝棒つき谷の者〟と呼ばれる者たちが、棒を片手に、ざわめく人々を押しとどめていた。


(あと少し。間に合ってくれ)


 夢の中で走るようだった。


 足が思うように動かぬ気がした。

 もどかしい。


(すぐ目の前なのに……)


 松や雑木を背景に、二間(約三・六メートル)のつがの木でできた磔柱が押し立てられる。

 磔柱の下三尺(約一メートル)ほどが土中に埋められた。


 柱の左手には罪状が記された捨札が立てられ、八人の同心が所々に分散して立っていた。


 嫌なお役目を早く終えて帰途につきたいとばかりに、苦々しい顔つきをしているに違いなかった。


 ふたりの検使与力は、磔柱の正面から十間ほども離れた床几に腰かけていた。


 見たくもない光景なので、わざわざ離れた位置に席が設えられているのだ。

 供の者が大勢、後方に控えている。



 崎十郎と善次郎は群衆の中に突進した。


「お待ちください!」


 群衆の声にかき消されて声は届かない。


 群衆を押しのけ、突き飛ばして前に進んだ。


 与力は、同心に命じて囚人の名をたださせたのち、弾左衛門の手代に突きかけるよう命じた。


「待ってください!」


 崎十郎らの叫びは観衆のどよめきに紛れる。


 罪人の目の前で左右から槍が交えられる〝見せ槍〟が行われた。


 見せ槍だけで失神する罪人も多い。


 細身で粗末な作りの槍が、胴縄、襷縄できつく縛められた胸の前で、がちりと音を立ててぶつかった。


 崎十郎の耳に届くはずがなかったが、確かに嫌な音が聞こえた気がした。


 群衆のどよめきが大きくなった。


 次の瞬間にはひと突き目の槍が、真吾の左脇腹から肩先に向けて突き通される。


 一瞬。


 皆が固唾を吞んで固まった。

 刑場を静けさがおおう。


 静寂が味方した。


「その処刑、お待ちください! 小人目付加瀬崎十郎にございます」


 叫びながら、処刑場の中に躍り込んだ。


「なに、崎十郎とな」


 検使与力のひとりが声を上げて立ち上がった。


「加瀬崎十郎だと」


「辻斬りがいまごろ、なに用だ」


 同心たちがわらわらと崎十郎を取り囲んだ。


 弾左衛門が、機敏な動きで槍の持ち手を制した。


 いまにも真吾の脇腹に吸い込まれんとした槍の穂先はぴたりと動きを止め、槍を手にした男たちがすいっと引き下がった。


「いかにしやす」と言うふうに弾左衛門が、正副ふたりの検使与力の顔を見た。


「処刑はしばし待て」


 陣笠をかぶった正検使与力が、弾左衞門に向かって重々しい口調で告げた。


「ありがとう存じます」


 崎十郎は、検使与力の前に膝をついてかしこまった。


 善次郎も、武家らしい動きで、すぐ後ろにぴたりと控える。


「崎十郎、子細を聞こう」


 検使与力が大きく頷いた。


「まずはこれをご覧ください。すべての発端はこの備前長船景光にございます」


 崎十郎は景光を手に捧げ持って前に進み出た。






 真吾は処刑を免れ、ふたたび伝馬町牢屋敷に戻されることになった。


 崎十郎はじめ関係者も改めて詮議が行われる。


「兄貴、もう間に合わないかと思ったぞ」


 髪を振り乱したお栄が駆け寄ってきた。


 髪が薄闇のなかで烏の濡れ羽色に輝く。


「お栄が西方寺で足止めしてくれたおかげだ」


 自堕落な格好をした素顔のままのお栄を、崎十郎は初めて美しいと感じた。


「いや、わっちのおかげってえわけじゃねえんだ」


 お栄は気恥ずかしそうにくすりと笑った。


「食い物を差し入れようったって真吾は頑として口にしやしねえ。わっちは『せっかくの心遣いを無にすんのか』って暴れてやったんだ。役人やら寺の坊主やらが止めに入って、そりゃあちょっとした騒ぎになったんだけど、そんなに長く引き延ばせなくってよ。どうしようかと思ってたら、鉄蔵の出番だったってえわけだ」


 お栄は鼻の下を人差し指で擦った。


「あの親父が?」


「朝からいねえって思ってたらよ、今生の別れに、真吾の姿を描かせてもらえるよう、お偉いさんちに頭を下げてまわってたってえわけだ」


「人嫌いでめったに人と口を利かぬ親父がそのようなことを……」


 秋から冬に向かう冷え冷えとした夜気のなかに、春のような暖かさが感じられた。


「いざとなると鉄蔵の〝押し出し〟は半端じゃねえからよ。殺気立って一心不乱に画を描いているところに誰も声がかけられねえ。おかげで日が落ちちまう時刻まで行列を待たせられたってえわけだ」


「はは、無駄に〝変人〟を何十年もやってないというわけだな」


 夜風を爽やかに感じながら、崎十郎は、板のように凝った肩を上下させてほぐした。


「何事も、日頃、信心する妙見菩薩さまのご加護だ」


 いつの間にやってきたのか、北斎は、苦虫を噛み潰したような顔つきで一言だけ言い置くや、すたすたと刑場をあとにした。


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