「右膳、景光を返してもらうぞ」
崎十郎は、愛刀関の兼常を抜刀するや、庭に飛び出した。
「なるほど。そこもとも来ておったというわけか」
右膳は静かに庭に下り立った。
備前長船景光だけが座敷にぽつりと残された。
「辻斬りに名乗る名などない。裏剣客とでも申しておく」
崎十郎は、覆面のまま恰好をつけた。
右膳一味がばらばらと物陰から姿を現して崎十郎と善次郎を押し包んだ。
金で雇われた浪人や破落戸だろう。
先日、襲ってきた連中と同じ胡乱な臭いがした。
「雑魚は俺に任せな」
善次郎が抜刀して、浪人たちの前に立ちはだかった。
「ありがたい。お任せします」
崎十郎は右膳にぴたりと兼常の刃先を向けた。
「この前はためらいがあったゆえ不覚をとったが、今日は違うぞ。おぬしに打ち勝って景光を手にし、無実の真吾を救ってみせる」と息巻いたが……。
「もはやこれまでというわけか」
右膳は刀の柄に手をかけるでもなく、年寄じみた暗い笑みを浮かべた。
「我が身可愛さにそこもとにはすまぬことをいたした。剣客として最後の一戦を交える前に謝っておきたい。言い訳といえばそれまでだがわしの話を聞いてくれぬか」
この期に及んでの殊勝な言葉に、崎十郎の心に漣が立ち始めた。
引廻の行列は西方寺に到着している頃だろう。
西方寺での休息を終えれば、行列は一直線に小塚原に向かう。
一刻を争う。
問答無用でただちに決戦を挑みたかった。
だが……。
(武士の鑑のようだった右膳が、いつから変節してしまったのか、最初から仮面をかぶって拙者を騙しておったのかだけはどうしても聞いておきたい)
是が非でも明らかにしたくなった崎十郎は静かに納刀した。
「わしは、そこもとを真の友と思うておった。最初から欺いておったわけではない」
崎十郎の目を見詰めながら、右膳はしみじみした口調で続けた。
「わしは、幼い我が子を手放した父、忠兵衛を、心底、恨んでおった。口には出さなかったが、そこもととは境遇が似ておったゆえ話がよう合うた」
「確かに右膳殿は、実の兄のごとく接してくださった。拙者のつまらぬ愚痴を聞いて相談にも乗ってくださった」
ついつい口調がかつての間柄に戻っていた。
「養父母は、ただ金目当てであった。子としてわしを慈しむなど、とんとなかった。わしが元服するや、早々に隠居して、わしの禄を当てにするようになりおった。付け届けをもっと多く求めぬかと責められ、心ならずも所々の商人を脅したためしもある」
右膳は生い立ちからいまのありさままで、微に入り細に入り、途切れることなく語った。
「父母は、老いてから、ますます我がままが過ぎるようになっての。ついにはなんの落ち度もない妻までいびり出す始末じゃった」
庭に植わった山茶花の花に目を向けた。
「そうだったのですか。よくできた美しい奥さまと聞いておりましたのに、なにゆえ離縁なされたのかと不思議に思うておりました」
山茶花の色鮮やかな花弁が、一枚、目の前にはらりと落ちた。
「鬱々と過ごすうちに、三年前、密かに駒川改心流を伝授される機会を得た。涎賺しの秘技を会得するや、試したくなったのじゃ」
「それで辻斬りを……」
「さらに剣技を極めたいと次々に凶行を重ねてしもうた。破落戸や不逞な浪人など、生かしておいても詮ない者どもしか斬っておらぬがな」
右膳は唇を歪めながら、
「あの忠兵衛めは、我が息子の乱行を止めるどころか、おのれの商いのために利用しおった。人斬りを重ねた魔性の太刀に値打ちを見いだし、密かに大枚をはたいて買い求める好事家は多い。忠兵衛の裏の商いは拙者のお陰で繁盛したというわけじゃ」
乾いた笑い声を発した。
腹の底から絞り出すような悲しい声音だった。
右膳と崎十郎の間だけ刻が止まっていた。
善次郎が敵と戦う姿が、ときおり目の隅に入る。
「わしは弱い男じゃった。罪を逃れんとするばかりに、唯一、心を許しておったそこもとを陥れてしまうとは……。いくらでも罵ってくれ」
右膳は目を伏せて肩を震わせた。
「済んだことは取り返しがつきませぬ。お互い、一剣客として遺恨を残さぬよう存分に……」
言いかけた崎十郎の言葉を、
「ふはははは、剣客としてだと?」
右膳の常軌を逸した高笑いが遮った。
「え?」
「長話で刻を稼いでやったのじゃ。そこもとは相変わらず甘い男よの。出会った頃は確かに友と呼べたやもしれぬが、わしの気持ちはすぐに変わった。口では愚痴を言いながら、その実、養母と睦まじく暮らすそこもとが憎くなるのに、それほど刻はかからなかったのじゃ」
「な、なんと申される」
崎十郎は兼常の柄に手をかけた。
「ふふ、万が一、わしに勝利して刑場に駆けつけたとしても、いまさら間に合わぬわ。さて、小僧とそこもと、どちらが先に冥土にたどり着くかの」
右膳は小気味よさそうにからからと笑った。
おりしも暮れ六ツの鐘の音が聞こえてきた。
貴重な刻を失ってしまった。
引廻の行列はすでに小塚原の刑場に到着している。
もう間に合わない。
これまで何度も、お役目で小塚原や鈴ヶ森の刑場へ出向いた。
最初の頃は、見るに堪えぬありさまに吐き気を催して上司に叱責された。
無残な最後を遂げる真吾の姿がありありと眼前に浮かんだ。
(拙者の浅はかさで、救えた命が救えなかった)
柄を握る手が怒りでわなわなと震えた。
最初から問答無用で斬りかかれば良かった。
右膳は、出羽守らは固く口をつぐんだままに違いないと判断しているのだ。
この場で崎十郎と善次郎を始末すれば死人に口なしだった。
潜伏していた崎十郎とその仲間を大石に追い込んだ末に斬り捨てたと報告すれば、右膳の身は安泰どころか大手柄にできる、一石二鳥だった。
「おい、崎十郎、右膳の策に乗るな! 動揺して切っ先を鈍らせるな!」
敵の攻撃をかわしながら善次郎が叫んだ。
「かたじけない。またも右膳の術中にはまるところでした」
腕が拮抗していれば、わずかな動揺が命取りになる。
「こうなれば真吾の仇を討つのみ!」
いまこの場でなせる限りを尽くすのみと崎十郎は腹をくくった。