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第42話  解決へと動くが……

 出羽守の駕籠は今戸橋を渡って、浅草今戸にある料理屋『大石』の前で止まった。


 焼き物の今戸焼で知られる今戸は大川の河岸地で、瓦師が多く住んでいる土地柄だった。対岸に、桜で名高い須崎村が一望できた。


 大川を大小の舟がするすると滑るように行き交って、いつも通りののどかな光景が広がっている。


 大石は、大川に面した小体な料理屋で、貴人や裕福な町人相手らしき風雅な佇まいだった。

 数組の客だけ、ゆるりともてなす店なのだろう。


 供侍の手で駕籠の引き戸がうやうやしく開けられ、出羽守がのっそりと姿を現した。


 大名らしい上物の衣服ながら、地味な色目の羽織、袴姿で、頭巾をかぶって顔を隠していた。 


「離れ座敷でお待ちでございます」


 にこやかに出迎えた女将らしき女が、たおやかな仕草で腰を折った。


「他の客は断ったであろうな」


 采女が念を押すように低い声で訪ねた。


「はい、それはもう心得てございます。ささ、どうぞ」


 女中頭らしき年配の女が心得顔で応じながら一行を招き入れた。


 目立つことを恐れているのか、采女は、


「戻るおりは使いをやるゆえ屋敷に戻っておれ」と駕籠者を追い返した。


 大石の母屋と、奥まった離れ座敷の屋根が塀越に見えた。


 十間(約二十メートル)ほど先にある町屋の路地から裏手に回れそうだった。


「行きましょう」


 路地に向かったものの、大石の周囲は板塀でぐるりと囲まれていて忍び返しが施されていた。


「とても忍び込めそうにありませぬ」


 焦る心で、さらに先に進んだ。



 裏手は堀に面していて船着き場があった。


 裏口にも『御料理 大石』の看板がかけられ、堀側からも舟で来る客の出入りに応じられる構造になっていた。


 人待ち顔な船頭がひとり、船縁に腰かけて、大川のほうをながめながら、のんびりと煙草をふかせている。


 裏手の出入り口は固く閉じられていたが、小粋な格子造りになった裏口部分だけ、無粋な忍び返しがなかった。


「しめた。こちらから侵入しましょう」


 船頭から見えぬよう、松の木の陰に身を寄せると、薦を素早く脱ぎ捨てて愛刀兼常を腰に帯びた。


 辻斬りとして追われている者だと知れて騒がれては困る。


 手拭いを取り出して厳重に覆面をした。


「俺が先に行く」


 善次郎は、塀際に立った崎十郎の背中を踏み台にして軽々と塀をよじ登った。


 善次郎の助けで崎十郎も塀を越えた。


 紅葉した木々も美しい、手入れの行き届いた庭に降り立ったが、離れ座敷の周囲に人の気配はなかった。


 人払いをされ、店の者は母屋に引っ込んでいるのだろう。


「あやつらは……」


 離れから十間ほど向こうに見える蔵の裏手、うごめく黒い影が朧気に見えた。


「右膳が金で雇った者たちというわけか」


 善次郎が顎をつるりと撫でた。


 崎十郎と善次郎は気配を殺して身を隠しながら、そろそろと離れ座敷に近づいた。


「今日はまことに良き日でございますな」


 采女が追従笑いをしながら、出羽守と右膳を交互に見た。


 出羽守は依然として頭巾をかぶったままである。


 右膳は、小禄の御家人のような質素で目立たぬ出で立ちだった。


 采女の脇には、多額の金子が入ったらしき包みが置かれている。


「では早々に拝見させていただきますかな」


 采女の言葉に、右膳は傍らに置いた金襴の包みに目をやった。


「あれが景光ですね」


 すぐにも飛び出したい衝動を抑えながら、崎十郎は大きく息を吸い込んだ。


「出羽守と争ってはまずい。馬鹿正直なおめえのこった。いきなり『景光を返せ』と口走るつもりだろうが、話がややこしくならあ。俺が呼ぶまで隠れてな」


 覆面のまま出羽守の面前に出ては怪しまれるだけである。


 善次郎の言葉に、不承不承ながらこくりと頷いた。


 背筋をぴんと伸ばした善次郎は、


「お待ちくださいませ。それがし、もと安房国北条村一万五千石水野家家中池田義信にて、本日は、出羽守さまに申し上げたき儀があり、まかり越してございます」


 ゆったりとした武家らしい足取りで座敷の前庭に踏み出した。


「む」

 右膳が身じろぎした。


「狼藉者!」


 供侍たちが刀をつかんで立ち上がると、鯉口を切って渡り廊下に走り出た。


 右膳の手下は右膳の命を待っているらしく、動く気配がなかった。


「おお、そなたは渓斎英泉ではないか」


 善次郎の顔を見て采女が驚きの声を上げた。


「なに、あの英泉とな」


 出羽守が身を乗り出した。


 声音には感動の響きさえ感じられ、


「一度、そちの顔を見たいと思うておったところじゃ。余に話とはなんじゃ。苦しゅうない。近う寄れ」と上機嫌で手招きした。


「殿、お、お待ちくだされ。英泉めがいかなるつもりで乱入いたしたか不明でございますぞ」


 采女は狼狽した口調で、いまにも縁先に向かいそうな出羽守を制した。


「出羽守さまに申し上げます」


 善次郎は落ち着いた声音で庭先に座して平伏した。


「そこにおる御仁は備前長船景光の正当な持ち主ではございませぬ」


 善次郎はきっぱりとした口調で右膳を指さした。


「絵師風情が無礼な」


 右膳は色を成して腰を浮かせた。


「無礼と申されるなら、ご身分を明かされてはいかがかな、雨宮右膳殿」


 善次郎の言葉を聞いて、本人より先に、采女がおろおろし始めた。


(采女は右膳の正体を知っているが、出羽守には聞かせていなかったわけか)


 崎十郎は事情を推測した。


「おのれ、なにをほざく。拙者は忠兵衛ゆかりの浪人で石井右近と申す。ふらちな言いがかりをつけおって、うぬは乱心しておるのか」


 右膳は、大刀を左手につかんで立ち上がった。


「曲者を斬れ!」


 采女が、いままでの好々爺ぶりから一転、目を釣り上げて供侍に命じた。


 供侍は次々に庭に降り立って善次郎を取り囲む。


(出羽守の家中の方々と刃を交えられぬ。善次郎殿はいったいどうするつもりか)


 崎十郎は、庭木の陰からすぐに飛び出せるよう身構えた。


「待てい!」

 出羽守が一喝した。


 鶴の一声で、皆の動きは刻を止めたようにぴたりと静止した。


「英泉がはたして乱心者か否かは余が決めることじゃ」


「御意」

 供侍はその場にかしこまった。


 右膳も渋々、矛を収めた。


「英泉は類希なる才にあふれた男じゃ。信ずるに値する者ゆえ、まずは、とくと子細を聞こうではないか」


 出羽守は、万事心得ているという顔つきで、おごそかに頷いた。


(画の巧みさと人品とはまったく一致せぬ。親父やお栄を見れば明らかだ。それに気づかぬ出羽守はやはり愚鈍というべきか)


 崎十郎は苦笑した。


「うう」

 旗色が悪くなった右膳は、唇を噛んで押し黙った。


「それでは申し上げまする」


 善次郎が口を開きかけたとき、采女が突如、大声を上げた。


「殿、お耳汚しな話に耳を傾けてはなりませぬ。殿はなにも御存知なきまま終わらせねばなりませぬ。すべてはわたくしめの軽率さゆえでござる」


 廊下に額を擦りつけ、


「法外な価にさえ目をつぶれば、ご所望の備前長船景光が手に入ると思うておりましたが……。いつしか焦臭い因縁の影を知りましてござります。さりとて、いまさら殿に申し上げられず……」


 くどくどと言い訳したあと、足袋のまま、おもむろに庭先におりると膝を折った。


「このような醜聞に巻き込まれてはお家の恥どころでは済みませぬ。殿はいっさい、御存知なきこと」


 胸元をくつろげて脇差を抜くや、いきなり、皺だらけのたるんだ腹に突き立てようとした。


「たわけ者! 余の許しもなく自裁いたすは不忠ぞ」


 出羽守は、見かけによらぬ機敏な動きで庭に飛び出すと采女に駆け寄った。


「余の我がままで無理をいたしたのか。すまぬ。許せ」


「勿体なきお言葉……。しかしそれがしはやはり腹を切らねばなりませぬ。殿のありがたきお言葉を冥土の土産に……」


「そちをうしのうて余は、この先、いかにすればよいのじゃ」


 主君と忠臣との愁嘆場が始まった。


(出羽守は、無理無体を受け入れてくれて、どこまでもかばってくれる采女のありがたさが、ようやくわかったようだな)


 崎十郎はため息のような笑いを宙に吐き出した。


「屋敷に戻る。余はこの場におらなんだ。なにも知らぬ。あとは勝手にせえ」


 出羽守はそそくさと座敷に上がると表口に向かった。


 采女も身繕いしながらあたふたと後を追った。

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