日が落ちた。
甚八は土間に座って内職の草鞋作りに忙しい。
崎十郎と善次郎は囲炉裏端で向き合っていた。
「変装を見破られるとは迂闊でした」
〝かくや〟を箸でつまんで口に運んだ。
酸っぱくなった古い漬け物も、きざんで酒や醤油をかけて〝かくや〟にすれば美味い。酒の肴にも合う。
「崎十郎は、笠をかぶって頬かぶりまでしてたのにな」
善次郎は可笑しそうに笑った。
「拙者は、辻斬りが右膳だと見破ることができなかったというのに……。拙者の負けです」
「なんでえ、その言い草はよ」
善次郎は持参した酒を、古びた欠け茶碗に注いだ。
「あ~情けない。お役目でさまざまに身をやつしておるのですから、体つきに誤魔化されるなど小人目付失格です」
言いながら、小鉢に入ったかくやを、意味もなく箸でぐるぐるとかき混ぜた。
「策士な右膳と、馬鹿正直な崎十郎では無理もねえこった」
善次郎がなぐさめようとするほど駄々をこねたくなった。
「立ち合えば太刀筋の癖からわかるものです。あ~拙者は本当に未熟者です」
くどくどと言い募った。
「前々から言ってやろうと思っていたが、崎十郎は卑屈すぎらあ」
善次郎は、茶碗を乱暴な手付きで囲炉裏の縁に置いた。
「え、卑屈でしょうか」
思わず声が裏返ってしまった。
崎十郎は箸を右手に持ったまま黙り込んだ。
「まわりの顔色ばかりうかがって、己ひとりでなにも決断できねえ。俺に言わせりゃ、万事に煮えきらねえクズ野郎でえ」
図に乗った善次郎が口汚く畳みかけた。
「そ、それはあまりな言い草ではありませぬか。いくら兄同然の善次郎殿でも……」
口中でもごもごと抗議した。
崎十郎の顔が無表情なので、きつく睨みつけたように見えたらしい。
「あ、いやまあ……」
善次郎は目を泳がせ、
「ところで崎十郎、実は、ここに来る前に園絵さまの様子を見てきたのだ」と急に話題を変えた。
「養母はいかにしておりましたでしょうか」
崎十郎は身を乗り出した。
「組頭が来て、おめえを出頭させるよう申し渡したらしいが『頭を見損ないました。頭として子飼いの配下を信じられませぬか。もしも真実ならわたくしはいますぐ自害いたします』と、えらい剣幕で追い返したそうだ。火付盗賊改方からの呼び出しに応じたおりも堂々としたものだったそうだぜ」
善次郎は小気味良さそうに語った。
「養母らしい話です」
心の奥に暖かい泉が湧き出した。
傍らに置いていた湯飲みの白湯を、ゆっくりと飲み干すと、温かさが喉の奥から胃の腑にしみていった。
下駄の音が近づいてきて家の前でぴたりと止まった。
「追っ手か」
崎十郎は兼常をつかんですばやく立ち上がった。
「善次郎さんはこちらですかい」
戸口で呼びかけた声はお栄だった。
善次郎は、
「追っ手もいっしょかもしれねえから、念のため、おめえは奥に隠れてな」
崎十郎を奥に追いやってから、おもむろに戸口へと向かった。
「どうして来たんだ。ここを知られたらどうするんでえ」
善次郎が叱る声が戸口から聞こえてきた。
「早く報せなきゃって思ったんだ。あたしだってちゃ~んと用心してるよ。舟でお茶の水河岸に着いてから辻駕籠を拾って、駕籠かきにはわざわざ『目赤不動さまにお参りして、ついでに名物の目黒飴を買うんだ』と言って下りたんだ。で、歩いてここまで来たってえわけだ」
上野の寛永寺の直末寺である南谷寺は目赤不動と呼ばれていた。
五色不動のひとつに数えられて信仰を集めており、歴代将軍の鷹狩の際の休憩所にもなっている。
桐屋の目黒飴が女子供の人気を呼んでいて、園絵に命じられてわざわざ買い求めに行った覚えがあった。
「急な用とはなんだ。早く中に入れ」
崎十郎も戸口に出て、お栄を中に引き入れた。
「ひどい顔つきだな、お栄」
崎十郎とは正反対に喜怒哀楽が顔に出るお栄だったが、色を失った顔にはなんの表情も浮かんでいなかった。
「これを読んでくんな」
お栄は棒読み口調で、崎十郎の鼻先に書状を突きつけ、
「真吾からの手紙だ」
ぶっきらぼうにつけ加えた。
宛名は『葛飾応為先生』となっていた。
嫌な予感を感じながら書状を開いた崎十郎は、善次郎にも聞こえるよう音読した。
――つらつらと思い返すうちに、己の心得違いに気づきました。
わたくしは祖父を殺害し火付けした下手人と同罪だと……。
あの夜、わたくしは、祖父、いえ父と語り合えて嬉しかったにもかかわらず、不埒な思いを抱いてしまったのです。
夜も更けて、父の心はまたも遠い彼方に去ろうとしていました。父は、
『情けない。なぜこのように恥さらしな木偶になり果てたものか。心が鮮明なうちにおのが身を始末すべきであった。徐々に己を失っていったゆえ、ついつい刻の流れに流されてしまい、いまとなってはその力ものうなった』
悲しい目でわたくしを見詰めました。
そう話すうちにも、父はまた夢の中へと帰っていきました。
どんよりとした目に戻った父は、
「煙草を所望じゃ」としつこくせがみました。
わたくしの心の片隅に、呆けた父が寝煙草で火事を起こせば……との良からぬ思いがふとよぎりました。
酔い潰れて寝ている兄も知るものかとも考えました。
なにもかもご破算になれば思う存分、画に打ち込めると……。
日頃、取り上げていた煙草道具をその晩に限って渡してしまいました。
ですから火事に気づいたとき、わたくしのせいだと身も世もなく取り乱したのです。
わたくしに祖父殺しの疑いがかかったことは、不埒な心を抱いた天罰です。
潔くお仕置きを受け入れる所存です。
師匠はじめ、皆さまには感謝してもしきれませぬ――と結ばれ、余白には、お栄の似顔絵がいくつも描き添えられていた。
「差し入れした紙や矢立は、遺書を書くためではなかったに……」
崎十郎は、静かに書状を畳んだ。
お栄は押し黙ったまま土間に突っ立っている。
「真吾は馬鹿だ。なぜ我々を信じて待てなかった」
善次郎が吐き捨てるようにつぶやいた。
「どこまで卑屈なのでしょう」
崎十郎は、己にもはね返ってくる〝卑屈〟という一語を噛み締めた。
と同時に、
(善意の塊のような真吾とて、自棄を起こすことはあったのだ。真吾も拙者と同じ、ただの人間だった)
安堵に似た気持ちが湧いてきて、初めて真吾のことが身近に感じられた。