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第37話  ひとたらしな善次郎

「監視の目が五月蠅くて困ったもんでえ。師匠の家から回向院まで、あちこち回り道してまいてきたんだ」


 火付盗賊改の役宅から解放された善次郎と、夕刻になってから、ようやくつなぎが取れた。


「格好の隠れ家がある。俺の見世にも近いからなにかと好都合でえ」


 善次郎の案内で、根津から六町(約六五〇メートル)ほど北西に位置する下駒込村へと向かった。


「顔を見られねえように近くまで駕籠で行こうぜ」


 善次郎の提案で、町駕籠を見つけて中山道を辿った。


 日本橋を起点とする中山道が日光御成道と分かれる本郷追分(駒込追分)で駕籠を下りて徒歩となった。


 善次郎は駒込片町にある菓子屋に立ち寄って落雁を買いもとめた。



 物乞いの扮装をした崎十郎と、上物を身につけた善次郎の身なりでは大差があるから、連れだって歩けば目を惹く。


 崎十郎は善次郎の二間(約三・六メートル)ほど後ろを歩いた。




 到着した隠れ家は吉祥寺近くの百姓地にあった。


「代々、植木師をやってる家でな、いまは半分、隠居した爺さんのひとり暮らしだ」


 辺りに、駒込七軒町(染井)のように広大な敷地を有する植木屋は一軒もなかったが、植木師の家が散在していて緑が濃く、色とりどりの花々が咲き乱れる華やかな地だった。


 ほのぼのと煙が立ちのぼる家の奥は深い竹藪だった。


 売り物だった苗木が長年、放っておかれたためだろう。


 前庭はまるで雑木林のようになっていた。


「甚八爺さん、俺だ」


 善次郎は気安く声をかけながら、板戸が開け放たれた田舎家のうちに入った。


 入ってすぐが土間で、古びた竈が置かれていた。


 左手の居床は薦敷で囲炉裏には鍋がかかっている。


 荒れ果てた様子で、さまざまなものが散乱していたが、食べ残しを腐らせた臭いがせぬだけ北斎宅よりましだった。


 薄暗い家の奥納戸口から、


「おお、坊ちゃまでごぜえますか、お珍しや」


 腰の曲がった老人が目をしょぼしょぼさせながら現れた。


「これ、落雁だ。爺さんの好物だったよな。ちゃ~んと覚えてるぜ」


 善次郎が差し出した紙包みを甚八はうやうやしく押しいただいた。


「実は、爺さんを男と見込んで頼みがあるんでえ。ちっとばかしわけありでな。なにも聞かずに、しばらくこいつを預かっちゃもらえねえか」


 戸口の外に突っ立ったままの崎十郎を指さした。


「へえ、へえ、お安い御用でごぜえます。誰にも口外するもんじゃございやせん」


 甚八は、あばらの浮き出した薄い胸板をどんと叩いた。


「さすが甚八爺さんだ。恩に着るぜ」


 甚八の肩をぽんと叩くと、善次郎はさっさと薦敷の居床に上がった。


「失礼いたします」


 崎十郎は丁寧に一礼して土間に足を踏み入れた。


「冷えたろう。酒はねえが暖まってくんな」


 勧められて囲炉裏の前に座すと、古びた湯飲みに入った白湯を出してくれた。


「甚八はこの家の次男でな。俺の生家に小者として働きにきていたんだ」


 善次郎の言葉に甚八は、歯がすっかり抜けた口でにやりと笑った。


「崎十郎も知ってのとおり、俺は、十七の時、讒言によって職を追われて浪人になっただろ。そのおりも、俺のためにずいぶんと肩入れしてくれたもんだ」


 懐かしげに語る善次郎の顔を見上げながら、


「こう見えても気っ風が売りでしたでな」と、甚八は日焼けした胸を張った。


 ついで、遠い昔に思いを馳せるような口調になって、


「たしかぼっちゃまが二十歳のときでしたな。あいついでご両親がみまかられて暮らしがいよいよ苦しゅうなられた。せんかたなく、わしはこの家に戻り、翌年、兄が亡くなったもので植木屋を継ぎやした。いまは隠居同然で、趣味を兼ねて細々と菊を育てていやす」と言い添えた。


 深い皺が刻まれた顔に光る眼光は、往事の名残か、強い光を宿していた。


「夕餉の支度をしておるところでしたで、ちょうどええ。鍋の具材を増やしたら三人くらいなんとか足りやす」


 甚八は、囲炉裏にかけていた鍋を鉄瓶にかけ代えてから、いそいそした動きで、土間に設けられた台所に立った。


「すまねえな。今度、また爺さんの好物を買ってくらあ。きんつばがいいか、大福も好きだったっけ」


「なら、亀屋の柏餅をお願げえしますだ」


 甚八は振り向いてニカッと笑った。


「爺さん、柏餅は春だ。無理を言うねえ」


「そういやそうでしたの。もうろくしちまっていけませんや」


 ふたりしていかにも楽しげにげらげらと笑い出した。


 気づけば崎十郎もつられて笑っていた。


(善次郎殿は女好きでいい加減な男ではなく、〝ひとたらし〟だったのだな)


 善次郎を少しばかり見直した。


 台所からは、甚八が包丁で野菜を刻む、とんとんという軽快な音が聞こえてくる。


「あくまで拙者の想像ですが……」


 出された白湯を飲みながら、善次郎と小声で相談を始めた。


「忠兵衛は隼人助に『出羽守さまがいたく同情され、国許で召し抱えたいとの仰せです。つきましては下屋敷にてしばらくかくもうてくださるご所存だそうでございます』などと言葉巧みにもちかけた、騙された隼人助が、下屋敷にほど近い百本杭までのこのこやってきた来たところで、待ち受けていた右膳が斬った……かと思います」


「隼人助は焦っていたから藁にもすがる気持ちだったろうな」


 善次郎は大きく頷いた。


「で……、右膳は、拙者らを狙う刺客の一味に加わったが、拙者も善次郎殿も手強かった。手順が狂った右膳は『崎十郎に辻斬りの濡れ衣を着せよう』と、咄嗟に考えを変えたのではないでしょうか」


「まずは右膳と忠兵衛のつながりを探ってみようぜ」


 右膳は忠兵衛に辻斬りの正体を知られたために脅され、利用されていたのだろう。


 ここまで考えて、先日、纒持ちの孫一が弟分と話していた記憶がふと蘇った。


「忠兵衛が火消仲間に吹聴していたという自慢話が気になりますね」


「ともかく、俺が妾のお吉にあたってみらあ。忠兵衛とは長いから事情に詳しいはずでえ。お吉は俺の画に心酔しているから色仕かけで聞き出せるかもしれねえや。まだ町木戸が閉まるにゃ間があらあ。これから行ってみっから、崎十郎はここを動くんじゃねえぞ」


 善次郎は張り切って植木屋を飛び出した。


「おや、雑炊をたくさん作りやしたのに、坊ちゃまはもうお帰りですかい」


 甚八は間延びした口調で言いながら、煮え立った大きな鍋を囲炉裏にかけた。


「たくさん食べてくだせえよ」


 青物や茸が放り込まれて味噌で味付けされた心尽くしの雑炊だったが、味が少しも感じられず、食べた気がしなかった。


 甚八が貸してくれたかび臭い布団に伏したが寝付けなかった。


 粗末な荒ら屋は天井板がなく、梁が剥き出しになっていた。


 黒く煤けた太い梁を見上げていると、雪のように白いというより、大福のようにふっくらとした園絵の顔が思い浮かんだ。


(頼りの息子が辻斬りと聞かされて、さぞや動転されたであろう)


 年齢が年齢なだけに、心労で倒れる恐れがある。


(このようなことになるとは……。もう少しいたわってさしあげておれば良かった)




 鬱々として寝返りばかりうっている間に夜は白みかけていた。


 雀のさえずりがのどかに聞こえる。


 百舌の甲高い鳴き声が間近で響いたとき。


「俺だ。開けてくれ」


 表の板戸を叩く音に慌てて戸口に向かった。


「おい、崎十郎、わかったぞ」


 寝不足で目を血走らせた善次郎が、興奮を抑えきれぬ口調で告げた。


「右膳は忠兵衛の実子だった」


 善次郎は、たくし上げていた着流しの裾を下ろして土座の囲炉裏端に陣取った。


 中納戸から出て来た甚八は、気を利かせて外に出ていった。


「忠兵衛は金の力で、旗本雨宮家に、実子として右膳の丈夫届を出させたんだ」


「発覚すれば絶家となるため、ひた隠しにしていたというわけですね」


「近頃になって忠兵衛は、酒の席で『実は我が子は……』と自慢げに明かし始めた。むろんはっきり名を出しちゃいねえ。けど、あれこれ詮索する者もいただろうな」


「忠兵衛のもうろくを危惧した右膳は、名前が漏らされる前に始末したわけですね」


「ある晩、したたかに酔った忠兵衛は、お吉に『あいつは火消の頭なんぞにおさまる器じゃねえ。とてつもねえ出世をする男だ。わしが金の力で偉いお方に橋渡ししてやる』と漏らしたそうだ」


「出羽守に取り入って、しかるべき地位で召し抱えてもらおうとしたのでしょうか」

 忠兵衛の愚かな親心が憐れだった。


「しかし、これからが難しいですね」


 崎十郎の嘆息に、善次郎は、


「お吉が寝物語で俺に漏らした話だからな。残念なことに確たる証拠がねえんだよな」


 囲炉裏の縁を拳で叩いた。


「出羽守さまは、あらためて達磨図の大画即書を所望されていました。もう一度、伺って探りを入れてはどうでしょうか」


「俺もそれを考えていたところだ。よし、いまからすぐ師匠宅に頼みに行こう」


 善次郎はあたふたと出て行った。


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