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第17話 火事が真吾の屋敷とは驚いたぜ

 予想したより早く戻ったため、園絵はすこぶる機嫌が良かった。


 襖一枚を隔てた園絵の部屋からは、気持ちよさそうな寝息が聞こえてくる。


(どうしても眠れぬ。あの愚鈍丸出しな丸々と肥えた顔を思い出すと、むしゃくしゃしていかん)


 なにごとも他人のせいにしてしまう隼人助が許せなかった。


(裏剣客となって隼人助の髷を斬り落としてくれよう。当分、恥ずかしくて女遊びにも出られまい。いや、あのような破廉恥漢ならば頭に頭巾をかぶって出かけるであろう)


 考えているうちに、ようやく深い眠りに落ちた。




「ん?」


 どのくらい眠ったのか、どこからか漂ってくる異臭に気づいた。


「養母上、起きておられますか。火事でございます」


 襖越しに声をかけた。


「なんと」


 床から身を起こして身じまいを正す衣擦れの音がしたあと、襖が音もなく開いた。


「幸い、火事は遠そうですが、拙者が見てまいります」


 乱れ籠から袴を出してはき始めた。


「慌ててはなりませぬぞ、崎十郎殿、いかなるときも身なりから整えねば。崎十郎殿はだらしなくていけません」


 園絵が手際よく手伝ってくれたおかげで、ぴしりと着付けが決まった。


「では、行ってまいります」


 大小を腰に帯びて取次ノ間から玄関の土間に下りた。


 すぐにも飛び出したいが園絵に見られている。

 一呼吸してから、おもむろに草履を履いた。


「お気をつけていってらっしゃいませ」


 園絵は、姿良く、優雅にお辞儀をした。



 お勤めの日は、綺麗に身繕いして薄化粧した園絵が、丁寧に礼をして送り出してくれる。

 加瀬家の当主たる自覚が湧いて心が引き締まるものだが、心が急いているおりは煩わしかった。


「旦那さま、火事は、蔵地さまのお屋敷のようでございます」


 木戸門から外の様子を窺っていた下男の六助が走り寄ってきた。


「なに! 真吾の家とな」


 前庭を駆け抜けて通りに飛び出した。


「これ崎十郎殿、武士が走るなど、もってのほか……」


 園絵の叱責する声が追いかけてきたが、すぐに聞こえなくなった。



 蔵地家は加瀬家から一町(約百メートル)ほど南にあって南割下水に面している。

 崎十郎は割下水の方角へ向かった。


 本所はもともとが湿地だったため水はけが悪かった。

 雨水を排するために、道の真ん中を掘って割下水が設けられている。

 ちなみに〝割下水〟という場合、南割下水を差した。


 下水と名がつくものの水は澄んでおり、川魚、沢蟹、蛙などが多く棲んでいる。


 喧噪に包まれたいまは、さらさらと心地よく流れる水音も聞こえなかった。


「確かに、蔵地家に相違ない」


 火事の炎で真昼のように明るくなった通りを急いだ。



 周辺の武家屋敷からも次々に人が出てくる。


 半鐘が連打される音が鳴り響いて不吉な音が心を乱した。


 園絵の目が届かぬことを幸いに、ばたばたと袴の裾をはためかせながら走った。



 屋敷の近くまで来ると、すでに大勢の人が集まっていた。

 火の粉を避けて割下水を挟んだ反対側で見物している。


 割下水の屋敷側に立てば、顔も手も焼けるように熱かった。


 蔵地家は四百余坪の敷地があって、母屋は百五十坪ほどだろうか。


 夜空を焦がす紅い炎の舌が、表通りに面した長屋門の軒を舐めている。


 杮葺こけらぶきの屋根の薄板が、まくれて次々に舞い上がる。

 長屋門の奥に見える母屋が断末魔の悲鳴を上げていた。

 視界を深紅に染めて炎が舞い踊り、轟々という音が耳を圧した。


「気がつきましたときは、すでに手をつけられぬさまでしてな」


「火の回りが、ことのほか早かったそうでございます」


「蔵地家の方々は、ご無事か」


 武家主従が興奮した様子で話していた。

 気遣っているようで、どこか楽しげに聞こえた。


 手桶を手にした六助が割下水から水を汲んで火にかけ始めたが焼け石に水である。


「おい、崎十郎、えらいことだな。火の手を見て、もしや、おめえの屋敷じゃねえかと相生町からすっ飛んできたんだが……。真吾の屋敷とは驚いたぜ」


 上擦った声で善次郎が声をかけてきた。

 炎のせいで顔が仁王のように赤い。


「このような夜中まで親父の家におられたのですか」


「午過ぎにちょっと立ち寄ったつもりが、いつものように長居しちまってな」


 善次郎は苦笑した。

 北斎、お栄の筆さばきに魅入られて帰れなかったのだろう。


「火消しはまだか」


「来たって無駄だよ」


 周辺の町屋の住人たちも大勢やってきたが、騒ぐだけでなすすべもない。


 六助を真似て、割下水から水を汲んで消火につとめる者もいたが徒労でしかなかった。


 風がなく、隣家に燃え移る恐れがないだけがせめてもの救いだった。

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